穂綿の小舟(5)
「あ、もしもし、水上です」
二月の頭、平日の昼過ぎに、詩乃は福美に電話をかけた。福美沙織は、柚子の所属するアナウンス部の部長である。これまで、柚子の会社と詩乃との間の連絡は、詩乃がプロデューサーに怒鳴った日以来、この、福美が担当している。
しかし、詩乃の方から福美に電話をかけるのは、これが初めてだった。
『あぁ、どうも、水上さん!』
福美の方も驚いたと見え、声がワントーン上がった。
と思うと、今度は急に声を落として、恐る恐るといった調子で詩乃に訪ねた。
『――何か、ありましたか?』
「あ、いえ、すみません……あの、新見の事で」
『えぇ』
「最近、だんだん調子よくなってきてまして」
『あぁ、そうですか! 外出はどうですか?」
「最近朝ランニングを始めて、この間は、スーパーに行きました」
『あぁ、本当ですか。じゃあ、着実に回復しているんですね』
「はい」
電話越しに、ほうっと、嬉しそうなため息が聞こえる。
それから詩乃はもう少し詳しく、柚子の様子を福美に話した。
最初に電話で話した時から、詩乃は、福美のことは、信頼できる人間だと思っていた。そしてその直感は、今の所裏切られていない。
『――でも、慌てなくて大丈夫ですよ。新見さんの場所は、ちゃんと空けていますから。あぁ、そうだそうだ、それから、前に少しお話した傷病手当と、特別休業手当の手続きも終わったので、来月から新見さんの銀行口座の方に振り込まれます』
「色々、ありがとうございます」
『いえいえ。何か困ったことがあったら、言ってくださいね。新見さんにもよろしくお伝えください。ごめんください』
福美との電話は、柚子が衣装室に使っている洋室で行い、電話が終わると詩乃は、リビングに戻った。すると、ソファーで寝ていたはずの柚子が、いつの間にか起きていて、詩乃が戻ってくるのを待っていた。
「あれ、起きたの?」
「うん」
詩乃は頷き、柚子の斜め向かいにぺたりと坐った。
「福美さん?」
柚子は、詩乃に訪ねた。
詩乃が福美と連絡を取り合っていることを、柚子は、詩乃が言ったわけでは無かったが、いつの間にか知っていた。
「あぁ……うん」
「福美さん、良い人だよね」
「うん。手当の手続きができたから、お金入るって」
「あ、本当に? 良かった。やっぱり福美さんだなぁ」
「あとは……」
詩乃は、少し言うのを躊躇ったのち、口を開いた。
「慌てなくても、場所は空けておくって」
「なんか、悪いなぁ」
詩乃は、苦虫を噛み潰したようなへの字口をして、俯いた。
「どうしたの?」
詩乃は、柚子に言われて、顔を上げた。
――もう柚子は、自分の顔色のちょっとした変化を見逃さない、そういった余裕を取り戻している。高校生の頃から柚子はそうだった。自分は、あんまり何も言わないのに、不思議と感情を、悟られてしまう。
「新見さん、仕事、復帰する?」
「え?」
柚子は、詩乃からの意外な質問に少し驚いて聞き返した。
「あ、いや、深い意味はないよ。ただ、復帰したいのかなぁと思って」
柚子は、じっと詩乃の目を、その奥の奥まで覗き込むように見つめた。詩乃は、柚子から目を逸らせた。
「詩乃君、私にアナウンサーの仕事、続けてほしくない?」
柚子は詩乃に訊いた。
詩乃は、息を呑み、それから慌てて応えた。
「そんなことないよ。誰でもできる様な仕事じゃないと思うし、新見さんが、その仕事が好きなら、復帰した方が良いよ」
詩乃が言うと、今度は柚子が、珍しく詩乃と同じように、じっくり考えこみ、それからやがて、顔を上げて、詩乃を真っすぐ見つめながら詩乃に訊ねた。
「詩乃君は?」
「え?」
「詩乃君は、どう思ってる?」
「……自分のことは、いいよ」
詩乃が言うと、柚子は首を振った。
「そうじゃなくて……私、詩乃君の見立ては、やっぱり確かな気がするんだ。だから今までも、詩乃君だったらどう言うかなって考えて、何か決めなきゃいけない時にはそうしてきたんだよ。――たぶん詩乃君は、私よりも、私の事……私の先の事、見えてるんだと思うんだ」
「買いかぶりだよ」
詩乃は、少し乱暴に、吐き捨てるように言った。
「自分なんて、何もわかってないよ。新見さんが、今の仕事にどんな想いがあるのかわからないのに、勝手なこと言えないよ。それに……」
詩乃は、自分の稼ぎに関係した事を言おうとしたが、その言葉は呑み込んだ。
「うん」
柚子は優しく頷いて、詩乃の言いかけたその続きを促した。
「いや、やっぱりいいや」
「言っていいよ。私、聞くから」
詩乃は側頭を掻き、顔をゆがめた。
「私は、自分の事でも、詩乃君の意見をちゃんと聞きたいよ。詩乃君は、我慢しすぎだよ。もっと私に、こうしてほしいって、言っていいのに」
