プロローグ
その運命の電話は、クリスマス・イヴの夕方にかかってきた。
丁度その時、水上詩乃はバイト先のオムライス専門店のキッチンで、限定メニューの〈クリスマスソース〉を作っていた。
電話の主は、詩乃の知らない女性からだった。
彼女は名を名乗り、そして自分が、柚子の後輩だと言った。
〈柚子〉と聞いて、詩乃が第一に思い浮かべるのは、柑橘の果物ではない。
柚子と言えば、詩乃の中ではただ一人の女性を指していた。
新見柚子――高校時代に付き合っていた、同級生の女の子。高校卒業と同時に別れて、それ以来かれこれ十年間、一度も会っていない。
訳あって借金をこさえてしまった詩乃は、高校卒業と同時に、地方に働きに出た。柚子は、地元の私大へ進学した。つまるところ、そのあまりの進路の違い、そして自分たちの物理的な距離と借金という壁を前にして、詩乃は、二人でいられる自信が無かったのだ。
そうして高校生の詩乃は、別れるという決断をした。
柚子は大学を出た後、テレビ局に就職した。全国ネットであるテレビ城東のアナウンサーになったのだ。そのため詩乃の方は、一方的に柚子の姿をテレビモニターの向こうに見かけることはあったが、電話もメールもそれ以外でも、やり取りは一切なかった。
その上詩乃は、積極的に柚子の出ているテレビ番組を見ようとは思わなかった。
柚子を見ると、どうしようもないほど気持ちが痛むからだった。新見柚子という女の子は、詩乃の中ではまだ、過去の思い出として消化しきれていなかった。痛みは、十年が経ったのに、女々しくもまだ自分は、柚子のことを忘れられない、その羞恥心と情けなさから来ていた。
テレビに出ている柚子を見て、新見さんすごいな、頑張っているな――と、心の底から爽やかにそう思えたらいいのに、未だに自分は、いっちょ前に恋人面をしたこの心が、いっちょ前に柚子を心配している。自分は、単なる一視聴者ではないと、そんなことを考えているのだ。
その思い上がった自分を自覚するのが、詩乃には堪らなく苦痛だった。
『俺はもう過去の男だ、俺はもう過去の男だ』
詩乃は、テレビで柚子を見かけたり、ネットの記事でたまたま〈新見アナ〉の名前を目で拾ったりすると、その言葉を念仏のように心の中で唱えるのだった。
そんな十年を経て、今になって急に、柚子のことで電話がかかってきたのだから、詩乃の驚くのも無理はない。しかもその電話の内容というのがまた、耳を疑うような話だった。
要約すればそれは、柚子が音信不通で、部屋で遺書のようなものを見つけた、というものだった。どこか行先のあてはないか、と女性は詩乃に訪ねた。その柚子の同僚の必死さは、電話越しからでも伝わってきた。きっと藁にも縋る思いで、自分の連絡先を見つけ出し、ダメ元で電話をかけてきたのだろう。
詩乃は、彼女のその切羽詰まった様子に、事の重大さを悟った。ただ心配だから電話をかけてきたというレベルではない。本当に、柚子に命の危機が迫っている。
そう直感した瞬間、詩乃は、十年という歳月の事や、自分の抱えている柚子への、悶々とした感情の一切は、一瞬で吹き飛んでしまった。
新見さんの命が危ない。
詩乃は、自分の頭の中の灰色の脳細胞に縋る様にして、唯一の心当たりを推測すると、アルバイトを途中で抜け出した。当てはただ一カ所だけ、あった。
――京都嵐山コンサートホール。
プロのピアニストになった彼が、今日そこでコンサートを開く。
高校時代――柚子と付き合いたての頃、高校のコンサートイベントで、彼のピアノ演奏を二人で聴いたことがあった。その時の楽曲が、今日のクリスマスコンサートのセットリストにあったのを詩乃は見つけた。
きっと柚子は、これを聴きに行ったに違いない。
そうしてその演奏を、人生の最後の思い出にするつもりなのだ。
詩乃はそう考えて、新幹線に飛び乗った。心当たり、と言うにはあまりに貧弱な推論だったが、詩乃は、それにかけるしかなかった。それにかけて、東京を出た。
夕方過ぎに電車に乗り、京都駅に向かっているうちに、外はすっかり暗くなっていった。
その日の京都は、雨が降っていた。
嵐山の駅に着いた詩乃は、真っ暗い雨の中をコンサートホールに向かって駆けた。雨に濡れながら走ってコンサートホールにたどり着いた時には、すでにコンサートは終わっていた。
それでも詩乃は、さ迷いながら柚子の姿を探した。
東京から遠く離れたこの場所で、この瞬間に柚子を見つけることができたなら、自分は何だって捧げようと、詩乃は神様に祈った。
そして――京都には神様が、やっぱり多いのかもしれなかった。
渡月橋の上を、彼女は歩いていた。
傘も差さない、赤い着物姿で。
詩乃は土産屋の蛇の目傘を引っ掴むと、濡れた橋の路面を蹴って走った。
だんだんと、赤い着物の女性のその後ろ姿が、はっきりしてくる。
橋の親柱を越え一つ、二つ息を吐いた時、詩乃はその女性が、柚子であることを確信した。
その髪の簪には、見覚えがあった。その簪は、詩乃が高校時代に贈ったものだった。
詩乃は橋の真ん中あたりで彼女に追いつき、その前に回り込んだ。
ドンと、二人はぶつかった。
「すみません」
俯いたまま、着物の女性は謝った。
道を退こうとする女性の赤い着物のその右肩に、詩乃は左手を置いて、右手に傘を広げた。
ぼん、と音がして、赤い三日月の蛇の目傘が広がった。
女性は、「え?」と、顔を上げた。
ぱちり、ぱちりと、詩乃の差した傘が、柚子に落ちる雨を弾いた。