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星の海で遊ばせて  作者: ノマズ
後日譚,霧の夜は二人だけ
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穂綿の小舟(9)

 柚子の実家を出た後、詩乃は茗荷谷の駅をうろうろとさ迷い歩いた。


 特に目的があって駅にやってきたわけでは無い。


 最初は、柚子のためにと思って柚子の実家を出てきたのだったが、駅までやってくると詩乃は、自分はあの場から逃げ出したかっただけなのかもしれないと、認識を改め始めていた。


 何から逃げたのかといえば、つまりは、「柚子とどうなりたいのか」という質問からだ。こう聞かれたら、自分は言葉に詰まって、何も言えなかっただろうと詩乃は思った。だから、そういった先のことに関する質問が向けられる前に、逃げてきた。


 コンビニ、青果マーケット、ファストフード店――詩乃は、どこか入る所を探していたが、どの店も、自分が探しているものと違うような気がした。そして一番自分でもわからないのは、一体自分がどんな店を探しているのかということだった。料理屋、飲み屋、それとも本屋だろうか。


 詩乃は駅の中にある本屋に入りかけた。


 しかし、自動ドアの前で立ち止まった。


 本屋の白い、いかにも清潔そうな壁や天井と、それを照らす明るい光を見ると、詩乃の心臓は急に、ドキンドキンと、嫌な鼓動をし始めた。


 今までも詩乃は、本屋に入るとそういった、軽い発作のようなものを引き起こして、何も買わずに店を出るということがよくあった。


 磨き上げられた床に明かりが反射して、本屋には影が無い。本の表紙はぴかぴかと光り、表紙を開けば、皺ひとつない真っ新なページに、黒い文字がはっきりと印字されている。新品の本を手に取った瞬間――それがどんな内容の本であっても――、詩乃は、最先端の本屋という宇宙船から、ぽつんとひとり取り残されていくような錯覚を覚えた。


 新しい情報、思想、物語――この宇宙船に、自分も何としても乗るんだ。


 しかし詩乃は、今や店の中に入ることすらできなかった。


 自動ドアが自分を感知することにも恐怖を覚えて、そのセンサーの外で立ち尽くす。


 この世界に挑戦しているという事を失ったら、自分には何もない。柚子も回復してきた今、自分の存在というものの値打ちは、全く無くなってしまう。


 立ち尽くしている間に、詩乃は、自分のこの恐怖の輪郭がわかってきた。


 自分は今、作家になるという事を、諦めようとしている。


 目標ではなく、趣味にしようとしている。


 詩乃はよろよろと後ずさり、背後の壁と手すりにもたれかかった。


 柚子と再会してから書き始めて、今、その添削を終えようとしている長編の一作。狙っている二月末の応募締切りの懸賞に出して、それが落選したら、自分はもう、この世界は諦めようと、心のどこかで思っているのだ。


 本屋の光は、白黒つけない方が都合の良いグレーの影も許さない。


 自分のそれは、決心では無く諦めだと、あの宇宙船は言っている。だから自分は、この光の中に踏み込めないのだ。諦めた者には入ることの許されない、光の世界。


 ツンと、詩乃は鼻の奥が痛んだ。


 詩乃の目に、得体のしれない涙が浮かんでいた。


 詩乃はそれを指ではじき、ポケットテッシュで鼻をかみながら、速足で階段を降りた。


 そうして詩乃がたどり着いた先は、線路沿いにある図書館だった。


 四階建てだが、各階層は広くはない、駅近くの公園の片隅に、こぢんまりと存在していたその図書館に詩乃は入った。図書館の明かりは、まるで年老いた本たちをいたわるように優しかった。


 詩乃は、喉を枯らした砂漠の旅人が、オアシスの幻想を見つけたかのごとくの足取りで、絵本のコーナーまでやってきた。そうして詩乃は、読み聞かせができるほどの開けた空間の、その全体が見渡せるような場所にあった、深緑色の椅子に座った。背もたれとアームレストが一体になったボックスチェアー。


 詩乃はそうして、図書館の少し黄ばみのある天井を仰いだ。


 一つ、二つと大きく呼吸をした後で、詩乃は視線を、子供の高さ位の絵本の本棚に戻した。本棚の上の方には、表紙が見えるように立てかけてある絵本が並んでいた。しかし詩乃はその下の棚に縦に並べられた細長い背表紙の一つに目がいった。小さい頃、母と一緒に読んだ、懐かしい絵本のタイトルが、目に飛び込んできたのだ。


 詩乃は腰を浮かせ、中腰のまま大股で幾歩か進み、その懐かしい絵本を、本棚の低い場所から引き抜いた。そうして席に戻り、膝の上に、取ってきた絵本を置いた。


 硬い表紙には、可愛らしい二羽のカラスと、形の良い食パンが描かれている。カラスの黄色い大きな嘴。コック帽をかぶっている。


 表紙を開けてページをめくると、たくさんのパンが、開いた二ページにわたって、ぎっしりと描かれている。ただのパンではない。雷様の形のパンや、チューリップのパン、ワニパンまである。


 詩乃は思わず笑みを零した。


 柚子はこの絵本を知っているだろうかと、不意にそんな事を思った。


 詩乃はそれから、時間の許す限り、そのコーナーにある絵本を読んだ。一時の慰めでも、その一時、絵本が映し出す穏やかな優しい気持ちになれる空間と空想に、詩乃は浸っていたかった。しかし絵本を読んでいる詩乃の心の片隅には、ずっと、あのカラスのパン屋の夫婦と、その子供たちとの楽しそうな絵がずっと、残っていた。


