見上げる小さな影法師(5)
美奈は、柚子の復帰を望んでいた。美奈にとって、柚子は数少ない、本音を話せる女性の一人だった。しかし柚子にとっての自分は、それほどでもないのだろうとも思っていた。きっと、仕事の同僚、先輩後輩という関係が無くなれば、自分と柚子のこの関係も、そこまでになってしまう。
美奈も心の底ではわかっていた。スキャンダルの例の報道は、確かに、柚子の失踪の大きな原因だったのだろう。でもそれは、トリガーに過ぎなかったのだ。そのことは、柚子の事を一番近くで見ていた美奈が、良くわかっていた。柚子にはずっと、その兆候があった。柚子は、自分がいてもいなくてもいい存在なのではないか、というようなことを件の報道の前から――特にこの一年の間に、何度か口にしていたのだ。
「でも新見さんの意思は――」
と、美奈は言おうとした。
しかし、その言葉は美奈の喉の奥につっかえて、結局一言も出てこなかった。
詩乃の作る静けさと、その瞳の深さに、美奈は、自分の心の奥を見つめられているような気がした。
――私は自分の欲求のために、新見さんに復帰してほしいと思っているだけだ。それを、あたかも新見さんの意思を尊重したいという、いかにもな正義を都合よく盾にして、利用している。
口を開きかけて言葉を飲み込んだ美奈を見て、詩乃は眉間に皺を寄せ、顎に手を当て、肘をついた。そうして目を細め、テーブルのどこかを見るでもなく見ているその姿は、あたかも探偵のようだった。
雰囲気だけなら、本当に作家だなと、美奈は思った。
美奈もこれまで、仕事で作家という肩書の人間とは幾人も会ってきた。放送作家、脚本作家、構成作家、そして、小説家。誰もが知っている賞を受賞した小説家のインタビューも何度かしたことがある。それこそ今度、夜の担当番組で、ベストセラー作家をゲストに招く会の収録がある。印税をもとに、投資をしたり、店を買ったりしている二十代後半の若手作家だ。実はすでに一度、美奈は半合コンのような飲み会兼打ち合わせで、その男と会っていた。
ちょうど歳は、詩乃と同じくらいだった。軽快なトークができて、からからと、いかにも快活そうな笑い声を上げ、そして自慢話も上手い男だった。作家とビジネスマンを足して二で割ったか割らないかしたような、そんな男だ。
それと比べると詩乃は、いかにも作家だった。風貌も、雰囲気も、ビジネスマンからは程遠い。光よりも、影が好きそうな男。影の中にいながら、決して暗いわけでは無い男。生涯手放しで喜べるような、頭を空っぽにした幸せを幸せとは感じることの無いような、難儀そうな男の人。美奈は詩乃を、そんな風に見た。
「水上さん、煙草は吸うんですか?」
話題を変えながら、美奈は思い付きでそんな事を詩乃に訪ねた。
詩乃は、この質問を気に入った。
こういう、全く予想外の切り口から、思いもしない質問を受けると、こんがらがった思考の糸が、一旦解れて、すっきりするのだ。
「いつか葉巻を吸ってみたいと思ってるんですけどね」
「お酒はどうですか?」
「……今夜からまた、飲み始めようと思います」
「日本酒?」
「ウィスキーですかね」
「バーボンですか?」
詩乃は笑った。
面白いことを聞く人だなと思った。
「スコッチかな」
美奈もそれを聞いて笑った。
何か、ものすごく文学的な会話をした気になった。実際には何も考えていなかったが、何となく美奈は、文化人になった気になって、その成りきりが面白かった。
「でも――」
詩乃は少し笑った後、再び口を開いた。
「鮭に川を上るなというのは、そっちの方が酷かもしれませんね」
今度は、美奈にとって、思いもよらない切り口から詩乃が言った。
「鮭ですか!」
美奈が声を上げて、一瞬間を置いてから笑った。
柚子と鮭とのイメージが、あまりにかけ離れていたためである。
その、美奈の打算の無い笑い顔を見た時、詩乃は、ここに美奈が、わざわざ柚子を送ってやってきた理由が分かった。
「今書いてる小説がコンテストに通らなかったら、もう作家を諦めて、働こうと思います。このままじゃ、ヒモですから」
詩乃は、そう言った。
それは、美奈が一番聞きたいことでもあった。
