穂綿の小舟(3)
バスの中は静かだった。
座席は半分ほど空いていて、乗客のうちの殆どは、すでに眠る準備に入るか、携帯デバイスでゲームをするか、イヤホンを耳につけるかして、自分の世界に入っていた。詩乃はそれでも、眠れる猛獣の檻に入ったかの如く注意を払って一番奥の座席まで柚子を連れて移動し、窓側に柚子を座らせて、詩乃はその隣に腰を下ろした。
二人が座るとドアが閉まり、バスは間もなく動き出した。
ほっ、と詩乃は息を吐いた。
そんな詩乃の口元に、柚子は八つ橋を手でつまんで差し出した。
詩乃は、苦笑いを浮かべながら八つ橋の半分を齧り、柚子は手に残ったもう半分を自分で食べた。
「あ、もう外していいよ」
詩乃はそう言いながら、柚子の眼鏡とマスクを取ってやった。
柚子は、詩乃の手を捕まえて、その手の甲に唇で触れた。
ここでなら人目もないし、少しくらい大丈夫かと、詩乃も柚子の手を捕まえて、その手の甲にちゅっとキスをした。そうすると柚子は、まだもぐもぐと八つ橋を食べながら、詩乃に抱き着いた。
「東京に帰ったら、詩乃君、行っちゃうの?」
「行っちゃうって?」
「お別れは嫌だ」
柚子はそう言いながら、詩乃の手を握った。
それは一つ、詩乃も考えている目下第二の問題だった。詩乃からすると、まだ柚子を一人にするのは怖かった。これからは恋人同士か、それ以上の関係ということになるにしても、そういうことではなく、物理的に柚子を一人にするのが恐ろしかった。まだ柚子の感情は安定していず、何をしでかすかわからない。
「うちは狭いからなぁ……」
「ううん、いい。詩乃君の家、行く」
「このまま?」
「うん」
詩乃は少し考えてから、柚子に訊ねた。
「そっちの、家は?」
詩乃は、声をひそめて言った。
誰が聞き耳を立てているかわからないので、〈柚子〉の名前は極力出したくない詩乃だった。
「え、私のうち? 詩乃君、来てくれるの?」
「もし良ければ、このまま行くよ」
「本当?」
「うん。いい?」
「うん、来て! 部屋はちゃんとあるから」
「わかった」
詩乃がそう言うと、柚子も安心したのか、ころんと詩乃の肩に頭を乗せて、目を閉じた。そうしてぽつりと、柚子は口を開いた。
「今度は帰って来るんだね」
柚子の言葉に、詩乃の、昔の記憶が呼び起された。
高校の卒業式の後の三月末、東京を出る自分を、柚子は見送ってくれた。忘れもしない、東京駅の八重洲口。十年前の別れの瞬間。バスに乗って窓を見下ろすと、柚子が、今にも泣きそうな顔で自分の事を熱心に見上げていた。
そしてバスが出て、柚子を見失うその瞬間、柚子が、泣き崩れたのを見たような気がした。あの姿は、幻だったのか現実だったのか、ずっとわからなかった。しかしとにかくそれが、柚子をこの目に見た最後だった。
「行くべきじゃなかったね……別れるべきじゃ……」
詩乃は、ぽつりとそう言った。
柚子はもう、寝息を立てていた。
詩乃は柚子の頬を撫で、「ただいま」と、その頬にこっそり唇を付けた。
詩乃の家は東京北部の窓口である北千住にあるが、柚子は、千葉市の西に住んでいた。京葉線で勤務先まで一本の、千葉みなと駅から徒歩五分という場所にあるマンションの二階である。和室が一つに、洋室を二つ持った3LDK――京都から帰ってきて、その足で柚子の家に招かれた詩乃がまず感じたのは、寂しさだった。
柚子の家は、一人で住むには広すぎる。
ここに柚子は、ずっと一人で住んでいたのかと思うと、詩乃はやりきれなかった。
テーブルの上やその近くには、詩乃と柚子の、高校時代の思い出の品がごそっと出ていた。アルバムに、そして、昔詩乃が柚子にプレゼントした贈り物の数々。
「台所使っていい? 何か作るよ。お腹空いてるでしょ」
「やったぁ、ありがとう。詩乃君の料理、美味しいんだよね」
「覚えてる?」
「一度だって忘れたことないよ!」
そっか、と詩乃は応えて、手早くクリームパスタとコンソメスープを作った。この三年間はオムライス専門店で、その前は農家兼民宿で料理も作っていたので、パスタとコンソメスープくらいは、手慣れたものだった。
