見上げる小さな影法師(6)
二月の最終週になるまでに、柚子は何度か会社に出向いた。
アナウンサーは、カメラの前に出ることだけが仕事じゃない。もちろん、主戦場はそこだが、表に出なくともやることはある。特に柚子には、四月からの番組のこともある。〈さたさんぽ〉と〈トレンドアップ!〉。〈トレンドアップ!〉の方はこれまでナレーションだけの担当だった柚子だが、四月から番組の内容が若干変わり、柚子がロケ先でのガイドキャストをする回があるということだった。
復帰に向かって動き出した柚子を、決して皆が応援しているわけでもなかった。柚子を退けたい派閥もいる。柚子の座を狙う女子アナ、柚子を退けて、その枠で自分の囲った新人をデビューさせたいプロデューサー。
「たっぷり寝たから元気なんじゃない?」
「もうおばさんだからね、もっと寝てていいのにね」
「あんな休んで今更復帰とか、絶対誰か上の人と寝たでしょ」
「ね、噂あるよね。ああいう純粋そうな女が好きなのよ、男は」
と、そんな様な陰口を叩かれながらも、しかし柚子は、へこたれなかった。
そういう声を聞いた日は、柚子は家に帰ると、詩乃と多めのスキンシップを取った。
「私もう、歳なのかなぁ?」
ソファーで二人、寄り添いながら柚子にそんな事を聞かれ、詩乃は困惑した。柚子はまだ二十八で、そもそも年齢を気にする歳じゃないと詩乃は思っていた。その上柚子は、詩乃がすっかりやめてしまったランニングも続けている。それに加えて、体型を維持するためのエクササイズも欠かさない。当然、肌のケアなどにも余念がない。
「歳って、年齢?」
「うん。老けて見える?」
柚子がそんな事を聞いてくるので、詩乃は笑ってしまった。
本気でそんな事を聞いているのかと思った。
日々の積み重ねで磨き上げられた柚子の美は、ただ若いだけでは到底たどりつけない境地にあると、詩乃は思っていた。ずっと一緒にいるのに詩乃は、未だに柚子を見ると、ただ見ているだけでドキドキしてしまう。笑顔に殺される日も近いのではないかと思うことも良くあった。
「あのさぁ、新見さん……」
「なあに?」
詩乃の胸に頭を預けながら、柚子は甘い声で聞き返した。
「新見さんが一番だよ」
ため息交じりに、詩乃は言った。
色々と言葉を考えたが、その言葉が最も端的に自分の意見を伝えられると詩乃は思ったのだ。そしてその言葉の効果は、柚子にはてきめんだった。
「本当?」
柚子は詩乃に膝枕をしてもらうような格好になり、詩乃の顔を見上げた。
「本当、本当」
「じゃあ、撫でて」
「はい」
詩乃は、柚子のリクエスト通り、柚子の頬や頭を、猫を撫でるように撫でつけた。柚子はうっとりと目を細くして、頬をふにゃっと蕩けさせた。――テレビに復帰したら、こういう顔もモニターに晒してしまうのだろうかと、詩乃は微かにそんな苦い思いを抱いた。
すると柚子は、詩乃のそんな心配を察したように、撫でる手を止めた詩乃の頬に両手を伸ばした。そうして、アライグマが獲物を洗う時のように、がしっと詩乃の頬をその手で押えた。
「私も、詩乃君が一番」
柚子はそう言うと、ぐいっと詩乃の首に両腕を回して、詩乃の首から頬、頬から唇へと、唇を押し当て、移動させた。柚子の唇や鼻から、切羽詰まった様な息継ぎの吐息が漏れた。柚子の目は、涙が浮かんでいるように潤み、その瞳に切なそうに見つめられると、詩乃の心臓はいよいよ熱くなった。
「引っ越し、今週中にするよ」
詩乃は、柚子の耳元で言った。
「引っ越し屋さん?」
「ううん、自分でやる」
「私も一緒にやる。いい?」
詩乃が頷くと、柚子はにこりと微笑み、詩乃をソファーに押し倒した。
「私、力持ちだから」
馬乗りのようになった柚子を下から見上げながら、「本当だ」と詩乃はそう言って、柚子の背中に手を回し、ぐいっとと引き寄せた。柚子は、抗えない男の力強さを感じると、目を閉じた。
それから三日後、詩乃はレンタカーを借りて、この時の宣言通り、柚子を連れて北千住の家へと向かった。
北千住駅から徒歩五分ちょっと、荒川河川敷の堤防裏にひっそりとたたずむアパートが詩乃の家だった。一階の角部屋、日照時間が少ない分家賃は安い。一方通行の路地裏に、借りてきたミニバンを止め、柚子と詩乃は、段ボールを持って、二人で家に向かった。
「あ」
と、詩乃はアパートの扉の前で、あることに気が付いた。
「鍵、開けっ放しだった」
「ええ! ホントに!?」
「うん」
詩乃は笑いながら、扉を開けた。
一人暮らしには丁度良いくらいの1K。水気の無くなった台所の流しには、干からびた米粒のついた茶碗と箸が置いてある。高校時代、詩乃が住んでいた家と同じような間取りの家で、柚子は懐かしさを覚えた。
