穂綿の小舟(8)
「いらっしゃい、柚子ちゃん、水上さん」
玄関が開いて、柚子の母――新見紬が出てきた。
柚子に輪をかけておっとりした雰囲気の奥様で、詩乃から見れば、十年前とほとんど変わっていないような気がする。
「あ、お母さん、ただいま」
柚子が言うと、紬は、サンダルをつっかけて、玄関から出てきた。
閉まり始めた扉がもう一度開き、今度は柚子の父、新見樹が顔を出した。樹は、広い額に、四角い顔をした男で、詩乃とは初対面である。樹は目を開き、門の外に末娘を見つけると、一瞬ほろっと目元を緩ませたが、すぐに口元を結んで、鼻からため息を吐きだした。
「水上さん、よくいらっしゃったね。――ほら、そんな所で話してないで、寒いんだから中入れてあげな。水上さん風邪引いちゃうよ」
樹の言葉に引っ張られるようにして、詩乃は玄関の敷居をまたいだ。後から柚子と紬が入ってくる。廊下を上がると、紬がすぐに詩乃のダウンジャケットを受け取った。
「あ、すみません――」
詩乃は緊張して、首をすくめながらリビングに入った。
リビングに入って左手には、アンティーク調の立派な木製ダイニングテーブルがある。長四角の四人掛け。詩乃の記憶の中にあるテーブルと全く同じものだった。椅子も、部屋のレイアウトも、テレビが大きくなっているくらいで、柚子の実家は、外装も内装も、詩乃の記憶の中のそれとほとんど変わらない。
それだけで詩乃は、無性に嬉しくなった。
「どうぞどうぞ、水上さん、まぁ座ってください」
「はい、すみません」
恐縮しながら、詩乃は促されるままに、座った。
樹は、落ち着かない様子でそわそわしていたが、そのうち柚子と紬が台所に行くと、手伝うことも無く、詩乃の向かい側に座った。
「柚子ちゃん、座ってなさいよ。あ、水上さんはお茶でいいかしら。お酒もあるけど」
「詩乃君、お茶でいいよね? もうすぐお寿司の出前届くって」
「あ、何でも飲みます」
詩乃の答えに、柚子と紬は台所でくすくすと笑った。
「水上さん、いやよく来てくれたねぇ。柚子が本当に世話になって」
「いや、自分はそんなに何も……自分の方こそ……」
もじもじと、詩乃は俯いた。
台所から柚子が戻ってきて、詩乃の隣に座った。
「お前、もう大丈夫なのか」
樹は、少し怒った様な口調で柚子に訊ねた。
「うん、もう平気」
柚子は微笑を浮かべてそう応え、詩乃に目をやった。
「あんまり心配かけるなよ」
樹が言うと、台所の奥から、紬が旦那の語調を咎める様な視線を送った。しかし樹は、こぶしを握って、強い、そして震える声で言った。
「俺や母さんはいいんだよ。親はそんなもんだ。何したって心配なんだから。でもお前、水上さんは違うんだろう。水上さんに迷惑がかかるような事、もう絶対にするなよ!」
最後の方は、立ち上がらんばかりの感情を、柚子にぶつけるようにして樹は言った。
樹の目じりは、赤くなっている。
「うん、ごめんなさい」
柚子は素直に、ぺこりと頭を下げた。
詩乃は、この空気をどうしたものかと思っていると、台所から紬が、お茶を持ってやってきた。
「まぁまぁ、良かったじゃない、柚子ちゃんも元気になったみたいだし。でも本当に、水上さんにはどうお礼をしたらいいかわからないわねぇ」
そう言いながら、紬は三人の前に緑茶を置いて、樹の隣の席に座った。
詩乃は、柚子を実家に送り届けたら両親に挨拶だけして、柚子には家族水入らずを過ごしてもらおうと、思っていたが、一杯目の茶がまだ半分以上残っているうちに寿司の出前が来てしまい、なし崩し的に、昼食を一緒にご馳走になることになった。
話題は、寿司のネタの好みの話から広がり、詩乃は、柚子の両親に、高校を卒業した後の自分のことを話す流れになった。詩乃も、柚子の両親が自分の来歴を知りたがっているのをわかっていた。
詩乃は、自分のしてきたことには少しの自信も無かったが、柚子の両親には、そういったことを話さないわけにもいかないと思った。