 自分は、あんなに楽しそうなカラスにはなれない。


 そう思えばこそ詩乃は、より深く深く、絵本の世界に沈んでいくのだった。




 図書館が閉まった後、詩乃は何となくぶらりと駅前を歩いて頭を冷やし、それから、柚子の実家へと戻った。夕食は四人でテーブルを囲み、チーズフォンデュだった。


 夕食は、四人で一つのフォンディ鍋を囲み、その温かい雰囲気で、詩乃の冷えていた体もだんだんと熱を取り戻した。しかし詩乃は夕食の間、時折ぼうっと、とろっとしたチーズの海に視線を落としたまま固まることがあった。


 柚子はそんな、詩乃の小さな異変にもいち早く気が付いたが、「大丈夫?」と声に出して訊きはしなかった。口に出したら、そのことが大袈裟になりそうなので躊躇われた。柚子は、詩乃があまり良くない思考の世界にハマりそうになると、詩乃の腕に触れた、その顔を覗き込んだ。


「大丈夫?」


 という柚子の目線を受けると、詩乃は自分の意識が遠のいていたことに気づくのだった。夕食中は、そんなことが何度か間を置いて繰り返された。


 食事の後、夜が遅くなりすぎないうちにと柚子が切り出して、二人は帰ることになった。


 柚子は、母と作ったガトーショコラの入った箱を手に持ち、すっかり暗くなった夜道を詩乃と並んで歩きながら、「帰ったら食べようね」と詩乃に言った。


 しかし詩乃は、生返事を返したきりだった。


 車の中で、柚子は思い切って、詩乃に訊いた。


「詩乃君、結婚のことで悩んでる?」


「悩んじゃないよ」


 詩乃は前方を見たまま答えた。


「籍、入れてもいい?」


 柚子は、ガラスの工芸品に触れる様な慎重さを持って詩乃に訪ねた。


 少し間を置いて、詩乃は応えた。


「結婚したら、就職するよ」


「え?」


「ちゃんと社員になるよ」


「うーんと……」


 柚子は頭を悩ませた。詩乃の口から『就職』だとか、『社員』だとか、そういった言葉が出てくるのと、柚子は妙に居心地の悪さを覚えた。


「でも――続くかわからないけど」


「お仕事が?」


「そう」


「そんなことないと思うけど……」


 柚子は、詩乃の考えが、あまり良いようには思えなかった。


「小説はどうするの? 続けるんだよね?」


 柚子の質問に、詩乃は黙り込んだ。


 それから詩乃は、へらりと笑いながら言った。


「書くのは、片手間でもできるから」


 それを聞いて柚子は、詩乃の曇った表情の理由が分かった。


「詩乃君、作家はもう、目指さないの?」


「暇な時に書いて、運が良ければどっかで何かあるかもね」


 柚子は、詩乃の左手を軽く握った。


「私は、詩乃君が作家でも、そうじゃなくても、何を目指しても、目指してなくても、気持ちは変わらないよ。でも、詩乃君が私と結婚するために、何かを諦めちゃうんだったら、私、そういう結婚だったら、したくないよ」


 詩乃は眉を寄せ、じっと見つめてくる柚子の視線から目を反らし、そうして、ぼそりと言った。


「別に、諦めるわけじゃないよ」


 その詩乃の態度が、柚子は気に入らなかった。


 全く詩乃らしくない、いい加減な態度。


 柚子は少し向きになって、少し挑むような気持ちで詩乃に呼びかけた。


「ねぇ、詩乃君――」


「もういいんだよ」


 詩乃は、柚子に叱られるような気配を感じて、先にそう言った。


「もともと無謀だったんだよ。そんな、突き抜けたセンスがあるわけでもないのに。――だって、この三年間で、二編しか作ってないんだよ? しかも、中編だけだよ。短編だって、昔ほど作れてない」


 詩乃は言葉を切り、そして声のトーンを落として続けた。


「自分にはもう、たぶん無いんだよ、情熱が。もう、新見さんの知ってる、文芸部の水上じゃないんだよ。自分には、無理だよ……」


 詩乃が言うと、柚子は詩乃の手を取って、強く揺さぶりながら言った。


「無理じゃないよ!」


「――あぶっ! 新見さん、危ないって!」


 詩乃は、柚子の乗り出してきた上半身を左手で制して、ドライビングサポートの機能を確認した。ハンドルサポートの効きを最大まで上げる。柚子は、詩乃の左腕を両腕で締め上げるように固めて、詩乃が逃げるのを許さなかった。


「結婚しても、詩乃君は小説書いて」


「書くって」


「そうじゃなくて! 趣味じゃなくて!」


 柚子は、詩乃の腕を離さず、じっと詩乃の顔を見つめた。詩乃はちらりと、柚子の顔を見た。柚子の真剣な眼差しを受けると、詩乃の心はちくちくと痛んだ。


「……もっと私を頼っていいんだよ」


 柚子にそう言われると、詩乃は、服を全部剝ぎ取られたような羞恥を覚えた。ハンドルを持っている右手も唇も、ぐっと固くして、詩乃はただその恥ずかしさに耐えるしかなかった。


 詩乃が、二枚貝のように固く黙ってしまい、柚子は成すすべもなく、沈黙の間は詩乃の腕を抱き寄せ続けることしかできなかった。

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