詩乃は、いよいよ困ってしまった。
本心は、柚子にはアナウンサーを続けてほしくないと思っていた。けれどそれが、柚子にとって本当にいいことなのかどうか、それはわからなかった。絶対にこっちだ、というほどの、いつもの強い直感は、この件に関しては働いていなかった。ただ感情的に、柚子にはテレビに出ないでほしい、と思っているだけに過ぎない。
果たしてそれを、意見と言えるのだろうか。
「自分は……」
詩乃はぽつりと言った。
「新見さんの、足手まといにはなりたくない……」
そう言って詩乃は俯いた。
柚子は思わずソファーから上半身を起こし、詩乃の身体にダイブするようにして、詩乃を抱きしめた。
「そんなこと思ってないよぉ!」
チュ、チュと、柚子はどさくさに紛れて、詩乃の頬にキスを浴びせた。
「わかってる、わかってる」
詩乃は、柚子後ろ頭を撫でて、笑いながら言った。
二月に入ってから、柚子の睡眠時間が、少しずつ減っていった。京都から戻って来たばかりの頃は、一日の殆どの時間を寝て過ごしていた柚子だったが、その多すぎた睡眠時間はだんだんと減り、夜寝ても朝までに二度、三度と目を覚ましてしまう中途覚醒といった症状も、なくなっていった。
起きている時間が増えると、その時間で柚子は、原稿読みや発声の練習をするようになった。朝起きて、ランニングをして、シャワーを浴びて、朝食を摂る。その後は少し詩乃との閑談の時間があり、それから昼までの時間で、柚子はアナウンスの自主練習をする。その流れが二日続き、三日続き、一週間続くと、それは新しい柚子の習慣になった。
詩乃はというと、このひと月ちょっとの間に懸賞用の長編を一つ書き終えて、今はその添削のために、書きあがった小説を寝かせていた。それは、良い添削作業をするための詩乃の工夫だった。小説が書きあがった後、三日から一週間程度置くと、自分の書いた小説を少し忘れ始めるので、そうするとかえって、客観的に、一読者の視点で文章に当たることができるのだ。
小説を寝かせている間は、新しい作品を書く気にも、新作の構想を練る気にもならないので、柚子が自室で発声練習を始めると、詩乃は一つ二つ、思いついた詩を書いた後は、ソファーに座ってぼーっとしながら、部屋から聞こえてくる柚子の声を聞くこととなった。
今日も、柚子の心地の良い声が、リビングまで聞こえてくる。
『先週も日本海側を中心に大荒れの天気となりました。こちら、今現在の天気図です。非常に強い寒気が流れ込んでおり、日本海側の地域では明日も引き続き、大雪や吹雪への警戒が必要です。また四日、五日は東京などの関東南部の平野部でも積雪の恐れがあります。四日は、暦の上では立春となりますが、まだ春とは言い難い寒い日が続くでしょう』
外郎売、エンタメニュース、そして天気予報と続き、その後はナレーションの練習を始めたようだった。詩乃は何となく、テレビを点けた。
昼食前になると、柚子が部屋から出てきた。
リビングに戻った柚子は、詩乃がテレビを見ていることに驚いた。
「よいしょ」
柚子は、詩乃の隣に座り、一緒にテレビを見ることにした。
かかっているのはテレビ城東の〈昼いち!〉である。それはまさに、柚子が出演していた、昼の帯番組だ。
「珍しいね」
「たまにはね」
「ふーん」
柚子は、詩乃の胸に頭を持たれかけた。そして、テレビを見る詩乃の目を見る。
何を考えているのだろう、と柚子は詩乃の考えを瞳の奥に探った。
番組はちょうど、ペットのコーナーだった。視聴者投稿のネコやイヌの面白い動画が流れて、スタジオのキャストがそれにコメントをしている。
「ネコ、いいね」
「うん」
「詩乃君、犬も好き?」
「そんなに。嫌いじゃないけど」
あれ、と柚子は思った。
詩乃は、動物の事を良く知っている。それなのに随分、反応が淡白だ。
「ペット、飼いたい?」
柚子が質問すると、詩乃は柚子を見て言った。
「もう兎いるしなぁ」
「私ペットじゃないよ」
「うん」
くすくすと、柚子は笑った。
「――何か嫌なんだよね」
「……え、何が?」
柚子は上半身を少し起こして、詩乃に訊ねた。
「ペット」
「え、でも、詩乃君動物好きだよね?」
「うん」
「でも、ペットは嫌なの?」
「うん。人間が飼うっていうのは、何かね」
ちょうどテレビでは、新しい犬の映像が映し出されていた。鏡に映った自分と闘っているチャウチャウ犬。生放送のスタジオでは、柚子の同僚キャスターや馴染みのタレントたちが可愛い、可愛いと笑っているが、詩乃はその顔を微かに曇らせる。
「詩乃君、あのね、復帰の事なんだけど――」
柚子が切り出すと、詩乃はテレビから柚子へと視線を移した。