詩乃は高校卒業後、借金を返すために茨城に働きに出た。詩乃に借金があることは、柚子の両親も、柚子から聞いて知っていた。詩乃が高校三年生の時に死んだ父の、借金はその遺産である。相続放棄をすればそんなもの被らなくて済むはずだったが、詩乃はそのマイナスの遺産を引き継いだ。柚子と別れることになっても、そうしなければならないと、高校生の時の詩乃は頑なにそう信じていた。
茨城県の農家兼民宿で、詩乃は七年間働き、借金を完済した。借金を返すための就職だったとはいえ、その七年間は、決して蟹工船のような辛い日々でもなかった。詩乃が住み込みで働いていた新倉家の、親子三代にわたる家族は、東京から一人やってきた詩乃を養子のように迎えた。七年というと、詩乃が本当の家族――父と母の三人で、ちゃんと家族として過ごしていた時期と同じほど長かった。
バスの運転中に飛び出してきたキジを轢きそうになった話や、天然芝のグランドを管理するための散水機で派手な水遊びをした話、水溜まりで溺れそうになっていたモグラを助けた話や、台風でメロンのビニールハウスが吹き飛んだ話などは、柚子とその両親を楽しませた。
お嬢様育ちの紬や、一流大を出て銀行に入り、破天荒の「は」の字も出てこない人生を歩んできた樹にとって、詩乃の体験というものは、自分たちが経験してこなかったことばかりだった。そうして話を聞きながら、紬も樹も、娘が詩乃を気に入っている理由が良くわかった。
「――それに水上さんは、小説も書くんでしょう?」
あるタイミングで紬が言った。
高校時代は、詩乃は文学部に所属していて、その当時から紬は、柚子から聞いて詩乃が小説家を目指していることも知っていた。実は、文芸部が年に何度か出す部誌を娘から借りて、詩乃の小説も読んでいた。
小説は、確かに詩乃の本分だったが、しかしいざその話題になると、詩乃の顔は曇った。
「いやぁ、アマチュアですよ……」
詩乃はそう言って、穴子を摘まんだ。
借金を返した後、詩乃は東京に戻ってきた。新倉家の人々が詩乃を追い出したわけでは無い。むしろ彼らは、詩乃には、ずっとこっちで働いてほしいと思っていた。それでも詩乃は、七年間世話になった新倉家を離れて、東京は北千住に戻ってきた。
北千住は、詩乃が高校時代に一人暮らしをしていた町だった。駅から徒歩五分の場所にあるアパート。そこで詩乃は、小説を書こうと思った。茨城にいる七年でも、詩乃は小説をずっと書いてはいたが、コンテストに出したものは一作も無かった。このままではダメだと、そういう思いが、詩乃を北千住に帰したのだった。
ところが東京に戻ってみると、結局詩乃の小説は、捗らなかった。茨城で働いている間に取った調理師免許を生かして、北千住の駅内に入っているオムライス専門店でバイトをすることにした詩乃は、しかしいつの間にか、バイト中心の生活を送る様になっていた。初めの一年はそれでも、二作ほどは懸賞に応募したが、落選した。
二年目以降は、詩乃はもう、中編以上の小説を完成すらさせられなくなっていた。
そうして去年の十一月ごろ――つまり三カ月前、バイトで始めたオムライス屋の店長から、正社員にならないかと誘われた。詩乃はいよいよ自分も、このまま終わるのかなと思うようになっていた。小説家になりたいという目標も達成できず、これといった作品もこの世に残せないまま、日々を生きるために、今より少し良い賃金と社会保障と立場を手に入れて満足する。そうして、それも一つの人生だ、なんて言いながら埋もれていく、結局自分はそんな人生かと、そんな事を考えていた。
「書く才能っていうのかしら、やっぱりそういうのは、あるんじゃないかしら。書ける人っていうのは、それだけで才能があるのよ。親戚に作家さんはいないから、楽しみだわ」
母がそんな事を言うので、柚子の頬が微かに朱に染まった。
詩乃は、皆が寿司を食べ終えると、早々に茶をぐいっと飲み干して、夜に柚子を迎えに戻ると伝えると、柚子の実家を出た。車でどこかに行こうかとも思ったが、もし柚子がパーキングを見に来て、車が無いことにショックを受けたら嫌だなと思い直し、詩乃はひとまず、茗荷谷の駅に向かった。
詩乃が出て行った後、玄関から戻ってきた柚子と一緒に戻ってきた紬は、リビングに入るとすぐに、娘に直球の質問を投げかけた。
