穂綿の小舟(2)
食事の配膳を終えた女将は、「あとで食後のデザートの方、お持ちいたしますね」と、笑顔で二人に伝えて襖を閉じ、部屋を後にした。
二人は、女将に向けた微笑み顔のまま、今度はその笑顔を互いに向け合った。
ふふっと、柚子はくすぐったそうに笑うと、腰を微かに浮かせて、さらに少し詩乃に近づいて座り、そうして、ぺたりと、詩乃の腕に頭を寄せた。
「食べようよ」
「うん」
詩乃が言うと、柚子は頷いた。
しかし柚子は、一向に、詩乃の腕から離れる気配を見せなかった。詩乃は仕方なく、肩を組むようにして柚子の身体を引き寄せて、そのまま、柚子の頬を触った。柚子は、詩乃の手の甲の上から自分の手を重ねて置いて、ぎゅっと自分の頬に、詩乃の手の平を押し付けた。
しばらくそのままでいたが、ふと詩乃は、柚子が震えているのに気が付いた。
見れば柚子は、痛みをこらえるようにして、静かに涙を流していた。
「大丈夫だよ」
詩乃はそう言って、柚子の頬を撫でた。
今まで、よほど辛かったのだろうなと、詩乃は思った。そうして、柚子の弱りきった様子を見ると、詩乃の心の内に、雄々しい、燃えるような気持ちが沸き上がってきた。この子は刺し違えてでも絶対に守ると、そんな殺気立った感情である。
別に、これといった仇がいるわけでも、実際に襲い掛かってくる何かがいるわけでもないが、やっぱり自分は、男なんだなと、詩乃は思った。普段はそういった、男の獣じみた感情が自分の中に沸き起こるのをむしろ嫌悪していた詩乃だったが、今はそれを嫌だと思わなかった。
それどころか詩乃は、自分はこの瞬間この時のために――柚子に傘を差して盾になるために生まれて来たんだなという宿命を感じて、妙なやる気が湧いてきていた。
「ごめんね、私……詩乃君、困るよね」
しくしくと泣く涙の間から、柚子が言った。
「困らないよ」
詩乃はそう言うと、柚子の頬から手を離して箸を持ち、てっさをひょいと持ち上げて摘まむと、それを、柚子の口元に持って行った。柚子は、エサを与えられた雛のように、反射的に口を開いて、その半透明の刺身を食べた。
柚子は、うっとりと、涙の溜った目を細めて言った。
「美味しい」
詩乃は、柚子が吃驚しないように、静かに柔らかく微笑んだ。
「河豚は新見さんに食べられるために刺身になったんだよ」
詩乃が言うと、柚子は、ぱちりと目を開いて聞き返した。
「え?」
詩乃は頷いて、続けた。
「箸は食べ物を掴むためでしょ」
「うん」
「――自分がここにいるのにも、理由があるよ」
「なぁに?」
詩乃は笑った。
続きを言うのは、照れ臭かった。
「コープスリバイバーを作るのと同じ」
突然詩乃の口からカクテルの名前が出てくるとは思わず、柚子は自分が泣いていたのも、一瞬忘れてしまった。
詩乃は、もう一口、今度はいくらの乗っかったサーモンの寿司を箸で取って、柚子の唇の前に持ってきた。柚子はまた、反射的に、一口でぱくりと、その寿司を食べた。
頬を動かす柚子を見て、詩乃は少し安心した。
「私、何で泣いてるんだろ」
柚子はそう言うと、恥ずかしそうに笑って、両目の涙を払った。
詩乃も、柚子の肩から腕を外した。
「食べよう」
「うん」
そう答えて、柚子は今度こそ、箸を手に持った。
いつ東京に帰るのか、これは目下、一つの問題だった。
柚子は、今はそういった予定を立てられるような状態ではない。目を覚ましている時は、視界のどこかに詩乃がいないと――時によっては詩乃に触れていないと、心の平穏を保てないような状態だった。その様子はまるでカモの雛のようで可愛くはあったが、同時に詩乃は心が痛かった。
結局その年は、嵐山で新年を迎えた。旅館のおせち料理というものを、詩乃は初めて食べた。
三が日が過ぎても、柚子の様子は、あまり変わりなかった。詩乃も、柚子から目を離すのはまだ怖く、ほとんどの時間を部屋の中で過ごした。柚子はというと、寝たり、ぼんやりと起きたりを繰り返していた。
しかしいつまでも旅館にいるわけにもいかないので、詩乃は一月十日に、柚子を連れて夜行バスで東京に帰ることを決めた。柚子が持ってきた(運が悪ければそれが死に装束となっていた)着物と、チェックインの時に着ていた赤いステンカラーコートは、柚子の自宅に配送することにした。赤いコートは、その赤が鮮やかすぎて、人目を引いてしまうだろうと詩乃が判断したのだ。
コートは、代わりのものを詩乃は用意した。ネットで買って、宿に届けてもらった。オリーブ色のロングダウンコート。部屋で段ボールを開ける詩乃の背中に、柚子は覆いかぶさった。
「それ何?」
「コート」
詩乃はそう言いながら、段ボールからビニールで包装されたそのコートを持ち上げた。そうしてそれをそのまま、柚子に渡した。
「えぇ、私に?」
「うん。明日はこれ着てよ」
思いがけないプレゼントに、柚子は目を輝かせた。
