恋ふるしるし(4)
電車を乗り継ぎ、詩乃は京都駅に向かう新幹線に駆け込んだ。
三列の自由席、空いている窓側に詩乃が座ると、新幹線は音もなく発車した。
詩乃は電車に乗っている間ずっと、ダウンジャケットも脱がずに、手を組み、組んだ手に額を乗せて、祈るような姿勢でいた。『詩乃君、会いたかったよ』――その文字が、柚子の声で、詩乃の頭と胸に響いた。
あぁ、なんで自分は、もっと早く新見さんの前に、名乗り出なかったのだろう。
後悔、後悔、また後悔ばかりだ。
詩乃は目を瞑ったまま、柚子の無事を祈った。
京都に新見さんがいるかいないかは、わからない。
けれど、どこにいたとしても、本当に、無事ならそれでいい。
無事なら。
「なんで、自殺なんて……」
詩乃は呟いた。
しかし詩乃自身、死にたくなる気持ちも、わかるような気がした。死にたかったかどうかは別にして、新見さんがいなければ、自分はたぶん、死んでいたのだろう。あの日――高校三年生の大晦日、自分は新見さんがいてくれたおかげで、命拾いしたのだ。
あの時は、新見さんは自分の命を助けてくれたのに。
今はどうして、死のうだなんて。
新幹線が京都駅に着いた時には、もう時刻は、七時半を過ぎていた。
東京は曇りだったが、京都は寒く、雨も降っていた。
私鉄に乗り変えて、詩乃は嵐山に向かった。
到着予定は、八時を少し過ぎてしまう。
窓の外は真っ暗で、たまに民家の明りが、窓にできた雨の筋を光らせた。窓を少しだけ開けると、目の覚めるような冷気と細かい水しぶきが入ってきて、詩乃の頬にかかった。詩乃は、握った拳の裏をこつこつと、貧乏ゆすりのように自分の顎にぶつけた。
詩乃はじっとしていられず、席を立った。同じ車両に居合わせた乗客は、突然何の脈絡もなく立ち上がった詩乃を見やった。そうして、詩乃の尋常でない怒りの様子に、警戒と批難の厳しい視線を向けるか、そうでなければ、関わり合いになりたくないと目を逸らした。
詩乃の頬は歯ぎしりをする時のように力が入り、唇は白くなるほど引き締まっている。そしてその目は、他人から見ると、凄まじい怒りが燃えているように見えた。詩乃は知らずに、阿修羅のような凄まじい形相をしていた。
電車が嵐山の駅に着き扉が開くと、詩乃は開く扉をこじ開けるようにしてホームに降りた。
駅を出た詩乃は、京都嵐山コンサートホールを目掛けて走った。観光地の嵐山でも、土産屋のあるメインの通りでなければ、他の道は真っ暗だった。雨に濡れながらそんな道を通って、息を切らせながら、数分で詩乃は、コンサートホールにやってきた。
階段を上り、聖堂のような外装の建物の中に入る。
ホールの二つの防音扉はすでに開け放たれていた。
詩乃はホールから出る人の流れに逆らって、ホールに入った。
二百席ほどの赤クッションの座席は、すでにほとんどが空席になっていた。ステージには一台のグランドピアノだけが、ライトに照らされて黒く怪しく光っている。
詩乃は踵を返し、建物を出た。暗い路地をいくつか経由して、メイン通りに出る。土産屋が軒を連ね、明りは雨でぼんやりとしている。その道を、詩乃は首を振りながら走った。もはや詩乃は、右往左往するしかなかった。
ジーンズに登山用かと思われるような黒ジャケット、傘も差さずに走っては立ち止まり、途方に暮れ、そしてまた走るという動作を繰り返す。和楽器で演奏されるクリスマスソングの中、詩乃は行く人の失笑を買った。
――だけど自分が見つけなかったら、新見さんは……。
詩乃は、へとへとになりながら、道を走った。
こうなっては、手がかりも推理も何もない。運に身を任せることしかできない。それしかできない自分が詩乃は悔しかった。でも神様、もしいるなら、頼むから、新見さんに合わせてくれ――詩乃はまた走った。
詩乃は和雑貨屋の前で立ち止まり、膝に手をついた。息切れは飲み込み、汗と雨で濡れた顔を手で拭い、詩乃は泣きそうになるのを鼻をすすって堪えた。走るのが辛いわけじゃない。寒いのが辛いわけじゃない。
詩乃は奥歯を噛み、顔を上げた。
髪から滴ってきて目に入る水滴を拭う。水を払った指が微かに目を掠り、ツンと沁みて涙が出てくる。詩乃はぎゅっと瞼を閉じ、開いた。その目で、土産屋の明かりの奥に目を凝らす。
土産屋の向こうは橋である。
橋は真っすぐ、暗闇の中に伸びている。
その橋の上、詩乃の目に飛び込んできたのは、着物を着た女性だった。傘も差さず、橋の向こうに向かって歩いている。土産屋の明かりが、微かにその女性の着物の紅を照らしている。
詩乃は息を呑んだ。
――いたっ!