「結婚の約束は、まだなのよね?」
柚子は「うーん」と、考えながらテーブルの椅子に座った。
「そういう話は、していないのか?」
席に着いた柚子に、樹が言った。
「お前、どう思ってるんだ」
樹は、柚子に問いかけた。
柚子の心はもう決まっていた。結婚なんて、詩乃君以外とは考えられない。しかし、そのことを父に明言するのは躊躇われた。自分がそう宣言してしまったら、父は何か、結婚を催促するようなことを、詩乃に言うかもしれない。その柚子の考えを、母親である紬は、すぐに悟った。
紬の方はというと、すでに柚子との電話のやりとりで、柚子の詩乃への気持ちを知っていた。高校時代、柚子と詩乃が付き合っていた当時も、紬はそのことを知っていた。紬は、根掘り葉掘り娘の恋愛を知りたがるタイプの母親ではなかったが、それがかえって柚子には良く、柚子の方から、詩乃についての打ち明け話や、未だに樹には言っていない二人だけの秘密を共有していた。
その頃から紬は何となく、この子は水上君と一緒になるのだろうか、とぼんやり思っていた。紬も、柚子が小学生時代からずっと異性人気のあることは良く知っていたが、柚子は常に受け身だった。告白はされても、自分からはしなかった。そして付き合っても、いつの間にか別れている。
ところが、高校二年生に上がって、紬は娘の意外な一面をたくさん目撃した。我を通す、ということのなかった柚子が、詩乃の事だけは、譲らなかった。いわゆる、〈ごっこ遊び〉的な恋とは真剣味が違うのを、紬は感じ取っていた。
「お父さん、そんなに急がなくたっていいじゃない」
紬が言った。
「急いでるわけじゃないよ」
樹は、少し拗ねたような口調で言って、茶を啜った。
「ゆっくりでいいと思うわよ。二人のペースが大事なんだから」
紬は、柚子にというよりも樹に対して言い聞かせるように言った。そしてその半分は、自分に対して。
紬も、本心では、すぐにでも柚子が詩乃と結婚できることを望んでいた。こうしたい、という強い意志を見せない娘が唯一執着できる相手なのだ。一緒になってほしい。
しかし紬は、そんな自分の、少し過剰になってきた娘への愛に鈍感でもなかった。娘の事ばかりになって、水上さんの事情を無視してしまっている。
「紬、水上さんにプレッシャーかけるなよ」
樹が言った。
紬は、ぎくりとした
「水上さんだって、考えがあるんだ」
「――私はしないわよ。お父さんじゃないんだから」
「俺は、しないよ」
柚子は、父の空いた湯呑に茶を注いだ。
「お父さん、もし私が結婚したいって言ったら、賛成してくれるの?」
「馬鹿」
樹はそう言いながら、柚子の注いだ茶の湯呑を受け取った。
「俺に反対されたら結婚しないのか」
「お父さん、言ってることデタラメよ」
紬が柔らかくそう言ってとりなす。
「ううん。――そうだよね」
柚子はぽつりとつぶやいた。
その後、柚子と紬は、二階の調理室に上がっていった。日頃、紬がお菓子作りの料理教室を開いている場所である。柚子もまだ実家にいた頃は、よく調理室で、母と一緒にお菓子を作っていた。そして今日は久しぶりに、二人でガトーショコラを作ろうということになっていた。
「お父さん、本当は嬉しいのよ。昨日からずっとそわそわしてたんだから」
階段を上がりながら、紬が言った。
「――だからね、ちょっと説教っぽくなっても、許してあげてね」
「うん、大丈夫」
柚子はそう応えながら、父に叱られた記憶が頭に蘇ってきた。父と柚子の姉――柚子の十歳年上の彩芽は、樹とよく舌戦を繰り広げていたが、柚子はあまり、父には怒られたことも、叱られたことも無かった。それだけに、門限を破った時や、やんちゃな友人に倣った乱暴な言葉遣いをした時など、数少ないその叱られた時のことを、柚子はよく覚えていた。
「お父さん、詩乃君のこと、どう思ってるのかな」
柚子は、少し心配していることを母に訊ねてみた。
「大丈夫よ。きっと、気に入ってるんじゃないかしら」
紬は優しく答えた。
そうだといいなと、柚子は思った。