見上げる小さな影法師(3)
「――私は今すぐでも結婚したいんだけどね」
ワインの瓶が三本空になる頃には、すでに柚子の『詩乃君』呼びにも、美奈すっかり慣れてしまっていた。人物についてはまだよくわからないが、柚子の話を聞いているうちに、美奈も少し、詩乃について馴れ馴れしい気持ちになってくるのだった。
「結婚は、するんですよね?」
美奈は、少しでも不安を解消するために聞いてみた。結婚することになっていれば――女子アナの結婚を面白く思わないプロデューサー陣のことはさておいて――、〈人質〉だけを持ち逃げされる危険は、少しは低くなる。
「うーん……」
柚子は何とも言えず眉を顰めた。
「え、約束してないんですか!?」
美奈の聞き返す声は、少し大きくなった。
同棲までしておいてそれだと、かなり危ないのではないかと美奈は思った。
「結婚したら、働くって言うんだよね……」
「は、はぁ……」
そりゃあそうだろうと、美奈は思った。
柚子はワインを飲んで、頬杖を突いて言った。
「なんか、私が条件つけちゃったみたいで、ちょっと窮屈そうなんだ。私全然、そんなつもりなかったんだけど――」
「条件って、仕事するのがですか?」
「就職するって言うんだよ」
「は、はい……え、それって、普通だと思いますけど」
柚子は、空のグラスの脚を持ち上げて、光の反射を、気だるげに眺めた。
「――まだ、飲みます?」
「うん」
柚子が言うので、美奈は四本目のワインを開けた。
「料理人ってわけでもないんですよね? 店持つつもりがあるとか」
柚子のグラスにワインを注ぎながら、美奈は質問した。
「うん、そういうのは無いみたい。料理は、本当に美味しいんだけど」
「でも就職は、そっち関係なんですよね?」
「わからないんだよね。料理もできるけど、大型バスの免許も持ってるから」
「え、そうなんですか!?」
「うん。卒業して働きに出た後、そこで取ったんだって」
うーんと、美奈は、小皿のシャウルスチーズを口に入れた。
「あんまり、考えづらい組み合わせですね……」
「そうかな?」
「聞いたことないです。まだ料理人の方が――でも、その気も無いんですもんね?」
「うん。――でもやっぱり私は、働かなくてもいいから、小説書いててほしいんだ」
美奈は、首を振りながら、ワインでチーズを流し込み、応えた。
「それは甘やかしすぎですよ! いつまでも夢見てないで働けって、それくらい言っても罰当たりませんって」
柚子は、くすくす笑った。
美奈らしい感想だと思ったのだ。そして美奈の、その現実主義的な所に、柚子は微かに、詩乃を見るような気がした。家庭環境に恵まれた自分とは違い、美奈も詩乃も、苦労をしてきている。詩乃は中学時代に母を亡くし、高校三年生で父を亡くした。その父とは最後まで分かり合えなかったという。そんな父の借金なのに、自分からその返済の苦労を背負った。
一方美奈は、中学時代に両親の離婚を経験し、母に引き取られるも、その母との仲は良くないという。しかもその「良くない」というのは、健全な範疇での仲の悪さでは無いのだ。そして美奈も、アルコール依存症の父を、金銭面でどうやら今も助けているらしい。
そういう美奈のバックグラウンドも知っているので、美奈の残酷なほどの現実主義をぶつけられても、柚子は、悪い気はしなかった。
「でも、お金だったら、私が稼げばいいかなって」
「新見さん、それはダメですって。ダメ男になりますよ」
柚子が笑うのを、美奈は、笑い事じゃないでしょと思いながら言った。
「でも私、本当にそれでもいいの」
柚子はそう言って、静かにグラスを口元に持っていった。
そうしてこくりと一口、ワインを飲むと、静かに言った。
「私のせいで――結婚のせいで彼が変わっちゃって、それで、不自由な人生を送らせるくらいだったら、いっそ……」
最後はぽつりとそう言ったきり柚子はグラスの奥を見つめ、そのまま沈黙した。
美奈は、柚子のグラスを見つめるその眼差しに、背筋を凍らせた。美奈はその柚子の、どこまでも優しい眼差しの意味を、もう知っていた。それは柚子と十二月、最後に会社で会った時に自分に向けてくれたそれと同じだった。
その時柚子は、スノードームを美奈に送った。クリスマスプレゼントだと言って。しかしそれは、柚子の今生の別れの餞別であると、美奈は後で知った。あの時柚子は、死ぬ覚悟を決めていた。つまりこの、優しい穏やかな、見ようによっては仏か女神かというその眼差しは、柚子の、覚悟を決めた時に見せるものなのだ。
「――まぁ、でも、確かに、いろんな夫婦の形がありますからね。最近だと、まぁ、それも一つの在り方なのかもしれませんよね」
美奈は慌ててそう言った。
とても柚子から『いっそ』の後の言葉を聞き出そうとは思えなかった。
「でも結婚……――」
柚子はうとうとしながら、囁くような声でそう言った。
それから柚子は、目を閉じて、机にゆっくりと突っ伏した。
「寝ちゃった……」
美奈は、もう一口飲もうかと思っていたが辞めて、グラスから手を外し、代わりにチーズを一つ摘まんだ。時計を見れば、もう夕方。〈ばんまえアワーズ〉の放送時間だ。
