穂綿の小舟(6)
「やっぱり私、詩乃君が嫌なら、仕事変えようかなって思うんだ」
「ええ!?」
詩乃は声を上げた。
それは、仕事の話が柚子の口から出て来たからではない。ひと月前では考えられなかったが、今の柚子は、充分に仕事ができるだけの活力と心の安泰を取り戻している。
その仕事にしても、柚子なら、ほしがる会社はいくらでもありそうだと詩乃は思っていた。だから、転職そのものに苦労することは、無いかもしれない。業種を変えても、十分やって行けるだけの力が、柚子にはある。
でも、そうじゃない――と、詩乃は思った。
今日も、昨日も、最近はずっと、発声や読みの練習を柚子はしている。それはもしかすると、復帰を考えて行っていたわけではなく、休職以前の柚子の習慣が復活しただけなのかもしれない。けれど、どちらにしても、やっぱり柚子は、アナウンサーという仕事が好きなのだろうと、詩乃は感じていた。それのせいで追い込まれた側面はあったにしても、やっぱり、戻りたいのではないか。
「嫌じゃ、ないよ」
詩乃は言った。
それが嘘の気持ちか本心か、詩乃自身にもわからなかった。
「本当は?」
柚子は、詩乃の胸を人差し指でいじりながら追求した。
「本当、だと思う」
「もう」
と、柚子は詩乃の頬に手をやり、顔を詩乃の胸に埋めた。
「嫌なら嫌でいいよ。私は――」
「違うんだよ……」
詩乃は、柚子の肩に手をやった。
詩乃は困り果ててしまった。
そうしてふと、詩乃は自分の事を考えた。自分は、仕事と呼べるような仕事をしていない。作家になりたい、それで食べていきたいと思ってはいるが、その想いなんて、柚子のアナウンサーに対する想いに比べたら、全く貧弱なような気がする。あの、部屋から聞こえてくる柚子の声。そして、時事ニュースのメモを取る柚子の真剣な眼差し。自分なんて、とても及ばない。
「――新見さん、ニュースやって」
「え、ニュース?」
「うん。天気予報でもいいけど。ほら、さっきやってたみたいに」
「あぁ、いいけど……じゃあ」
と、柚子は詩乃のリクエストに応え、頭の引き出しにあるニュース原稿をいくつかとってきて、それを空で読み上げた。箱根で紫陽花が見ごろだというニュース、熱海のビール祭り、そしてホワイトクリスマスの天気予報。
柚子の声は淀みなく、その綺麗なソプラノの声は、一音一音はっきりとした輪郭をもち、詩乃はあたかも、ハンドベルの演奏を聞いているような心地がした。
柚子は確かに、もともと声は綺麗だった。しかし、その素質だけでは、こうはならない。柚子の声は、しっかり練られた、プロの声だ。日々の修練の積み重ねが、この、演奏のような声を作ったのだろう。その素晴らしいものを、自分の一言で崩してしまうことは、自分にはとてもできないと詩乃は思った。
柚子のニュースが終わった後、詩乃は咳払いをして、涙で詰まりそうな声を隠し、言った。
「続けた方が良いよ。新見さんの声、すごく綺麗だから」
「え、本当に!? 本当にそう思う?」
「うん。もし新見さんが、続けたければだけど」
「私……続けたい。復帰してまた――」
と、その時テレビでは、流行りの激辛ラーメンをすすって咽ているキャスターの顔のアップが写っていた。一瞬柚子と詩乃は沈黙し、そして思わず噴き出した。
「――復帰したらあんなことしなきゃいけないんだね」
「まぁ、そういうことも、あるけどね」
柚子は笑いながら応えた。
柚子の笑顔を見ながら、もう柚子は大丈夫なんだなと詩乃は思った。
二月十四日、バレンタインデーのその日、柚子は一度、両親の住む文京区の実家へと帰ることになった。翌週には、会社にも顔を出すことになっている。仕事の方は柚子の上司である福美部長が、柚子の復帰を全面的にサポートすることになった。
柚子の心と体の不具合も、この頃にはすっかり良くなっていた。幼児退行のような言動や、それに伴う過剰なスキンシップも無くなって、それはそれで詩乃は寂しい気もしたが、しかし、突然落ち込んだり、顔から表情が無くなったり、不意に涙を流したりといったことは、もうなくなった。目から溢れるエネルギーは、もう詩乃を圧倒させるまでになっていた。
柚子が実家に帰るその日、詩乃はレンタカーを借りた。柚子は電車でいいと言ったが、詩乃がそれを許さなかった。回復傾向とはいえ、柚子は局アナで無名の人間ではない。無用な危険やストレスの芽は、摘んでおきたい詩乃だった。
