見上げる小さな影法師(7)
柚子とは違い、詩乃の動きは乱暴だった。これくらい雑でいいんだよと、詩乃にしてみれば、柚子に手本を示したつもりだったが、柚子は、そんな詩乃の雑さ、荒さを面白がりながら、自分はあくまで大事に大事にと、詩乃の本を扱った。
そして柚子は、次にどんな本が出てくるかという事にも、面白さを見つけていた。なにしろ詩乃の持っている本は、バラエティーに富んでいる。文芸書だけとか、専門書だけとか、そんなことはない。マンガの八巻目だけがあったかと思えば、分厚い奇怪小説がぼんと置いてあったり、かと思えば、日本霊異記や浄瑠璃集があり、その山の隣には恋愛小説だけが積み上がっていたりする。
「――『現代の電子戦 ドッグファイトの真実と戦術』。詩乃君、すごいの読むんだね」
柚子は口にしたタイトルの本の表紙を見ながらそう言った。
F―2戦闘機の正面写真だが、柚子にはもちろん、戦闘機という事しかわからない。
「あぁ、それね」
詩乃は、確かにこんな本、柚子が読んでるわけないなと思った。
「『賊民の中世史』、『古事記』――」
「一応、資料としてね」
と、柚子は近くに、動物と自然の写真集を見つけて手に取った。
表表紙は雲海の山々、裏表紙には岩に立ち地平線を見つめているマヌルネコの写真が大きく載っている。
柚子は思わずページを開いた。
人間のスケールを遥かに超えた山、空、果ての無い大地の朝焼けと夜空。カメラ目線で首をかしげるルリガラ。がっしりした馬に頭をくっつける遊牧民の子供。この世界にそんな風景があることを、柚子は今の今まで忘れていた。
二人は、そんな風にして、たまに寄り道をしながら、本を片付けていった。本を片付けると、それで引っ越しの荷運びの準備はほとんど終わった様なものだった。詩乃は、服も大して持っていなければ、家具も、柚子の家に持って行くつもりのものは無かった。食器類では唯一、調理用具だけは何点か持って行くことになったが、他は全て、後日やってくるリサイクル業者に売ることにした。
持って行くものをすべて箱に詰めて車に乗せた後、詩乃は、まだ余裕のある車の中を、後方のハッチドアを開きながら眺めた。
段ボール数箱――それだけで簡単に家を出ていける。
詩乃はそんな自分が悲しかった。
段ボール数箱の生活が悲しいわけでは無い。また、場所や空間を占領するようなモノ集めや、釣りだとかゴルフだとか、趣味道具とは無縁の自分をつまらなく思ったわけでもない。
詩乃が悲しかったのは、自分の、淡白すぎる性だった。
こっちに戻ってきてから三年間、確かに自分は、ここで生活していた。それなのに、出て行くとなれば、運ぶ面倒くささや、捨てることの清々しさが、物への執着を遥かに勝ってしまうのだ。そしてそれの本質は、物への執着の無さではなく、物に積もっている思い出への執着の無さだ。
思えば、その前――七年を過ごした茨城の家を出る時も、同じように、段ボール数箱で済んだ。きっと、七年住もうが、七十年住もうが、自分は段ボール数箱分の情しか持てない人間なのだろう。その数箱だって、自分には多いような気さえする。一箱にしろといわれれば、簡単にそれ以外のものを捨てられる気がする。――いや、柚子に気を遣うなと言われなければ、本当にそうしていたかもしれない。あるいは、もう全部リサイクルショップに任せて、トートバック一袋だけでも良かった。
詩乃は、ぞくりと背筋を震わせた。
悲しさの後に感じるのは、自分への恐怖だった。
「やっぱりもうちょっと持ってく?」
柚子は、詩乃の腕に触れながら、ぼーっとしている様子の詩乃に訪ねた。
詩乃は息を呑み、柚子の顔を見た。
自分は、柚子についても、同じように思っているのだろうか。
その時が来れば、簡単に柚子の思い出の詰まったものを捨ててしまうような人間なのだろうか。詩乃は、自分の情というものに確信が持てなかった。
「ううん、もういいよ」
詩乃はそう言うと、ハッチドアをバタンと閉めた。
柚子を助手席に乗せ、詩乃の運転でミニバンが出発する。
「予定より全然早かったね」
「うん」
「ホントにあれだけで良かったの?」
「うん、別に、持って行きたいほどのもの、無かったから」
「そっか」
柚子はそう返事をした後、続けて言った。
「でも嬉しかったな、詩乃君が、私のプレゼント全部取っといてくれたなんて」
「全部じゃないよ」
「え、そうだっけ?」
「うん。靴が」
「あぁ!」
柚子は、そういえば、そんな贈り物もしたなぁと思い出した。
高校三年生の五月四日、初めて詩乃を家に呼んだ日だった。
「カレー記念日だ!」
「そんな記念日だっけ……」
「そうだよ。覚えてるでしょ、初めて会った日!」
