穂綿の小舟(1)
布団の上で、彼女――新見柚子は小さな寝息を立てている。
その息遣いも、瞼も、まつ毛の一本一本まで、詩乃にはすべてが愛おしかった。
別れてから十年が経ったが、詩乃の中では、女性はやはり、新見柚子ただ一人だった。
もともとがインドアで、モグラのようなライフスタイルを旨とする詩乃は、その内面世界もモグラのようなもので、女性というよりは、人間関係そのものが増えることに、尋常ではないほどのストレスを感じる性質だった。
そういう風にできている詩乃は、高校時代から、友達らしい友達はいなかった。良く話す友達というものは、中学時代に一人いたきりで、それ以降は、二十八になった今現在まで、一人もいない。
――そう、柚子を除いては。
柚子は詩乃にとって特別だった。友達や親友を百人作る人間がいたとすれば、詩乃にとっての柚子は、その百人を凝縮させた存在に等しかった。単なる彼女ではなく、単なる親友ではない。詩乃の心の半分には、まだ柚子が住んでいた。
そんな柚子が今――もう二度と会うことは無いだろうと思っていた彼女が、旅館の和室、自分のすぐそばで眠っている。
こんなご褒美を受け取って、あとで大きな罰が当たるのではないかと、詩乃は数日前の再会以来、びくびくしていた。
柚子はといえば、目を覚ますと必ず、怯えた目で部屋を見回した。
そうして、部屋のどこかに詩乃を見つけると、「行かないで」と言って詩乃を自分の隣に呼び寄せた。そうして詩乃が寄り添うと、眠そうな顔に微睡みを浮かべて、また眠った。
ひと月ほど前、柚子に男がらみのスキャンダルが報道された。
ちょうど柚子の誕生日、十二月三日の後くらいだった。スキャンダル以降、柚子はMCを務めていた昼の帯番組を休むようになった。そして先日、柚子はついに、死を決意してこの嵐山にやってきた。
柚子をその決断に追いやった原因はわからない。スキャンダル報道は間違いなくその主因の一つなのだろうが、それだけでもないのだろうと詩乃は思っていた。人目にさらされ、カメラに追いかけられ、週刊誌にあることないこと書かれる、そんな仕事だ。それで、神経がすり減らないわけはない。服装一つ、しゃべり方ひとつ、笑うタイミング、その日の朝食――全てにチクチクと、良くも悪くも意見される。そういう仕事と分かって就職したからといって、その環境はきっと、柚子には辛かったのだろう。
詩乃は、柚子に対する態度をもう固めていた。
スキャンダルの事、男関係の事、その他いろいろ、柚子が何をその胸の中に持っていたとしても、柚子の味方でいよう――。
柚子は、詩乃と再会した後三日間、熱を出して寝込んだ。
その間に、詩乃は柚子の会社の人間と電話で話した。しかしそのやり取りの中で、柚子の番組を持っているプロデューサーだという人間と電話した時に、詩乃は思わず、その男に怒鳴ってしまった。
復帰はいつか、会社には出られそうか、病院は行ったのか等と次から次に聞いてくるその男の、自分の都合ばかりを押し付ける態度に、これまで感じたことの無いような、猛烈な怒りを覚えたのだ。
柚子をこんなに痛めつけたのは、守れなかったのは誰の責任なんだ。自分はおたくの会社より新見さんの方が大事だ、というようなことを、後先構わず言ってしまった。それでも男は無神経にも、柚子と直接電話がしたいというので、ついにプツンとキレた詩乃は、それはできない、と怒鳴りつけ、電話もプツリと切ってしまった。
今の柚子は、復帰だとか、そういった先の事を考えられる状態ではない。
何とか運よく死は食い止めたものの、死のうと思うほどに追い詰められていた柚子の心には、相当のダメージが蓄積されている。そんなことは、わざわざ柚子に、根掘り葉掘り聞かなくてもわかる。申し訳程度の小休暇では到底、癒える様なものではないだろう。
むしろ傷は、未だ広がっているのではないかとさえ、詩乃は思っていた。
死を選んでしまった柚子は、その決断をした自分を恥じているだろうと、詩乃は見ていた。特に家族に対しては、裏切りのような深い罪悪を覚えて、苦しんでいる。そういった柚子の心境について、詩乃は何一つ、柚子から聞いたわけではなかったが、柚子の心の動きは、目に見るように分かる気がした。
柚子の父と母には、詩乃が電話で話をした。
まず、柚子が無事であるということを話して安心させ、無事な姿を写真で撮って送ってその証拠とした。それから、柚子の今の状態を話した。
「今は誰かと話せるような状態じゃなさそうなんです。たぶん、話すたびに、傷が広がっていきそうな気がします」
柚子の父に、詩乃はそう言った。
柚子の父は、ため息とも、うめきとも取れる様な、重い息を吐いた後、「そうですか……」と、言った。柚子の父の隣には、柚子の母がいる。柚子の母と詩乃とは、十年前に一度だけ会ったことがある。柚子の家に遊びに行った時だった。その時は、一緒に夕食のカレーを食べた。
詩乃は、電話越しに微かに聞こえる息遣いから、柚子の父と、そしてその隣にいる柚子の母の様子が、目に浮かんで来るようだった。
「――でもきっと、少しずつ良くなっていくと思いますよ」
詩乃はそう言った。
しかしそれは、本心ではなかった。詩乃は、気休めを言うのは嫌いだったが、そう言った。
実際には、柚子の心の傷が、もう治らないような致命的なものなのかもしれないとさえ詩乃は思っていたが、柚子の両親を電話越しでも前にすると、とてもそんな事は言えなかった。
