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星の海で遊ばせて  作者: ノマズ
5,この空が崩れ落ちても
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エピローグ ~この空が崩れ落ちても~

 橋の上で柚子を見つけた後、詩乃は柚子を連れて旅館に戻った。その旅館というのは、柚子が一泊の予定で予約していた旅館である。実際は、柚子は一晩泊るつもりはなく、昴のコンサートの前、着物に着替えるためだけの更衣室として予約したに過ぎなかった。


 びしょ濡れの二人が自動ドアから入ってくると、フロントの女将は驚いて、仲居にバスタオルを持ってこさせた。その日、着物から浴衣に着替えた後から、柚子は三日間熱を出した。詩乃は宿と交渉して、柚子の熱が治まるまで、普段は貸し出されていない部屋を借りられることになった。


 年の瀬で、宿も、他の部屋はもうすっかり埋まっていた。


 詩乃は、柚子が熱を出している三日の間、柚子の部屋に泊まり、一時も目を離さないようにしていた。トイレもできるだけ早く済ませ、風呂も、その宿には温泉があったが、部屋にあるシャワーで済ませた。一瞬でも、柚子を一人にするのが不安だった。


 三日間、柚子が布団で寝ている傍らで、詩乃は宿からA4のコピー用紙を貰い、執筆作業をしていた。この三年間が嘘のように筆が進んだ。柚子が起きて、微睡んだ眼で見つめてくる時には、詩乃は柚子の寝ている傍らに座って、柚子の手を握ったり、頬を撫でたりして、柚子を励ました。


「夢じゃなかったらいいのに」


 と、そんな事を、柚子は熱を出している間、何回か口にした。


 そのたびに詩乃は、「夢じゃないよ」と応えた。


 三日目の夜中、柚子は目を覚ました。


 その時詩乃は、ナイトライトの微かなオレンジの明かりの元、自分の布団に座ったまま、テーブルに突っ伏して居眠りをしていた。しかし詩乃はすぐに、柚子が上半身を起こした衣擦れの音で目を覚ました。柚子は、詩乃の背中に近づき、背中から詩乃を抱いた。


 詩乃は目をこすり、柚子の頬に触れた。


「具合、どう?」


「もう全然平気」


 詩乃は柚子の額に手をやり、それから、テーブルに置いておいた体温計を柚子の額にかざした。


 もうすっかり、熱は下がっていた。


「良かった……」


 詩乃は、ホッと胸をなでおろした。


 明日の朝熱が下がっていなかったら、医者を呼ぼうと思っていた。


「ありがと」


 柚子は、詩乃の耳元で囁いた。


 詩乃は、そんな柚子の蠱惑的な所作に微笑した。


「いや、いいよ」


 そう応えた詩乃の耳を、柚子はかぷっと甘噛みした。


 何してるのと、詩乃は言い、くすくすと二人、笑いあった。


 その後で、柚子は詩乃に訊ねた。


「でも、詩乃君は、大丈夫なの?」


「何が?」


「お仕事、とか……」


 詩乃は、声を上げて笑った。


 そんなつまらないことを、そんなに深刻そうに聞かないでよと詩乃は思った。〈とろたま〉の方は、柚子と再会したその日の夜、清彦に電話をして、暫く出られない旨を伝えていた。自分の事だけではない。詩乃は柚子の事も、美奈や福美と電話のやりとりをして、今は柚子本人が連絡をできる状況ではないことと、暫く休みが必要であることを伝えた。そして、美奈から柚子の実家の電話番号も聞いて、柚子の両親とも話しをしていた。


「何も問題ないよ。心配しなくて大丈夫」


「でも――」


 詩乃は、不安がる柚子に体重をあずけた。


 ころんと布団の上に、二人は背中から転がった。


「忘れようよ、仕事の事なんて。別に、今はそんなの、どうでもいいよ。新見さんの、職場の方にもちゃんと連絡してあるから」


「あ、私、携帯――」


 上半身を持ち上げた柚子を、詩乃は座ったまま抱き寄せて、背中を撫でた。


「まぁまぁ、大丈夫だから」


 詩乃にそう言われると、柚子も、大丈夫か、という気になった。そのことが柚子にも不思議だった。仕事や金や、色んなものを失ったとしても、詩乃がいたら、何とかなるような気がした。


「詩乃君、寝不足?」


 詩乃は笑いながら応えた。


「そうかもしれない。あんまり時間は、気にしてなかったから」


「……ごめんね」


 柚子は、詩乃の肩に頭を乗せながら、うな垂れた。


 柚子は今、本当は、枕投げができるほど元気だった。そのことが、詩乃に申し訳なかった。


「うん」


 詩乃は、吐息のような返事をした。


 柚子は、詩乃の首筋に唇をつけた。


「もう行かないで……」


 か細い声で、柚子が言った。


 その、心から訴えかけるような響きに、詩乃は、十年前の自分の意固地に胸が痛んだ。あの時の自分は、柚子の元を離れるしかなかった。一人背水の陣を敷かなければどうしようもならないと考えていた。それはきっと、仕方ないことだった。そうに違いないのだけど……。


 今、詩乃が感じるのは、自分の決断への後悔ではなかった。


 ただ、ただ、新見さんに悲しい、寂しい思いをさせてしまったことへの申し訳なさだけが、詩乃の胸に溢れていた。こんなに追い詰められるまで、ずっと、一人にしてしまった。そのことへの懺悔心が、ぐぐぐと、詩乃の心臓を締め上げた。