眠ってしまった柚子を見ながら、どうしようかと考えていた美奈は、一つの名案を思いついた。美奈はその閃きに従って、柚子の酔いが醒める前にと会計を済ませてタクシーを呼び、うつらうつらする柚子に肩を貸しながら店を出ると、一緒にタクシーに乗り込んだ。
柚子が久しぶりの出勤で朝から出て行ったその日、詩乃は柚子を見送った後、和室に籠っていた。高座椅子に正座し、パソコンモニターを前にして、カチカチ、カチカチとキーボードを叩く。
柚子と再会したのち、京都で書き始めた小説は、一昨日添削を終えて懸賞に応募することができた。詩乃が今書いているのは、新しい長編小説だった。柚子の実家から帰って来る車の中で結婚の話をした後、その夜から、「書かなければ」という焦りを覚え始めた。
『結婚をしたら就職する』と口に出して柚子に告げた詩乃は同時に、もう後戻りはできないと思っていた。今書いている小説が最後になる――しかしそう思うと、詩乃は、まだ書き残したことがあるのに気づき、猛烈な「書かなければ」という焦燥感に駆られ始めたのだ。
柚子との再会後から書き進めていた、そして完成して応募を終えた小説も、詩乃にとっては自信作だった。プロットからしっかり練り、添削もしっかりやった。今持っている自分の全力を出し切ったと言える作品に仕上がった。これでダメなら諦めようと、思えるくらいのものにはなった。
しかし、これが最後と思うと、違う気がした。最後に相応しい作品かと自問すれば、それは少し違った。――でも、何が違うのか。詩乃は眠れもせずに、そのことを考え続けた。しかし結論は出なかった。ただ一つ、詩乃は自分の中に、小さな心残りを見つけ出した。
――ファンタジーが書きたい。
自分の創作欲の根本を見つめていくと、詩乃はそこに行きついた。
中学から高校時代にかけて、詩乃はファンタジーを主に書いていた。しかしそれは結局、流行りを追うような作品になって、途中で書くのを辞めてしまった。完結はさせたが、実際には、書き続けることができなくなり、辞めたのだ。つまるところ、馬鹿らしくなった。
それ以来詩乃は、童話を別にすれば、ファンタジーを書かなくなった。
しかしこの追い込まれた状況になって、詩乃は気づいたのだ。自分はやっぱりファンタジーが好きで、いつかそれを、もう一度書きたいと思っていたことを。
詩乃は、ファンタジー作品を募集している出版社とコンテストを探した。
四月締め切り、五月締め切り――結果が出るのが今年の十月、十一月。
――遅すぎる。
詩乃はもう、この半年の内に決着をつけたいと思っていた。
そんな詩乃の目に飛び込んできたのは、三月中旬締め切の懸賞だった。いわゆる、〈本格ファンタジー〉を売りにしているレーベルのコンテストで、受賞すれば賞金と、そして書籍出版が確約される。選考結果は、六月に発表される。
これだ、と詩乃は思った。
もう時間は、ファンタジーの長編を書くには短すぎるが、これしかない。
詩乃はそのコンテストを見つけたその瞬間から、頭の中でプロットを完成させて、翌朝から、冒頭からの文章を書き始めた。
詩乃は普通、小説を書くときにはプロット作りに時間をかけた。ストーリー構成やテーマ、コンセプトなどを紙に書き出して、しっかりと大枠を決めてから書き始める。そうせずに、勢いで書き始めた小説は軒並み失敗したという経験則がそうさせていた。
しかし、三月中旬の締め切りに間に合わせるとなると、時間が無い。
よし、と勢い込んで、詩乃は書き出すことにした。
詩乃がファンタジーを封印したのは高校一年生の時だった。それから十年と少し、しかし詩乃は、ずっと心のどこかで、ファンタジーを書きたいと思っていたので、舞台設定や登場人物や、そしてストーリーの展開、方向性についても、一度「書こう」と決めてしまうと、導火線に火がついた如く、次から次に決まった。
――これでダメならダメだ。
と、そのある種の諦めが、詩乃の筆――キーボードで書くので実際には指だが――を軽くした。
柚子が出勤したその日、二時過ぎになり、詩乃は一度、時計を見た。
そしてその時に初めて、スマホに柚子からのメッセージが届いているのに気が付いた。友達と昼食を食べてから帰ります、という内容だった。
本当に、もうすっかり柚子は良くなったんだなと思った。
そう思うと詩乃は、余計に、「書かなければ」という気になった。柚子はもう、誰かの助けを必要としない。だから自分の存在価値は、小説しかない。
魔法なんて馬鹿らしい、ドラゴンなんていないんだ。
その思いが、詩乃の世界の魔法に力を与え、ドラゴンに存在感を与えた。
巨人と小人は、文章の中で命を持ち、勝手に動き始めた。
魔法とは何だ、勇気とは何だ、どうあるべきなのだ――詩乃の頭は熱を帯びた。目は見開かれ(柚子が買ってきた)ハーシーのチョコの二袋は、いつの間にか空になっていた。
詩乃がちょうど、軽い脱水症状で眩暈を覚えかけた時、インターホンが鳴った。
リビングのインターホンモニターを見ると、意外な人物の顔がそこにあった。
『こんにちは、お久しぶりです、菊池美奈です。あの、新見さん、お届けに上がりました』
美奈の肩には、柚子がいた。
柚子は赤い顔でモニター越しの詩乃に手を振って言った。
『詩乃くーん、やっほー』
詩乃は一階のエントランス扉のロックを解除した。




