見上げる小さな影法師(8)
「これ、いくらしたの?」
そのネックレスは、詩乃が高校二年生の時に買って、高校三年生の夏に柚子に贈ったものだった。
「もう忘れちゃったよ」
忘れるわけないでしょ、と柚子は思った。値段の事はあまり言いたくなかったが、額で言えばそれは、社会人だって相当の覚悟をしなければ買えないような、そんな代物である。他にも柚子は、簪、オルゴールといった、かなり高価なプレゼントを詩乃から貰っていた。
そして近頃も、ランニングのためのウェア一式から始まり、食費や、現金払いの消耗品費は全て詩乃の財布から出ている。そもそも再会した直後に、詩乃は全財産の入った通帳とカードを柚子の前に差し出し、その暗証番号を柚子に教えているのである。
「なんか私、金のかかる女みたいじゃん」
「かかるというか、かけなきゃいけないような気がするというか……」
「えぇ、やめて! 私をそんな悪い女に仕立て上げないで」
詩乃は笑ってから言った。
「でも実際、新見さんと付き合いたいって思ったら、そういうものをプレゼントできるような何か、自信が無いと、新見さんにはとてもアタックできないと思うよ」
「そんなこと――」
「でも実際、そうだったんじゃない? いろんなプレゼント、貰ったでしょ? あと、肩書きも、自分みたいなフリーターじゃない、立派なのを持った人が多かったんじゃない?」
柚子は、きゅっと唇を窄めた。
事実は、詩乃の言う通りだった。
詩乃は、ふつふつと笑いながら言った。
「こんなレンタカーのバンに、新見柚子を乗せてるなんて知られたら、たぶん自分、男連中からものすごい反感買うよ」
「全然私、そんなんじゃないよ」
「つもりが無くてもそうなんだよ。自分も凡人だから良くわかるけど、金は自信になるんだよ。拠り所の無い自信なんてなかなか持てないから、財力とか、そういう、ナントカ力ってつくものを自分の価値に置き換えてね、そうすると、自信になるでしょ」
「それは、詩乃君でもそうなの」
「そうだよ」
「え、そうなの!?」
柚子は驚いた。
詩乃は、そういう、俗物的な世界とは無縁の世界観の中で生きているものとばかり、ずっと思って来たのだ。
「そうだよ」
詩乃は、抑揚を持った声でそう言った。
「いや、プレゼントは、そんな見栄のためじゃないよ? 新見さんに似合うだろうなって思ったものを選んだら、たまたまそういう値段だったってだけで。でも根本的には、やっぱりね、自分みたいなのが新見さんと付き合うなんて、何か間違ってるような気持ちになる時がある」
「……だから、就職なの?」
詩乃は、渋い顔で頷いた。
「――でもそれだって、全然足りないと思うよ。本当は、例えば一流三ツ星レストランのオーナーとか、オーナーじゃなくても料理長とか、作家だったら、なんとか賞受賞作家とか、そういうのじゃないと、とても釣り合わないと思う」
詩乃にそう言われると、柚子は少し寂しい気持ちになった。
「そんなこと言わないでよ……」
柚子はそう言いながら、詩乃の腿に手を置いた。
「ごめん、でも――」
「嘘、やっぱり言ってもいい」
「え」
詩乃は困り顔で笑った。
どうしたらいいのか、柚子も困っていた。釣り合わないなんて、思ってほしくない。だけどそういう心の内を出してくれるようになったことは、嬉しい。言わないで、なんて言ってしまったら、本当に詩乃君はそれを言わなくなってしまう。そしてある日突然、溜まりにたまったものが、心のダムを決壊させて、鉄砲水のようにどっと全てを洗い流してしまう。
「でも私は、そんな風には思ってないからね」
柚子の言葉に、詩乃は頷いた。
詩乃も、そんなことはわかっていた。しかしわかっていても、直接そう言われると、少し気持ちが楽になるのだった。
「ね、ハンバーガー食べたい」
「ハンバーガー?」
「あとポテト」
「あぁ、確かに、そういうの食べてないね。店入る?」
「車が良いな」
「じゃ、ドライブスルーだね」
詩乃はそれから、モスバーガーを探すよう柚子に言ったが、柚子は、マクドナルドが良いと言い張った。詩乃自身は、特にこだわりはなかったので、柚子がそう言うならと、『M』の看板を探した。
高速道路に入る前に店は見つかり、帰り道、二人はハンバーガーを食べ、シェイクとコーヒーを飲み、ポテトを摘まみながら帰路についた。
柚子は、運転する詩乃の口にポテトを運んだり、ハンバーガーを持って行ったりして、その餌付けを楽しんだ。実はそれをするために、柚子は車で食べたいと言ったのだ。詩乃は、恥ずかしがりながらも、運転中ではどうしょうもないので、柚子の手と指を頼った。
詩乃にポテトをあげたあと、その指をペロッと舐める柚子の所作が何とも艶めかしく、詩乃を悩ませた。
「詩乃君、ドライブ好き?」
詩乃に食後のコーヒーを飲ませて、柚子がそんな質問をした。
詩乃は少し考えてから応えた。
「車によるかな」
「好きな車ある? 乗りたい車とか。あ、スポーツカー?」