その代わりに詩乃は、ある決意を固めた。もし自分の言葉が偽りになったなら――柚子の状態が良くならないか、あるいは悪化して、また死にたいというようなことになって、もうそれしかしょうがなくなったら――その時は自分も一緒に逝こう。
詩乃は、寝ている柚子の頬に手を触れた。
柚子は、詩乃の手に頬を寄せ、薄目を開けた。
「行かないでね」
柚子は、熱に浮かされたような声で言った。
もう熱は下がっていたが、柚子の様子は、熱病人のそれだった。
「行かないよ。一緒だよ」
詩乃が言うと、柚子は満足そうに微笑んで、また目を瞑った。
未だ柚子は、生と死の瀬戸際にいるのだと、詩乃は思った。
どっちに転がるか、今はまだわからない。
ネットニュースには、早速、『新見柚子アナウンサー失踪か』、などといった記事が出ていた。それに対して、柚子の勤務先であるテレビ城東は、『そんな事実はない。体調不良のため休養している』という旨の回答記事を出している。それらの記事にはそれぞれに、不特定多数の色々な他人がコメントで、好き勝手に意見を述べている。
詩乃はスマホをテーブルに置き、目をぐりぐりと揉んだ。
夕食が運ばれてきたので電気をつけると、柚子もそれに伴って目を覚ました。
宿の女将が刺身や鍋物を座卓に並べる。柚子は、寝起きを見られたことが恥ずかしいらしく、女将に頭を下げて、恥ずかしさは笑顔で誤魔化して、こそこそと詩乃の背に隠れた。
「食べられる?」
「うん」
詩乃が訊くと、柚子はそう答えて、顔を洗いに立ち上がった。そして戻ってくると、また詩乃の隣に座った。仲の良い二人の様子に、女将の顔にも笑みが零れた。無論女将は、口には出さないが、この女性客がテレビ城東の〈新見アナ〉であると、入館時に一目その顔を見た瞬間見破っていた。柚子も、マスクをしたりサングラスをしたりといった、バレない工夫を全くしていなかった。
そのチェックインの時は、こっちでテレビの撮影でもあるのかと、女将はそんな事を考えたが、そうではなかった。十二月二十四日、チェックインの後、一人着物を着て出て行った彼女は、数時間後、ずぶ濡れの恰好で、しかも男に付き添われて宿に戻ってきた。
これは、訳アリだと、女将は二人を警戒した。
しかしその時の、柚子の余りの憔悴ぶりが可哀そうになり、本来柚子が出て行くはずの二十五日以降も、本当は空ける予定の無かった部屋を一室解放して、二人を泊めることにした(もちろん宿泊費は貰ったが)。他の部屋はその日以降、年末という時期もあり、予約が詰まっていたのだ。
十二月二十四日から数日の間、柚子が熱を出していたその期間に、柚子に関する件の報道が出た。女将は目ざとくそれを見つけた。行方不明、あるいは体調不良の報道の出ている女子アナが、こんな観光地で男と二人でいる。
女将は、柚子のことについて、過去の記事を探った。すぐに見つかったのは、ひと月ほど前のスキャンダル記事だった。婚約相手のいる男とデキていた、という内容である。記事を見て女将は最初、柚子と一緒にいる男の方は、その報道にあった浮気男なのではないかと疑った。
――まさか、心中だろうか。
あり得ると思った。二十四日の日に、そうしようとしたが、死にきれずに戻ってきたのではないだろうか。ずぶ濡れだったのは、川に入ったからではないだろうか。
疑えば疑いは、どんどん深くなっていく。
もっとも、詩乃がその浮気男ではないだろうかという疑いは、すぐに晴れた。その報道にあった男の経歴と顔写真は、某企業のホームページに大きく載っかっている。その写真を見比べれば、随分違う。ホームページのその男は、鋭いハシビロコウのような目をして、全体の顔の雰囲気も鋭さを持っているが、詩乃の面立ちはそうではない。
困った様な、寂しそうな、悩みの多そうな――言うなれば明治時代の文士、例えば教科書に載っている芥川龍之介然とした雰囲気を持っている。
しかしそれでも女将は、もしこの二人の客が、宿に悪いイメージがつくような問題を起こしそうなら、早急に追い出そうと思っていた。そのために女将は、二人の世話を他に幾人かいる仲居に頼まず、自らすることにした。
二十年近く働いていれば、その客がどんな客か、女将はある程度見抜ける自信があった。そうして数日、女将はそれとなくしっかり二人の様子を見ていた。
柚子と詩乃は、常に二人でいた。そしてやはり、旅行で来ているという風ではない。お忍びだとしても、旅行客の顔つきというのは活力に満ちているもので、そういうものが、二人の顔からは感じられない。大体二人は、柚子の熱が治った後も、一歩も外に出ないで過ごしている。
宿の庭を二人が並んで散歩している姿を昨日、一昨日の夜に見かけたくらいで、後はずっと(流石に宿自慢の温泉には入ったようだったが)、二人して部屋に籠っている。
世間から姿を隠すだけなら、どうしてわざわざ、こんな観光名所を選んだのか、女将は釈然としなかった。それでも今日まで、女将が二人を宿に留め置いたのは、二人に、良い印象を持ったからだった。少なくとも二人の顔つきは、死のうと考えているような人間のものではない。
ただしっとりと、まるで朝靄の草原に暮すプレーリードックのつがいが、鳴き声も立てず、しっとりと静かに鼻を合わせつけるような、そんな寄り添い方をしている。二人とも、歳はまだ若いのに、老夫婦のようだと、女将はこっそりと心の中で思っていた。
そんな二人を――訳アリなのは違い無さそうだったが――ここから追い出すことは気が咎めて、女将にはできなかった。