柚子は早速、浴衣の上からそのロングコートに袖を通し、チャックを閉めた。何も浴衣の上から着ることないじゃないかと詩乃は笑った。柚子は、ぱたぱたとペンギンのように腕を振って喜んだ。
「ね、お散歩しよ」
「え?」
「ね!」
柚子は詩乃の腕に抱き付いた。
その日、宿の小さな庭を、二人は一時間ほどかけて歩いた。
翌日、東京に帰るその日、二人は女将の善意で、本来のチェックアウトの時間を過ぎても部屋を貸してもらえることになった。というのも、夜行バスは京都駅発、二十一時過ぎの出発なので、それまで二人は、時間を持て余すことになってしまうのだ。女将もここまで来ると、とことんこの二人を応援したいと思うようになっていた。
宿を出る時、門の外まで見送りに出てきた女将に、詩乃は深く頭を下げた。女将も頭を下げ、そうして、詩乃と柚子に微笑みかけた。
「ありがとうございました。お気をつけて」
そう言って女将は、再び、今度は深く頭を下げた。
柚子はオリーブのコートを着て、詩乃は、宿に来た時と同じジーパンにダウンジャケットという格好だが、手には、蛇の目傘を持っている。橋の上で雨に打たれていた柚子に差した、あの蛇の目傘である。
嵐山駅からは電車で京都駅に向かった。
詩乃は、できるだけ人目に付かない様、出発する電車の一番空いている車両に柚子を連れて入った。柚子は眼鏡をかけ、マスクを付けている。詩乃が与えた変装道具だった。サングラスを付けるだとか、ニット帽をかぶるだとか、それ以上やるとかえって目立ってしまうので、それはやめた。
しかし、変装をしたとしても、詩乃は気が気ではなかった。
何しろ柚子は、有名人だ。芸能人ではないが、全国放送の帯番組のメインキャストをやっている。下手なタレントよりよほどその顔と名前は知れ渡っている。それに柚子は、隠そうと思っても隠しきれないような美貌を持っている。眼鏡も似合えば、マスクも似合う。そして今になって詩乃は、コート選びを間違えたと思った。
色は良い。オリーブ色で、それ自体は目立たない。冬の夜に紛れられる。しかし問題は、そのシルエットだ。細身に見せるタイトなシルエットのものを選んでしまった。そうすると、柚子はスタイルが良いので、この上なく、〈キマって〉しまう。
二人が座席に座り、電車が動き出した。
詩乃が周囲を警戒している所へ、柚子が、詩乃に身を寄せながら言った。
「なんかわくわくするね」
「えぇ!?」
柚子の緊張感の無さに、詩乃は困惑してしまった。
今柚子は、休養中ということになっている。それなのにこんな観光地で、しかも男と二人でいるなんていうことが知れ渡ってしまったら、世間はまた一斉に、柚子を攻撃し始めることだろう。
それなのに、そんな事お構いなしとばかりに、柚子は詩乃に身体をくっつけて、無防備な笑顔を詩乃に向ける。マスクをつけて、眼鏡もかけているが、その目と目元のゆるみだけでも、詩乃の理性は溶けだして、柚子の可愛さに流されてしまいそうになる。
今ここで柚子の、柔らかくて暖かい体を抱きしめて、そしてその唇を吸い尽くしたくなるという、乱暴な獣の心が、詩乃の内側で疼く。そんな情動を、詩乃は辛うじて抑え込みながら、柚子の腿のあたりを軽く叩いた。
柚子は、詩乃の何かを我慢している様子が面白くなって、詩乃の頬をつついたりしてからかった。向かいに座っていた仏頂面の男の一瞥が投げかけられる。
詩乃は、柚子の存在がバレたのではないかと息をのんだが、男が何かに気づいた様子を見せることはなかった。
「ほら、大人しくして」
詩乃は柚子を窘めた。
しかし柚子は、ニコニコ笑って、詩乃の緊張を面白がっている。
電車は三十分ほどをかけて京都駅に着き、詩乃は柚子を連れて、バス乗り場に向かった。冬休みの帰京ラッシュを外した平日の夜だったが、それでも京都駅には、詩乃の思っていたよりも多くの利用客があった。
詩乃にとっては、他人は全員敵だった。
視線は銃弾である。
詩乃は柚子を、自分の身体を弾避けにしながら、バス停に向かった。
柚子は相変わらず、十年ぶりの外出デートのつもりで楽しんでいたが、詩乃は、それどころではない。柚子がはぐれてしまわないように手を繋ぎながら、しかしイチャイチャした甘い雰囲気を発すれば、いらぬ視線を向けられることになるので、そうならないように、細心の注意を払って進んだ。
「あ、詩乃君、羊羹だよ、羊羹!」
「うん。でも今度ね」
「あ、お団子! 桜団子だって!」
「今度にしようね」
「京都美酒店だって」
「……」
詩乃は無言でグイっと柚子の手を引っ張った。そんな釣れない詩乃の態度に、柚子は少し拗ねて見せ、詩乃の身体に抱き着いた。
「ちょ、ちょっと!」
「お買い物しようよぉ」
「ダメだよ、バス行っちゃうよ」
「じゃあもう一泊しよ?」
これはダメだと、詩乃は柚子を連れて、駅の催事スペースの一画に出ていた和菓子の売店に行き、そこで羊羹と生八つ橋を買った。
それで柚子の気を引いてバス停まで行き、すでにエンジンのかかっている高速バスに飛び乗った。