詩乃が車をマンションの前に回すと、エントランスで待っていた柚子は、詩乃の乗ってきた車に驚いてしまった。レンタカーというから、柚子はある程度量産型の、見慣れた国産車を想像していた。
ところが詩乃の乗ってきたのは、黒光りしたアルファロメオのスポーツセダンだった。
柚子は、車を止め運転席から出てきた詩乃に駆け寄った。
これまでも柚子は、やはりいつの時代もモテたので、詩乃と別れた後、この十年の間も、男との付き合いも少なくなかった。しかも、社会人になってからの相手はいつも金持ちだったので(それを柚子が狙ったわけでは無かったが)、成功者にありがちな外車や高級ブランド車が自分を迎えに来ることは自体は、それこそ柚子にとっては、特別なことでは無かった。
しかし詩乃が相手だと、柚子の感情も違った。
「どうしたの、この車!? これ、レンタカー?」
「うん。ほら、新見さんの実家、確かアルファロメオだったなと思って。色は、赤だったけど」
「そうだけど――」
「じゃ、行こう」
詩乃は、そう言うと助手席のドアを開けた。
「うん、ありがと」
柚子は、自分の心に沸き起こった予想外の喜びに戸惑いながら車に乗った。
詩乃も運転席に戻り、シートベルトを締めた。その何気ない詩乃の仕草に、柚子はドキドキしてしまった。詩乃はサイドブレーキを降ろし、車が静かに動き出した。
柚子は、息を吸い込んだ。
やっぱり詩乃君は特別なんだなと、動き出した車の中で柚子は実感した。
詩乃の運転する車の助手席に乗っている。その事実を意識するだけで、柚子の頬は赤くなってしまうのだった。そんなことはこれまで、一度も無かった。高校時代、観光船に二人で乗ったことがあったが、その時の感情を柚子は思い出した。
懐かしいやら、恥ずかしいやら、嬉しいやらで、柚子の頭はパンクしてしまいそうだった。
「普通の車で良かったのに」
柚子が言うと、詩乃はハンドルを切りながら応えた。
「落ち着くでしょ、乗り慣れてる車は」
「え、そのために選んでくれたの?」
「まぁ。あとは自分も、こういうクルマ、乗ってみたかったんだよね。向こうじゃバスばっかりだったから。まぁ、年代物の馬鹿でかいアメ車は何度か運転させてもらったけど」
〈向こう〉というのは、詩乃が高校を卒業した後の就職先のことである。茨城県某所に、七年間住み込みで働いた。そこは、スポーツの団体客を止まらせる宿も経営していたので、詩乃は食事だけでなく、その送迎バスも運転していた。
「詩乃君、大型バス運転できるんだっけ」
「うん。でも、運転はものすごい久しぶりだよ。事故ったらごめん」
「安全運転でお願いします」
「はい」
と、言いながら詩乃は、いきなりアクセルを踏み込んで柚子を驚かせた。
柚子が目を満丸くするのを見て、詩乃は笑った。
「いい音だね」
「――吃驚したぁ」
「安全運転にしよう」
「そうだよ!」
柚子は、そう言いながら、驚いた自分と、詩乃の突飛さに笑いが込み上げてきた。
車は、高速道路を走った。
「ねぇ、あの、詩乃君」
柚子は、会話が一つ途切れた後、詩乃に切り出した。
柚子の何か躊躇いがちな様子に、詩乃は、心の準備をした。何を柚子が言おうとしているのかはわからないが、互いにまだ、曖昧なままにしていることがたくさんある。そのことのうちの一つだろうと、詩乃は思った。
「どうしたの?」
詩乃は、軽い口調で聞き返した。
柚子は、言葉を選びながら、慎重に言った。
「去年の、十二月に出てた私のこと――報道、知ってる、よね?」
そのことか、と詩乃は軽く息を止めた。
柚子の、過去の男の話を聞くには、詩乃にもそれなりの覚悟が必要だった。詩乃は、タイヤが路面を転がる音と振動の中で息を整え、腹筋にきゅっと力を籠め、それから答えた。
「まぁ」
柚子は、口を噤んだ。
例のスキャンダルの真実を、ちゃんと詩乃には伝えたいと、柚子は思っていた。しかし詩乃のことを考えると、なかなか言葉を出せなかった。そして言葉が出てこないのは、詩乃のせいだけでもなかった。他の男と付き合っていた過去が、柚子の中で錘のような罪悪感になっている。
しかし柚子は、嫌でも言わなければならないと思った。