「いや、初めては始業式だよ、高校二年生の」
「詩乃君、始業式来てたっけ?」
「……休んでたかも。覚えてない」
柚子はそれを聞いて笑った。
「まぁ確かに、初めて会ったのは、四月だったよね。同じクラスだったし。っていうか詩乃君、同じ班だったもんね。林間学校の話し合いしたもんね。――その時詩乃君、全然話してくれなかったけど」
「それは、ごめん」
「私の事嫌いなのかと思ってたよ」
「いや、優しい人だなぁって」
「じゃあ話してよ!」
「いや――」
詩乃は、当時の自分を思い出し、小さく笑った。
「話すことなんて無かったんだよ。林間学校だって、本当は休もうと思ってたくらいだし」
「え、そうだったの!?」
柚子にとって、そのことは初耳だった。
「うん。でも、新見さんがさ、すごく一生懸命だったから、休んじゃ悪いかなぁって」
「そうだよ、休んじゃ悪いよ! え、でも、じゃあ私いなかったら――」
「全然休んでた」
「えぇ……」
詩乃は高校二年生に上がるときに、柚子の通っていた高校――私立茶ノ原高校に転入してきた。茶ノ原高校では一年生の時にも林間学校があるので柚子にとっては二度目の移動教室だったが、詩乃にとっては最初で最後の林間学校だった。三年時には、もう移動教室のような行事は無いのだ。
その行事を、詩乃が進んで欠席しようと思っていたなんて、柚子は考えもしていなかった。
「なんで?」
「一人でいる方が好きだから、かな」
「私とは、大丈夫?」
「それは――」
詩乃は、何を今更と思い、笑った。
「新見さんだけだよ、大丈夫――というか、新見さんの場合は、一緒にいたい、かな」
えへへ、と柚子は笑った。
詩乃は、口数は多くないが(と言って、実は特別少ないわけでもない)、たまに恥ずかしげもなく、直球の愛情を口にする。しかもその剛速球は、何の予備動作もなくいきなり放られるので、そのたび柚子は「また来たか」と思いながらも、照れてしまうのだった。
「でも、なんで私は大丈夫なのに、他の人とはダメなんだろう。そんな、行事休むほど」
「あぁそれは、わかり切ってるよ」
「え、そうなの?」
「うん。話聞いてくれない人とは一緒にいたくない」
「ええ!? でも詩乃君、そもそも話の輪に参加しなかったじゃん!」
「そんなの、聞く耳を持ってるかどうかなんて、輪に入らなくてもわかるよ」
「そういうものなの?」
「それは、そうだよ」
「じゃあ私は――でも最初、詩乃君私の事、嫌ってなかった?」
「全然」
「じゃあ、苦手だった?」
「全然」
「え、そうだった? ホントに?」
「本当だよ」
「じゃあなんで班会議の時何も言ってくれなかったの……」
「他の人がいたから」
「他の人がいてもさ……」
「嫌だよ」
柚子は、詩乃の頑なさにまた笑った。
話がそこまで行くと、自然と柚子は、その〈カレー記念日〉の由来となった時の事を思い出した。それは、林間学校の二日目の夜だった。柚子がカレーの鍋をひっくり返し、保健委員だった詩乃が、柚子の手当てをしたのだ。それが全ての始まりだった。
その夜、柚子は班長会議の後、詩乃にお礼を言うために詩乃を探していた。すると詩乃は、炊事場で野菜を切っていた。こんな時間に何をしているのかと柚子は詩乃に声をかけたが、詩乃は夕食を作っているとだけ言って、柚子の優しい注意を聞かず、切った野菜をビニール袋に入れると、それを持って一人森の中に入っていった。柚子も、詩乃だけを森の中に放置するわけにもいかないので、詩乃についていった。
三分ほど歩いた先の森の中には、ちょっとした空間が森林の中にぽっかり空いた場所があり、詩乃はそこに、コンロや鍋を用意していた。柚子が見ている間に、詩乃は、あれよあれよと、鍋にカレーの具材を入れ、少しすると、あたりにカレーの美味しい匂いが漂い始めてきた。
「新見さんも食べる?」
と、カレーができた後、詩乃は柚子に食パンを勧めた。その食パンは、皆が風呂に入ったり、柚子が班長会議をしている間に、こっそり宿場を抜け出して、山の麓のコンビニで買って来たものだった。
それがカレー記念日の起源だった。
そしてその一年後、柚子は詩乃を家に招いて、カレーをご馳走した。靴はその時柚子が詩乃に渡したものだった。詩乃が、あまりにもボロボロの靴を履いていたので、いつか靴を買ってあげようと、かねがね柚子は思っていたのだ。
「靴、また買ってあげる」
柚子が言った。
「え、そんな、悪いよ」
「何言ってんの」
柚子はそう言って笑った。
「詩乃君、金額で言ったら、ものすごい額私に使ってるよ。私、知ってるよ」
「え、そうかな?」
はぁ、と柚子はため息をつく。
それから柚子は、首にしていたネックレストップをシャツから出した。