柚子がこれまで付き合って来た男は、大抵車はスポーツカーに乗っていて、その助手席に柚子を乗せたがった。ツードアで、いかにも速そうな流線型のフォルム、誰もが知っている高級車メーカーのフラッグシップモデル。しかしいざ柚子を乗せると、どんなに速い車でも、モンスターのようなエンジンを積んでいても、急におとなしくなった。
助手席の柚子は、車そのものよりは、車の走らせ方の方に自然と注意が向いた。
「この間のアルファロメオみたいのがいいかな。――あれは、かなり良かった」
詩乃が言った。
ふむふむ、と柚子は頭のメモ帳に詩乃の車の好みについてを書き込んだ。柚子は、車について詳しいわけでもなく、最近まで、さほど興味も無かった。運転免許も持っていない。しかしそれが、詩乃の運転する車の助手席に乗ってから、考えが変わった。
「セダンでいいの?」
「セダンが良いんだよ。車はスポーツセダンに限るよ」
よし、と柚子はまた一つ、詩乃の好みを解き明かし、嬉しくなった。
詩乃は普段、事によっては遠慮して好みを言わないことがあるが、柚子は、詩乃の好き嫌いが激しいのをよく知っていた。そしてそれは、食わず嫌い的な好き嫌いではない。感性から来る凄まじいこだわりが、詩乃にはあるのだ。
例えば詩乃は、「メリット」「デメリット」「ニュアンス」という言葉を使わない。「瀟洒」「唯一無二」「蒼穹」「美麗」……詩乃の嫌いな言葉や単語は、柚子が知っているだけでもかなりあった。文章で言えば、詩乃は大抵どの本の文章も気に喰わないらしく、よく不機嫌な様子で本を読んでいたりする。時によっては文章相手に舌打ちさえしている。詩乃が、何にでもそのこだわりを持っているとは限らないが、大抵のものについてはそれがあると、柚子は見ていた。
しかし詩乃自身が、その自分の異様なこだわりを理解しているので、普段は、何についても好みを隠している。ドラマも映画も一緒には見ない、柚子が自分の読んだ小説の話をしたときでも、詩乃は自分の意見を絶対に言わない。それは全て、詩乃が自分のこだわりの強さを自覚しているからだった。
「じゃあホントにあの、前に借りた、ああいうのが好み?」
「あれはいいね」
「何が気に入ったの?」
「形も、運転の心地も良かったな」
なるほどと、柚子はにまにま笑顔で頷いた。
嫌いなものがある一方、詩乃にも当然好きなものもある。嫌いな物よりははるかに少ないが、好きなもの、気に入ったものに対しては、詩乃はこれも、ただ「好き」というのではなく――嫌いなものに憎しみめいた感情を抱くと同じように――「好き」に対しても詩乃は、「崇拝」のような感情を抱くようだった。詩乃の「好き」が、普通の人の「好き」よりも遥かに強い感情を伴っているのを、柚子は知っていた。
「車、買わない?」
「え、急にどうしたの」
「詩乃君とドライブ行きたい」
「え」
柚子の提案に、詩乃は意表をつかれた。
車を買うなんて、今の今まで、考えもしていなかった。
「俺の貯金じゃ買えないよ」
「私と詩乃君の貯金なら、買えるよ。ローンもあるし」
「え……」
「だめ?」
「いや、いいけど、それは……新見さんのお金だから使い方は――」
詩乃のその言い草に、柚子はむっと頬を固くした。
「二人のお金だよ」
「それはダメだよ。自分なんて、新見さんに比べたら――」
「比べなくていいの!」
「えー……」
そう言われてもなぁと、詩乃は思った。
「あ、じゃあ、私からのプレゼントってことで手打たない?」
「……そんなのされたら、完全にヒモ街道まっしぐらだよ」
「ヒモ……」
柚子は、小さく呟いた。
ぞくぞくと、柚子は腰椎の裏側当たりから、背徳的な喜びが沸き上がってくるのを感じた。詩乃を自分の泥沼に捉え、ずぶずぶと、逃れることのできない自分の奥深くへと沈ませていく。私無しでは生きていけないように。
「それ、いい」
恍惚とした声音で、柚子が言った。
詩乃は表情を強張らせた。首筋にひやっと、寒気を感じた。
「新見さん……ダメ男製造機?」
「何それ! 詩乃君、失礼!」
柚子はそう言うと、ポテトの最後の一つを詩乃の口に押し付けた。
一々行動が、全部可愛いんだよなぁと思いながら、詩乃はぱくりと柚子の人差し指ごとポテトを口に入れた。驚いて指を引っ込めた柚子の顔を見て、詩乃の悪戯心はそれで満足した。
柚子は、詩乃に一瞬咥えられた人差し指をじっと見つめ、それから、無言で詩乃の口元に、人差し指を持って行った。
「んん!?」
詩乃は唇をピタッと閉じ、柚子の人差し指から逃れた。
悪戯にしては、人差し指の力が強い。
そして何より、柚子の瞳が妙な輝きを放っている。
「もう一回、試しにもう一回咥えてみて」
「なんで、ん!」
ぶんぶんと首を振りながら、詩乃は何とかハンドルだけは握り続けた。新見さんとのドライブは、毎回こんなに命がけになるのだろうかと、ついに首をくすぐり始めた柚子の指に抵抗しながら、詩乃はそんな事を考えた。