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星の海で遊ばせて  作者: ノマズ
後日譚,霧の夜は二人だけ
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穂綿の小舟(7)

「私、あの男の人と、付き合ってたんだ」


「あぁ、うん。社長だっけ?」


「正確にはCEOっていうんだけど、そう、その人と」


 詩乃は、へらへら笑おうと思ったが、できなかった。


 いっそその社長とのことは、ずっと曖昧なままでいいとさえ、詩乃は思っていた。他の男とのことは、正直な所、詩乃は聞きたくなかった。他の男と柚子が一緒にいるシーンを、想像したくない。しかし詩乃の想像力は、長年の作家活動の賜物かそもそもの才能か、人並外れている。一瞬で色々な場面を、まるで目の前の現実のようにはっきりと映像化できてしまう。


 しかもそれは、止めようと思っても、一度スイッチが入ると自分の意思では止められない。


 ――やめてくれ、と詩乃は思った。


 柚子を巡る妄想と同時に、柚子に対する百種類の皮肉の言葉が思い浮かぶ。


 詩乃はそれを喉の奥に呑み込み、そんな考えを持っている自分に自己嫌悪を覚えた。


 どうして自分は、今なお大人の――余裕のある男になれないのだろうと、詩乃は思った。


「――相手に婚約者がいること、知らなったんでしょ」


「うん」


 週刊誌の報道では、あたかも柚子が悪女のように報じられていたが、やっぱりそんな所かと詩乃は思った。柚子に、略奪愛なんてできるわけがない。しかし仮にそうだったとしても、別にどうということはないと、詩乃は思っていた。


 それよりも詩乃は、その男――栖常明というカリスマIT社長と柚子が、仲良くしていたことが嫌だった。しかし、嫌だと思うのに、どう仲良くしていたのか知りたいという怖いもの見たさと、嫉妬に駆り立てられた下世話なやじ馬心が詩乃の心をかき乱した。


「週刊誌の報道なんて、誰も真に受けちゃないよ」


 そう言いながら詩乃は、自分の心の中に、週刊誌の下賤な品性があるのを自覚していた。


 週刊誌に載っていた柚子の写真が、詩乃の脳裏に蘇る。


 柚子とその男――栖常明が、東京湾に浮かぶ客船のオープンデッキの上で、互いに腕を回し、今にもキスをするというその直前の一枚。


「まぁ、男が新見さんを放っておくわけないからね」


 詩乃は気まずい沈黙を避けるために、無理やりそんな事を言った。


 柚子は反射的に口を開いた。


「でも私栖常さんとは――」


 そこまで聞いて、詩乃はもう限界だった。


「聞きたくなぁーい!」


 駄々をこねる子供の様にそう言うと、詩乃は車を追い越し車線に入れ、アクセルを踏んだ。ぐおおっと、エンジンが唸りを上げ、スピードメーターの針がどんどん右に向かって動いていく。


「待って待って、詩乃君、ストップストップ! 詩乃君以外とは、キスもそれ以上もしてないから!」


「え、そうなの?」


 詩乃は柚子の言葉を聞くと、思わずアクセルを離した。


「うん、そうだよ。キスだって、できなかったんだから」


「なんで?」


「わからないけど……たぶん、詩乃君を思い出しちゃって」


「あぁ、そうなんだ……」


 詩乃はウィンカーを出して、車を走行車線へと戻した。


 何とも言えない沈黙が、BGMもかけていない車内に流れた。


「あの写真は?」


「船の?」


「うん」


「あの後、栖常さんのこと突き飛ばしちゃった……」


「突き飛ばした?」


「……うん」


 あっはっはっはと、詩乃は声を上げて笑った。


「それは……残酷だね」


 うっ、と柚子は言葉に詰まった。


 笑った後は、詩乃は栖常という男に対して少し神妙な気持ちになりながら言った。


「だけど自分も、スーツが似合う男には、やっぱり憧れるよ」


「え、そうなの?」


「うん。無い物ねだりかもしれないけどね」


 詩乃はそう言いながら、頭の中には、会社ホームページに載っている栖常明の姿があった。


「仕事ができるわけじゃなくても、やっぱり自分なんかは。着てこなかったせいもあるかもしれないけど。――見栄だね」


「え、でも、詩乃君のスーツ姿、ちょっと見てみたいかも」


 詩乃は、首を振って笑った。自分にはスーツは似合わないよと、詩乃は言った。しかし柚子の隣にはスーツ姿の男が似合うと、詩乃は思った。柚子を助手席に乗せて、その車を運転するのは、やっぱり、スーツ男だ。その方が絵になる。