リビングの扉は開けっ放しで、廊下からでも部屋の様子が見えた。
本の中に布団が埋もれ、廊下側を向いたデスクにはモニターと、そしてウィスキーの瓶に、ショットグラスが置いてある。その机の周りも、椅子の周囲も、本で埋め尽くされている。
柚子はその有様を見て、くすくす笑った。
我ながら雑然とした部屋だなと、詩乃は顔をしかめた。
「やっぱり、詩乃君のお部屋だね」
「汚部屋だね……」
「そんなに汚くないと思うよ」
詩乃の後について、柚子もリビングに入った。
埃っぽい匂いに顔をゆがめながら、詩乃はベランダのガラス戸を全開した。
「持ってくものっていっても、本くらいしかないんだけどね」
「え、でも服とかは?」
「これだけだから」
と、詩乃はクローゼットを開けた。
上着が数着と、その下にはアクリルボックスがあり、そのボックスとその周りに、シャツやらズボンやら下着やらが散乱している。
「面倒だから、もう全部捨てちゃってもいいんだけどね」
詩乃は、パソコンの正面に回りながら言った。
そこでふと柚子は、PCデスクの隣、腰丈の本棚の上に、見覚えのある品々が綺麗にレイアウトされているのを見つけた。緑の万年筆、革の栞、1ペンス硬貨二枚、ペンギンのキーホルダー、懐中時計。四角く畳まれた白黒チェックのマフラーの上には、青い手袋が置かれている。
それらは全て、高校時代に柚子が贈ったものだった。
誕生日、クリスマス、合宿のお土産――柚子は、詩乃にプレゼントを選んでいた高校生の自分の気持ちを思い出した。そして、それぞれの贈り物を渡したその時のことが、ありありと、柚子の脳裏によみがえった。どの贈り物の思い出も柚子に心の中に、鮮明に残っていた。
「箱根、行ったよね」
柚子は、懐中時計の金の背を指で撫でながら言った。
「私あの時、船で寝ちゃったんだよね。二周か三周、湖ぐるぐるまわっちゃって、詩乃君にずっともたれかかってたんでしょ? 重かったよね」
次に柚子はペンギンのキーホルダーを摘まみ上げた。
「これ、名古屋合宿のお土産だよね! 私のとセットだったの、覚えてる? 帰ったらくっつけてあげようね」
「このマフラーと手袋、あんまり使ってくれてないでしょ? まだ新品みたい」
そうして次に柚子は、緑の万年筆を手に取った。
詩乃への、最初の贈り物である。
九月二十日、詩乃の誕生日。しかしその日は、詩乃が寝込んでいたので、渡したのは翌日だった。誕生日とその前の二日間、熱を出した詩乃を看病したのが、柚子だった。
「あの時、なんか私、すごい強引だったよね。勝手に家あがって――」
柚子は笑顔のままに、ほろほろと涙を流していた。
詩乃が、自分との思い出を大事にしていたのが堪らなく嬉しかった。
詩乃は柚子から万年筆を受け取り、それを、シャツの胸ポケットに差し込んだ。
「今日からまた、これを使おう」
詩乃はそう言うと、柚子の涙を指ではじいて拭き取った。
最後に柚子は、革の栞に触れた。
それは、別れの時、詩乃が高速バスに乗り込む前に柚子が渡したものだった。
――私を忘れないで、ずっと心にとどめておいてね。
その想いを、柚子は栞に込めたのだ。
「栞も、使ってなかったの?」
「使うと、どこにやったかわからなくなっちゃうから。結構、やたらと栞使う方だから」
詩乃は笑いながら答えた。
柚子は、机の上に積み上がった本を見て、なるほどと思った。
一冊の本に対して、三枚、四枚、五枚と栞が挟んである。それが、一冊二冊ではなく、机の近くにあるほとんどの本が、複数枚の栞を咥えている。確かにこういう使い方をしていたら、どの栞をどこに挟んだかなんて、覚えてはいないだろう。
「随分使うんだね」
「うん。気になった部分があるとね。本は全部、辞典みたいに使うから」
「あぁ、そっか」
作家って、そうなんだ、と柚子は思った。そして改めて、詩乃は作家なのだなと感じた。
百冊か二百冊か、本棚に詰め込まれ、その他にも散らばり、積み上がった本を見下ろしながら、詩乃は腕を組んだ。
「もう全部、買い取りに来てもらおうか」
「え、いいの?」
「まぁ、また買えばいいんだし……」
柚子は、詩乃の顔を見つめた。
「私に気使ってるんでしょ?」
「え?」
「運ぶの大変だから」
「……そういうんじゃないけど」
「本当は?」
詩乃は眉を寄せて、応えた。
「まぁ、ちょっとはね」
「もう」
と、柚子は詩乃の腕をぶらんぶらんと揺すった。
「詩乃君、そういうトコだよ。一緒に運ぼ。私楽しみにしてたんだから」
「え、そうなの?」
「そうだよ」
柚子はそう言うと、早速、段ボールを用意して、近場の本を、それに入れ始めた。柚子のその所作の柔らかさを見て、詩乃は、そんなに丁寧にやらなくてもいいのにと思いながら、自分も段ボールに本を入れ始めた。