夜の橋の上、しかも雨の中。店からの微かな明りだけでは、橋の上の人物が誰か、わかるはずが無かった。しかも後ろ姿である。
しかし詩乃は、それが柚子だと直感した。
「すみません、後で買います!」
詩乃は、手提げをその場に放りだすと、和雑貨屋の軒下に並んでいた蛇の目傘を引っ掴んだ。店の人が「あっ」と言う間に、詩乃は水溜まりを蹴散らして、橋に向かって走り出した。
だんだんと、赤い着物の女性のその後ろ姿が、はっきりしてくる。
橋の親柱を越え一つ、二つ息を吐いた時、詩乃はその女性が、柚子であることを確信した。
その髪の簪には、見覚えがあった。
詩乃は橋の真ん中あたりで女性に追いつき、その前に回り込んだ。
ドンと、二人はぶつかった。
「すみません」
俯いたまま、着物の女性は謝った。
道を退こうとする女性の赤い着物のその右肩に、詩乃は左手を置いて、右手に傘を広げた。
ぼん、と音がして、傘が広がった。
女性は、「え?」と、顔を上げた。
ぱちり、ぱちりと、傘が雨をはじく。
詩乃の息は震えた。
頬は雨に濡れて肌は病的に白く、唇は赤みを失っていたが、柚子だ。ぱっちりした目に、つんとした可愛らしい鼻、優し気な眉に、雨粒をはじくようなまつ毛。全部知っている。
「ダメだよ」
詩乃は、自分を見上げた柚子に言った。
柚子は息を呑み、驚きの余り固まってしまった。
詩乃は、柚子の肩に置いた手で、柚子を引き寄せた。
「うそ……」
柚子は、そう言うのが精いっぱいだった。
詩乃は、柚子の額に自分の額をくっつけた。
「地獄巡りするなら一緒にしようって言ったじゃない」
詩乃はそう言って、すうっと息を吸った。
「なんで――」
柚子は信じられずに呟いた。
詩乃は、柚子に額をくっつけたまま何度か深く呼吸をしてから言った。
「ダメだよ、自分だけで行くのは。行くなら、一緒に行こう」
柚子は、両手を詩乃の頬に添え、詩乃の顔がしっかり見えるように、ぐいっとその顔を少し離した。ひと昔、ふた昔前の、いかにも文士然とした、見様によっては刃物のようにしゅっとした顔立ちに、心の奥を射抜くような瞳。顔つきも輪郭も、柚子の知っている詩乃よりしっかりしていたが、詩乃は詩乃だった。柚子は、詩乃を見間違いはしなかった。
目の前にいるのが本当に詩乃だとわかると、柚子はまた、固まってしまった。
この世ではもう会えないと、そう思っていた。
じゃあ夢――。
でももう、夢でも構わないと柚子は思った。
柚子は、詩乃の頬に手を添えたまま、その雨で濡れて冷たくなった唇を、詩乃の唇に押し付けた。これが幻だとしても、消える前に、最後にキスだけ――。
詩乃は、柚子に応えて、その冷たい唇をぎゅっと吸った。唇は熱を帯び、柚子は、その熱が頬にまで伝わるのが分かった。
息継ぎのように、二人の唇はちゅっと音を立てて離れた。
柚子は、詩乃の顔をまじまじと見つめた。
まだ消えずに、詩乃はそこにいる。
「本物……?」
柚子は、詩乃の顔に手をやったまま、その両手の親指で詩乃の頬を撫でた。
言いたいことも、聞きたいことも、たくさんあった。しかし柚子は、いざ言葉を発しようと口を開くと、その唇は、わなわなと震え出した。
詩乃は、言葉の代わりに柚子に微笑み、小さく頷いた。
柚子は、詩乃の背中に手を回し、その胸に顔をうずめた。
詩乃の心臓の音と、呼吸で上下するその胸の動き、そして詩乃の体温をじんわりと頬に感じると、柚子の心は張り裂けて、十年分の想いが、わんわんと、涙になって溢れ出した。
何がこんなに悲しかったのか、柚子はわからなかった。
それでも涙は、とめどなく流れた。
柚子の涙とその声を胸の中で受け止めながら、詩乃は柚子の背中を撫でた。そうすると柚子は、より強く詩乃にしがみついた。ジャケットを握り、腕を交差させて自分を引き寄せるその固さと強さに、詩乃は驚かされた。
本当に無事で良かったと、詩乃の心にはただそれだけがあった。
涙が落ち着いた後、柚子は左手でぎゅっと詩乃のダウンジャケットを握ったまま、右手で詩乃の頬に触れ、その顔をもう一度確認した。
「どこにいたの?」
「また、北千住だよ」
詩乃はそう応えて、柚子の涙をぬぐった。
「ずぶ濡れだよ、詩乃君」
それに、なんで蛇の目傘なの、と柚子はこの状況の可笑しさに、笑えてきてしまった。
「いや、慌てててさ」
詩乃は応えた。
柚子は、両手でぎゅっと詩乃を抱きしめた。
呼吸と呼吸が合わさり、このまま溶けてしまいたいなと、柚子は思った。まだこれが現実だと、柚子は信じられなかった。それでも、詩乃の声や顔や温もりは、本物のような気がする。
「これのおかげかな?」
柚子は、袂から一枚の札を取り出した。
それは、百人一首の読み札の一枚だった。
詩乃はその絵札を確かめると、柚子から取りあげた。
何をするのかと柚子に疑問を挟む余地も与えず、詩乃はえいっと、橋からその絵札を投げ捨てた。
「和泉式部には悪いけど、もういらないよ」
柚子は、詩乃の行動に驚いて目を丸くした。それから、詩乃の突飛さと大胆さが可笑しくて笑った。むずむずと、心をくすぐられるような嬉しさを柚子は感じた。
詩乃は、小倉山の方を振り仰いだ。
目に見えるのは、底なしのような夜闇、耳に聞こえるのは雨の音。
詩乃は、柚子を右腕で抱き寄せ、雨音にもはっきり聞こえる声で詠った。
「心なく 山のもみじ葉落つれども 色、染め止まぬ 我が柚子 のみは」
詩乃はちらりと、柚子に目をやった。
柚子は、嬉しさで震える唇を開いて応えた。
「――同じみうみの底のけけら木!」
二人は目を合わせ、声を上げずに笑いあった。