詩乃の手際の良さに、柚子は見とれてしまった。
高校時代から、詩乃は料理は出来たが、今の詩乃は、まさにプロだった。てきぱきしているのに、皿への盛り付けは繊細に仕上げる。動きの一つ一つが、様になっている。
「詩乃君、コックさんになったの?」
「なってないよ。今はオムライス屋でバイトしてるだけ」
「えぇ、そうなんだ!」
京都ではずっと二人は一緒にいたが、柚子はほとんどの時間を寝て過ごしていた。その上詩乃は、柚子と話すときでもできるだけ、現実を想起させるような話題を出さなかった。そういったこともあり、詩乃のバイトの話を柚子が聞くのは、これが初めて聞いた。
「昔よりは、まぁ、ちょっとは上手くなったかな、料理。――あ、食べてていいよ。先に洗えるもの洗っちゃうから」
詩乃はそう言いながら、今使ったばかりのフライパンや鍋を洗い始めていた。
「美味しい! 詩乃君、美味しいよ! お店みたい!」
キッチンカウンター越しの柚子の感想に、詩乃は照れ笑いを浮かべた。
「新見さん専属のコックになるよ」
洗い物を終え、手を拭きながら、詩乃は自分の分のパスタとスープを、テーブルに運んだ。
「終身雇用でいい?」
柚子の冗談か本気かわからない提案に、詩乃は笑った。
「いいよ。――いただきます」
詩乃も、そう応えて食べ始めた。
「ホントにいいの?」
「うん。いいよ。いや逆に、そんなのでいいのかな……」
「え、どうして?」
詩乃は、視線をパスタから柚子に移した。
バスの中で寝ていたせいか、今の柚子は少し、しっかりしている気がする。
よし、と詩乃は思い切って、一つ提案してみることにした。
「体調戻るまで、新見さんの専属コックで、専属メイドになるよ」
と、詩乃はポーチから財布を取り出して、そこから銀行のカード抜いて柚子の前に置いた。それから、メモ帳に銀行のパスワードを書きこみ、その紙をカードの横に添える。
それは、逃げる気はない、という詩乃のメッセージだった。
しかし柚子は、その前に詩乃の出した財布に反応した。
「お財布! まだ使ってくれてたんだ!」
「え? あぁ――うん」
そういえば、と詩乃は思い出した。詩乃のその財布は十年間、柚子が送ったものだった。当たり前のように親しんできたものだったから忘れていた。〈COACH〉の茶色の長財布である。
「ええと、そのカードとパスワード、新見さんにあげる。貯金が二百万くらいあるから、当面は、これが尽きるまで、この貯金で生活しよう」
「え、なんで? いいよ、お金なんて! 仕事も、明日から復帰するから――」
「慌てないで、新見さん」
詩乃は、柚子を制するように言った。
「まず、ちゃんと体調戻そうよ。ずっと働いてたんだから、今は、寝たり食べたり、休息が必要だと思うよ。――もう少し、一緒にいようよ」
「うん。でも――」
「大丈夫。何とかなるよ」
「詩乃君の仕事は――」
「バイトだから、平気。店長にはもう連絡して、許可貰ってるから」
「私のために?」
そうだなぁと、詩乃は少し考えてから応えた。
「新見さんのことが好き、っていうのじゃダメかな?」
「え!?」
「高校の時、初めて会った時からずっと、変わらないんだよ。自分の命の半分みたいな、そんな感じなんだよね。だから、新見さんの痛みは、自分の痛みというか――まぁ、なんかちょっと、格好つけすぎだけど、そんな感じじゃ、ダメ?」
詩乃の言葉を聞くと、柚子はぽろぽろと涙を流した。
そうして、掠れた声で言った。
「私もずっと会いたかった」
詩乃は、テーブルを回って柚子の隣に座り直し、さめざめと泣く柚子を抱き寄せて、その肩を叩いた。少し、言い過ぎただろうかと、詩乃は思った。腹をすかせた人に、一気にたくさん食事を与えると、かえって胃を痛めさせてしまうのと同じように、今の柚子には、過度な励ましは危険なのだと、詩乃は何となく、そんな事を考えていた。
「とにかく今は休もう。一緒にいるから」
詩乃はそう言いながら、柚子を宥めた。
柚子は頷いて、泣きながらスープを飲んだ。