 行かないで、と言われなくても、詩乃の答えはずっと決まっていた。


「うん」


 詩乃は頷いた。


 柚子は語気を強めて、念を押すように言った。


「私の所にずっといて」


「うん」


 詩乃は、じっくりと頷いた。


 柚子の傍にいることに、もう条件は無い。十年前と今と、自分が変わったのは、借金があるかないかだけだ。でも借金なんてものは、自分が思っていたよりも、大した問題ではなかった。特に自分と、新見さんの関係の中では。そのことに気づくのに、ただ十年がかかった。


 柚子は、元気になったその力いっぱい、詩乃を抱きしめた。


 ぎゅっと、しがみつくような柚子の抱擁に、詩乃の心はなお痛んだ。


 やがて、詩乃は、外の雨音に気づいた。


 また、雨が降り出したらしい。


「雨だね」


 詩乃は言った。


「うん」


 柚子は詩乃の首筋に鼻をくっつけながら頷いた。


 それからぽつりと、柚子が言った。


「雨っていいね」


 詩乃はくすくすと笑い、柚子に頬を寄せて鼻と鼻をくっつけた。そうしてから、詩乃は立ち上がり、広縁のガラス戸を開けた。小さな砂利庭の石も土塀も、部屋からの微かな明りに照らされて、雨に濡れているのが分かる。


 石にぶつかる雨音はかちり、かちりと固くなり、雨は二人の見ている間に霙になったようだった。冷たい空気が、柚子の身体に籠った最後の熱を冷まして、吹き飛ばした。


「詩乃君、背伸びた?」


「筋肉はついたかも」


「髪も伸びたね。伸ばしてるの?」


「ううん、面倒で」


 これは夢じゃないんだな、という実感が、柚子の中で確かなものになってゆく。


 二人は互いの顔を見つめて、くすくすと笑いあった。


 十年という歳月が流れたはずなのに、今は、ずっと一緒にいたような気さえする。その不思議な感覚を共有し合っているのが、二人には可笑しかった。


 詩乃は笑みを浮かべたその眼差しで、空を見上げた。


 星も月も見えない冷たい霙の夜空。


 吸い込まれそうになる暗闇に、詩乃の笑みは消えた。


 倒れないように後ろ手を組み、息を吸い込む。


「やっぱり寒いね」


 柚子はそう言いながら、詩乃の腕を支えるように抱いて、身体を寄せた。


「呑み込まれそうだよ」


 詩乃は、夜空を見上げながら言った。


「大丈夫だよ」


 柚子は跳ねるような声でそう応えた。


 微かに振り向いた詩乃の頬に、霙の粒がついていた。柚子はくすりと笑い、詩乃の霙を人差し指で拭った。詩乃は不意に、柚子の手に初めて触れた瞬間を思い出した。火傷で微かに赤くなった、あの左手の人差し指を。


 詩乃は、柚子の瞳の美しさに息を呑んだ。


 柚子はにこりと笑い、そして、楽しそうに言った。


「――だってどこからでも、〈星の海〉は見えるんだから」





〈あとがき〉


『星の海で遊ばせて』これで正真正銘、完結です。

ここまで一年半、読者の皆様には、長きに渡りお付き合いいただき、ありがとうございました。本当に感謝しかありません。読者の皆様がいなければ、恐らく、全部書ききれていなかったと思います。一年半、この物語の事だけ、ほとんど四六時中考えていました。そのエネルギーを、皆様からは貰っていました。本当にありがとうございます。今はともかく、安堵しています。柚子にも詩乃にも、報いることができました。これで二人は、そして他の登場人物も、自分の手から離れて、自由になれます。本当に、安堵です。


4章も書きあげるのは大変でしたが、この5章は、それとはまた別の辛さがありました。着手までに四カ月かかり、実際に書き始めたのは五月に入ってからと、とにかく、時間がかかりました。柚子がまさかアナウンサーになっていたなんて、実は、私も驚いています。「作者はその世界の神様」なんて言われることがありますが、登場人物に書かされている、というのが実態のような気がします。本当に最後、二人が出会えて良かったと、作者の私が言うのもおかしな話ですが、本当にそう思います。


真剣に、誤魔化しなしでラブストーリーを書いてみたい、その思いが発端となって、書き始めた作品でした。タグに「ラブコメ」を入れたのは、白状しますが、読者数を増やしたかったからです、すみません<(_ _)> 最初から、コメディーをやる気はスプーン一匙分もありませんでした。とにかく、直球勝負がしたかった。そこで柚子と詩乃に白羽の矢が立った、というわけです。


彼らは、私が生み出した登場人物というより、第一話を書き始めたその段階で、すでに私の作意の手を離れていました。二人の真剣さに、私は常に翻弄されながら、できるだけ正確に二人の心情だったり、見ている景色・情景を文字に落とすようつとめました。私自身、こんなに長い作品を書くのも、そしてこんなに辛いのも、そしてこんなに楽しかったのも、執筆経験上初めてです。


もしこの作品の後日談が書きあがったり、また、何かのめぐりあわせで書籍化できるようなことがあれば、またその時は、「連載」として一報入れようと思います。書籍化に関しては、そんな星を掴む様な話、とは私自身思っていますが、そうは言っても人生何が起きるかわからないものですから、あえてその可能性まで否定することは無いと思っています。


ですから皆様、いつかまた、お会いしましょう。

そんな希望が、私にとっての一輪の薔薇であり、スプーン一匙の砂糖です。


最後になりましたが、改めてお礼を申し上げます。誤字・脱字報告なども、大変助かりました。

また、内容に関すること、これはどうしてこうなの、ということ、設定上の事や制作秘話・質問、そして感想等々、もしあれば、なんでもお寄せいただければと思います<(_ _)>


2022.8.17 ノマズ(茶ノ美ながら)

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