見上げる小さな影法師(2)
会社を出てタクシーを捕まえ、美奈が柚子を連れて来たのは、深川にある隠れ家的な肉バルだった。細長く、薄暗い、海賊船を彷彿とさせる内装で、二人はその一番奥の個室に案内された。今はその狭さと暗さが、柚子にはちょうど良かった。
「ここ、最近聞いたんです」
と、美奈はそう言って、この店を使っている業界人の名前を幾人か述べた。
いつもながら柚子は、美奈の情報網に驚かされた。
料理を頼んだ後、その待ち時間で、美奈は柚子に、十二月二十四日の日に何があったのか、柚子に話した。
アナウンサーにはファンレターが届く。
特に女性のアナウンサーのうち、まだ若い、売り出し中の〈女子アナ〉は、ほとんどアイドルのようなものだ。中には熱烈な、捉えようによっては恐ろしい手紙も届く。紙媒体の手紙、メール、そしてSNS投稿へのコメント。
色々な問題が起こるので、テレビ城東の場合は、アナウンサーに届くそれらのものを、そのアナウンサーが目にする前に、編成局の総務部がチェックする。ひどいものはそこで弾かれる。そしてまた、二重のリスク管理として、アナウンサーの方も、受け取った手紙やメッセージやコメントに、返事を返してはいけないという決まりがある。
ところが、あろうことか柚子は、一度だけ、その規則を破って、自分あてに届いたファンメールに返事を送ったことがあった。もちろんそのメールは、総務部が承認しなかったので送信未遂で終わったが、その件で柚子は、強く注意を受けた。
美奈が藁にも縋る思いで、詩乃に電話をかけることができたのは、実は、そのメールのおかげだった。柚子が、規則を破ってそんな事をするというのが、美奈はどうにも信じられず、柚子にそんな事件があったのを知ってから、ずっと心に引っかかっていた。
柚子の家で遺書を見つけた後、方々連絡を取った後、美奈はその、柚子のたった一度の規則やぶりの事を思い出したのだ。その相手は、誰だったのだろうか、と。そこで美奈は、急いで編成局総務部の同期に、そのファンメールの事を調べさせた。
ファンメールの差出人は、二度、柚子にメールを送っていた。
一度目は、柚子が番組内で、『不倫をする気持ちもわかるような気がする』といった趣旨の発言をして、ちょっとした批判を浴びた後に届いていた。柚子を応援する内容で、柚子が返事を送ろうとしたのが、そのファンメールに対してだった。
そしてもう一通は、柚子とカリスマIT社長のスクープが、船上のキス写真(本当はキス手前だが、世間一般ではキス写真で通っている)と一緒に週刊誌から報じられた後――十二月二十四日の二日前に送られていた。そのメールには、差出人のフルネームと、電話番号が記されていた。美奈がその電話番号にかけたら、そこで詩乃が出たというわけである。
つまりファンレターの差出人は、他ならぬ詩乃だった。
柚子が詩乃からの一通目のファンレターに、ルールを破ってまで返信しようとしたのは、そのメールの内容に、何か心当たりがあるような気がしたからだった。
柚子は、十二月二十四日を巡る運命と必然の答え合わせを美奈としながら、終始驚きっぱなしだった。柚子は、美奈が詩乃に電話をかけていたということも、自分が返したファンレターの送り主が詩乃だったということも、この瞬間まで知らなかったのだ。
サラミサラダと牛肉、カモ肉のグリルが運ばれてきても、柚子は美奈の話を聞いたり、質問するのに夢中で、滴るような銀のフォークを触りもしなかった。柚子は美奈の携帯から、詩乃の二通目のファンメッセージの文面を送ってもらい、それを読んだ。これも柚子は、この時に初めて見たのだった。
新見さん へ
とても久しぶりです。水上詩乃です、こんにちは。
新見さん、体の具合どうですか。いつもみんなに見られて、大変だよね。
もし自分で良かったら、話、聞くよ。あれから自分は、借金を返して、今は東京の、また性懲りもなく北千住に住んでいます。料理は、昔より上手くなりました。もし新見さんが必要だったら、電話でもメールでも、してください。連絡先は、下に書いた通りです。自分は、やっぱり人と上手くやるのは苦手ですが、自分の中にはずっと、新見さんがいたので、寂しくはなかったです。
とにかく、無事ならいいんです。
必要なら、遠慮はいらないので、連絡ください。朝でも、夜でも、真夜中でもいつでも、電話には出られるようにしています。
連絡先:090-××××-××××
メール:######@####.co.jp
水上 詩乃
船上キス写真の記事が出た後、柚子は〈昼いち!〉の本番前に体調を崩し、それからは自宅療養をしていた。自分のことを心配して、居てもたってもいられずに、このメールを送った詩乃の気持ちを思うと、柚子の胸に、詩乃への愛おしさが溢れた。
柚子は、詩乃からのメッセージを何度も読み返した。
「新見さん、お酒飲みませんか?」
美奈は、目を輝かせながら言った。
昼間のこんな時間から酒を飲む。しかし美奈は、自分の今の興奮を表現するには、それがぴったりだと思った。そうして柚子も、興奮に任せてそうしようと言った。