美奈がここに来たのは他でもなく、水上詩乃という人物が、どういう男か見るためだった。柚子にとって危険な男なのか、そうではないのか。その測る尺度は、まず仕事と、仕事に対する意識だった。
どんなに新見さんが彼の事を好きでも、そしてどんなに水上詩乃という男が優しかったり、あるいは格好良かったり、何かの一芸に秀出ていたとしても、それで金銭的に支えていけない男であれば、それは新見さんには釣り合わないと、美奈は固く信じていた。きっと、そういう、片方が甘えた関係は――特に男の方が甘えた関係は、いつか破綻が来る、と。それは美奈の生い立ちから来る教訓だった。
そうですね、それが当然ですよね――美奈はその言葉が、舌先まで出かかった。
しかし彼にそれを言ったら、その言葉が巡り巡って柚子を傷つける。
そう考えると美奈は、言葉の刃を鞘に収めた。
「私は憧れちゃいますねぇ、ヒモ生活。しかも新見さんに養ってもらえるなんて、最高じゃないですか」
美奈の峰打ちのような皮肉に、詩乃は渋柿を喰ったような顔になった。
美奈は、詩乃のその表情を見ただけで一先ずは満足して、話題を変えることにした。
「――ところで水上さん、スノードームって、何か心当たりありません? 中に可愛いペンギンが入ってるやつなんですけど」
そう訊かれた詩乃は、驚きつつも、この部屋のどこかにそれがあったかと、棚やテーブルを見回した。スノードームのことなど、詩乃は今の今まで忘れていた。ペンギンのスノードーム――それは、高校三年生の時の柚子の誕生日に、詩乃が贈ったものだった。
簪もネックレスもオルゴールも、詩乃が柚子に贈ったものは消耗品でない限り、この部屋か、少なくともこの家のどこかにあった。しかし美奈に指摘された詩乃は、そう言えば、スノードームだけ見かけていないなと気づいた。
「やっぱり何か、曰くつきの物品なんですね」
にやりと、美奈は笑みを浮かべた。
詩乃の反応を見れば、そのスノードームが何なのか、大方予想がついた。
「どこかで見かけました?」
「はい」
にこっと、美奈は笑って見せた。
わざと、どこで見たかは言わない。何となく、詩乃の口から白状させたかった。
「――そんなプレゼント、昔、したような気もします」
「水上さん、ロマンチックなんですねぇ」
「いやいや……」
さすがに詩乃は、照れて顔をしかめた。
「何かの記念日ですか、送ったの」
「えーと……」
「クリスマスですか?」
「いや――」
「誕生日?」
「……そんな気がします」
にやにやと、美奈は笑いながら言った。
「まぁ、昔のことだから忘れちゃいますよねぇ。でも、新見さんは覚えてそう。いや、絶対覚えてると思います」
「そ、そうですね……」
ひとしきり詩乃をからかった後、美奈は、あまり長居もできないのでと、ハーブティーのお礼を言うと、すんなり二人の家を辞した。美奈を玄関まで見送った後リビングに戻った詩乃は、ソファーにどっかり腰を下ろした。
目まぐるしく感情を引っ掻き回されて、たった十数分の出来事だったが、詩乃は一仕事終えた後のような疲れを感じた。そうして、一度疲労を感じると、昨日、一昨日からほとんど睡眠をとっていなかった詩乃の目に、急激な眠気が訪れた。
詩乃は、ぱちん、ぱちんと二度、自分の頬を思い切り両手で挟み込むように叩き、コップに水を一杯入れて、和室に入った。襖から三角形に差し込む明りで、柚子の寝顔を確認する。
特別、寝苦しそうな感じや、アルコール中毒を起こしている時のような、変な様子はない。しかしそれでも詩乃は、一度柚子を起こすことにした。
「新見さん、ちょっと起きて」
ゆさゆさと、柚子の肩をゆする。
いつもよりも体温が高い。
「うーん……」
柚子は、小さく呻き、微かに瞼を動かした。
詩乃はそのまま、柚子の背中に腕を添えて上半身だけ起こした。
「水、飲んで」
詩乃はそう言うと、コップを柚子の唇に当てて、ちょっとずつ傾けた。
くぴり、くぴりと、柚子は目も空けずにコップの水を飲み欲した。
ひとまず安心した詩乃は、柚子のスーツのジャケットを脱がせ、それから、靴下も脱がせた。
そこで詩乃の方も、活動時間の限界が来た。柚子の上半身を布団に戻した後、詩乃もそのまま、ころんと柚子の隣に寝転んだ。そうして詩乃は、一分と経たないうちに深い眠りに落ちて行った。