 詩乃がそんな事を考えていると、柚子はぽつりと、詩乃に訪ねた。


「――ところで、詩乃君はどうなの?」


「え、どうって?」


「付き合ってた人、いるの?」


 柚子は、少し頬を膨らませて、その手をマイク代わりに詩乃の口元に持って行き、答えを催促した。詩乃は笑いながら答えた。


「いないよ」


「え、いないの!?」


「うん。新見さんだけ」


 詩乃の答えを聞いて、柚子は顔を赤らめた。


「でも、ちょっと良い仲になったような人くらいは、いたんでしょ?」


「いない」


 詩乃は即答した。


「ふーん、そっか、いないんだぁ」


 柚子は、ほくほくと笑顔を浮かべた。


「じゃあ、デートも私とだけなんだね」


 それに関しては、詩乃は首を斜めに傾けた。


「え、待って詩乃君」


 柚子の反応は早かった。


「うん?」


「デート、他の子としたことあるの?」


「あぁっと……デートかどうかわからないけど、あったような、無かったような?」


「ちょっと、詳しく聞かせて」


「えぇ……」


 詩乃は、ちらりと柚子の顔を見た。


 真顔というほど怖くはないが、目の力だけは強く、確実に聞き出そうという意気込みの本気度はひしひしと伝わってくる。もがけばもがくほど絡まる蜘蛛の糸がごとく、誤魔化せば誤魔化すほど、柚子の糸が締め付けてくるだろうと、詩乃は観念した。


「一回は牡蠣小屋に――」


「一回って事は、二回目も、三回目もあるの?」


 少し泣きそうになりながら、柚子は詩乃に確認した。


 詩乃は、「ま、まぁ」と曖昧に返事をした。


「どうしてそんなことになったの!? どんな子! いつ!」


 柚子は詰問の調子で言ったが、柚子の声はもともと柔らかいので、詩乃は思わず笑ってしまった。


「大学生だよ」


「大学生!?」


「オムライス屋のホールのバイトだったんだけど、なんか、オムライスの作り方教えろって言われて、それで――」


「それで!?」


「教えた」


「教えたの!? どんな風に?」


「どんなって、普通だよ。家来てもらって、普通に、フライパ――」


「家って、詩乃君のお家?」


「うん」


「なんでなんで!」


「ちょっ、危なっ、待って待って!」


 柚子が詩乃の長袖シャツを掴んで、ぐらんぐらんゆすったので、それに合わせて車もぐらぐら揺れた。ハンドルアシストがONになっているのを確認し、詩乃は一旦ハンドルから手を離した。


 柚子は気が済まず、詩乃に質問をつづけた。


「それ、いつの話?」


「去年」


「去年!? 最近!?」


「まぁ、うん」


「ダメだよ!」


 柚子はそう言いながら、詩乃の服を握り、顔を詩乃に近づけた。


 柚子の鼻が詩乃の頬にめり込み、それだけでは飽き足らず、柚子は詩乃の首筋に口を近づけた。


「ちょっと、くすぐったいよ! そんな、ドラキュラじゃないんだから!」


 詩乃が暴れるのを面白がって、柚子は、詩乃の首をぺろりと舐めた。


 詩乃の口から気の抜けたような声が漏れると、柚子は顔を上げて、にやりと詩乃に笑いかけた。


「もうダメね、詩乃君は、私以外とデートしちゃ」


「しないよ」


「……ねぇ、今日これから牡蠣小屋行かない!?」


「今日はこれから実家でしょ」


「でも……」


「今度ね」


「うん、絶対ね。約束したからね」


 柚子はそう言うと、詩乃の左手の小指を、自分の小指と絡めた。






 柚子の実家は、文京区の落ち着いた住宅街の一画にある。


 車をコインパーキングに止めて、二人は柚子の実家に歩いた。


 柚子にとっても一年ぶりの実家。詩乃にとっては十年ぶりの、柚子の家。庭と、二台の車が置ける駐車場を持った、ゆったりした二階建ての邸宅。駐車場には赤のころっとした可愛らしいアウディが一台だけ停めてある。しかし十年前との明らかな変化は車の種類とその台数くらいなもので、後は、詩乃の思い出の中の〈柚子の家〉とほとんど変わりなかった。


 詩乃は懐かしさに、「あぁ」と感嘆し、玄関に続く小さな門の前に立ち止まった。


 初めて柚子の家に呼ばれた時、詩乃は、寝坊で大遅刻をしてしまった。そしてまた門の前は、詩乃の思い出の場所でもあった。この門の前まで柚子を送った後、柚子と別れるのはいつもこの門前だった。そして庭は、高校三年生のクリスマス。雪が降り、柚子と二人で、あの庭を駆け回った。


「懐かしいなぁ」


 今になって詩乃は、自分の高校時代は、本当に柚子と一緒にあったのだなと実感した。

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