それから二人は、運ばれてきたバローロで乾杯した。
酒にめっぽう強い柚子も、美奈の興奮にあてられてか舌は軽くなり、この二か月間の、詩乃との生活のことを美奈に話した。
柚子と詩乃との関係について、美奈は、実はまだよく知らなかった。これまでぽつん、ぽつんと、柚子が小出しにしてきた詩乃らしき人物の情報を結んで、何とか詩乃という人物が柚子の元カレであること、高校時代の同級生であること、そして二人はただならぬ仲であるということを推測出来たのみだった。
「高校以来本当に何もなかったんですか!?」
美奈は、柚子の話しの途中で、柚子に確認した。
「――うん、そうだよ」
美奈にとっては、嘘のような話だった。
十年間音信不通だったというのに、柚子の失踪を聞いて京都まで行き、柚子を探し出し、そのまま仕事を辞めて同棲生活に入ってしまう――衝動的な高校生の恋愛ではないのだから、いくらなんでもありえないと美奈は思った。しかもそれを、柚子の方も、当たり前のように受け入れている。
美奈も、中学三年生からアイドルをやっていたので、自分も相当に非常識な人間だと思ってはいたが、二人には負けるかもしれないと思った。
失礼とは思いながらも、美奈は少し心配になって、柚子に訊ねた。
「大丈夫なんですか、その、水上さんって……」
美奈の心の中に、詩乃に対する疑念が首をもたげた。
人間は、自分の利益と欲求のためなら、信じられないくらい冷静に人を騙すことができる。そういうことを美奈は、経験から知っていた。
「うーん、お金はそんなに無いんだけどね、でも――」
「お金の問題もですけど……」
その人、新見さんに付け入ろうとしているんじゃないですか、と美奈は本当は指摘したかった。柚子の失踪の件で、最初に詩乃に電話をかけた時、信用してもらうために途中からモニター通話に切り替えたので、美奈はその時に詩乃の顔を見ていたが、その時には美奈も焦っていたので、詩乃の顔立ちやその表情を分析する余裕はなかった。
スキャンダルのような報道があったにしても、柚子はキー局アナウンサーである。それに美奈は、柚子がこれから「落ち目」になるとは思っていなかった。〈看板女子アナ〉の一角からは外れるかもしれないが、〈女子アナ〉なんて所詮は流行り物である。そこから外れることによって、新見さんは局の本当の意味での〈看板〉になっていくのではないだろうか。
美奈はまた、柚子とIT社長――栖常との仲についても、報道には無かった事実を知っていた。何度かデートを重ねて、柚子も栖常について悪く思っていなかった。柚子の誕生日、例の写真が撮られたあの日の前、美奈は柚子から、栖常からプロポーズがあるかもしれないという事を聞いていた。報道では、柚子の方が社長を狙った、ということになっていたが、本当は逆なのだ。
美奈は、てっきりこのまま、柚子は栖常というそのIT社長と結婚するのだろうなと思っていた。それは美奈にとっては、自然なことだった。プロスポーツ選手、タレント、芸能関係者、そしてそれと同じくらいアナウンサーの就職先として人気なのが、社長の妻だ。
しかしそれは、金のためではない。
金も確かにあるが、それよりも重要なことがある。それはつまり、人質交換だ。
世間は、金だ、顔だ、地位だ、それに目がくらんだのだ、それが目当てだと、女子アナが結婚するとそんな風に騒ぎ立てるが、本当はそうではない。
裏切れば、社会的な地位を失うという大きなリスクを、双方が抱えている。だから、安心して付き合えるのだ。互いに互いの弱み――社会には知られたくないプライベートなことを握っていれば、そうそう裏切れない。仮に、上手くいかずに破局したとしても、致命的な暴露はしない。その確約がとれるような相手とでなければ、怖くて結婚なんてできない。自分のほとんど全てを曝け出す相手なのだから。
ところが柚子の場合でそれを見ると、柚子が一方的に弱みを握られているような状態だ。その男に何か秘密を一つ暴露されてしまったら、柚子はきっと、今度こそ完全に、テレビから姿を消すことになるだろう。そんな危険な状態であるという事を、新見さんはわかっているのだろうかと、美奈は心配になってしまうのだった。
小説家志望のフリーター。肩書で見れば、危険な香りしかしない。
「新見さん、夜の写真とか動画とか、撮られてないですか? 大丈夫ですか?」
「えぇ!?」
柚子は、予想外の質問に目を白黒させた。
柚子は、高校生の時も、友達に同じようなことを注意されたのを思い出した。
「私心配ですよ」
「大丈夫だよ」
柚子はそう言って、詩乃との馴れ初めや、詩乃についての事を美奈に話した。美奈は、柚子の詩乃評について、話半分で聞いていた。美奈にとって新鮮だったのは、柚子のその饒舌さだった。日頃は、二人でいる時でさえ柚子はいつも聞き役で、決して口数が少ないわけでは無いが、実は自分の事はほとんど話さない。話すときでも、それは相手から話を引き出すためなのだ。




