恋ふるしるし(3)
「ちょっとすみません! 一瞬出ます」
詩乃はそう言うと、裏口からキッチンを出た。
詩乃はズボンからスマホを引っ張り出し、モニターを触って通話を受信した。
「はいもしもし、水上です」
すると、少し息を呑む様な気配があって、それから声が聞こえて来た。
『すみません突然、私、テレビ城東アナウンス部の菊池美奈といいます。はじめまして』
ほとんど一息でそんな自己紹介をされて、詩乃は狼狽した。
言葉の音の一つ一つはしっかりして聞き取りやすかったが、その、吐息一つ挟まない勢いに、詩乃はただならぬ気配を感じた。
「あ、はじめまして」
詩乃はひとまず、挨拶を返した。なんだ、新見さんじゃなかったか、と一瞬残念に思ったが、テレビ城東からということは、やっぱり新見さんの関係者だろうかと、胸が高鳴った。菊池美奈の名前については、日ごろテレビを見ない詩乃は、どこかで聞いたことがある程度の認識しかなかった。
『新見さんのお知合い、ですよね?』
美奈の質問に、詩乃はすぐには応えなかった。その沈黙の間、美奈はじっと息を潜ませ、耳を凝らしていた。詩乃は、電話の向こうの緊張の気配を感じながら、自身も口元を引き締め、返事をした。
「はい、そうです。高校時代の同級生です」
『やっぱりそうだった!』
詩乃の応えた後すぐに、電話の向こうから、急に感情の爆発したような声が聞こえて来た。それで詩乃は、電話先の人物が、何か自分や柚子に悪意を持った人間ではないと安心した。角の取れた声で、詩乃は電話先の人物――美奈に質問した。
「あの……何かあったんですか、新見さんに」
『はい、あの……モニター通話に切り替えてもいいですか』
「あ、どうぞ」
詩乃が言うと、スマホの画面に美奈の顔が現れた。
どこかで見たことのある顔だなと詩乃は思った。モデルか、タレントか、ともかく、素人ではないのは、詩乃にも一目でわかった。しかしその目の縁は、徹夜明けのように赤くなっている。
『すみません、急に。あの、今新見さんの家にいるんですけど、新見さんが、今朝から音信不通なんです。今日、一時から会議もあったんですけど、欠席していて。新見さんが無断で休むことなんて今まで無かったんです! それで来てみたら……今さっきこれを見つけて……』
昂った感情を抑え込むようにしながら美奈が言い、画面が、美奈の顔から切り替わった。
映し出されたのは、テーブルだった。そのテーブルの上には青い色紙があり、それが文字が読めるほどまで拡大される。色紙には詩が書いてあった。しかし詩乃の目は詩を追うのをすぐにやめて、自然と、詩の下に書かれているボールペンの文字を拾った。
たった二行の、遺書のような言葉。
そして二行目を読み、そこに自分の名前を見つけた瞬間、詩乃は体中から汗が噴き出した。
『詩乃君、会いたかったよ』
まるでその文字は、弾丸の様に、詩乃の心臓をとらえた。
「新見さん、今日の十二時二十八分に自宅のマンションを出てるんです。でも、どこに行ったのかわからなくて……詩乃さん、何か知りませんか。何でもいいんです」
詩乃はスマホを近くのクッションベンチに置き、鼻をかむ時の様に両手で顔を覆った。
モニターは、柚子の部屋のテーブル全体を映した。
オルゴールに、キーホルダー、それに文芸部の部誌。
十年が経っても、新見さんの気持ちは変わっていなかった。
そのことが詩乃の胸の奥を熱くさせた。
『これ、遺書だと思うんです』
聞こえてきた美奈の言葉は、『遺書』と発した所から涙声になり、裏返った。
詩乃は、頭を掻き、首を振った。
『どこに行ったか、心当たりありませんか』
涙声も隠さずに、美奈は詩乃に聞いた。
詩乃は顔をゆがめ、答えた。
「わからない。わかりません」
『なんでもいいんです。私も、色々思い出して、詩乃さんのこともなんとか探り当てたんですけど――』
詩乃は一度深呼吸をして、美奈に言った。
「ちょっと考えてみます、時間をください」
詩乃はそう言うと、通話を切ってキッチンに戻った。
キッチンはキッチンで忙しい。注文の入るスピードが、時間とともに、シャトルランのテンポさながらに、少しずつ上がっていく。オーダーされた料理を作りながら、詩乃は柚子の行きそうな場所について考えた。
行きそうな場所――新見さん、どこに……。
「志波さん、あの、自殺するときに行きそうな場所ってどこですかね」
「え! 自殺!? なんだよ急に」
「いや……」
詩乃はフライパンに液状バターを敷きながら、浅く息を吐いた。
ニンニク、玉ねぎ、ライスを炒める。
『クリスマスソース二つです!』
ホールスタッフの声。
こんなことをしている場合じゃない――その言葉が、詩乃の頭に繰り返された。だんだんとその言葉は大きくなり、詩乃は、何者かに胸ぐらをつかまれているような気がしてきた。
遺書? そんな馬鹿な。
遺言? そんな、大袈裟な。
何者かの脅迫を払いのけるように、詩乃は首を振った。そうすると今度は、心臓が冷たくなっていくのが分かった。詩乃の背中に冷や汗が流れ始めた。
『あれは絶対に遺書だ。新見さんの遺言だ。新見さんは、本気だ』
クリスマスソースの材料をフライパンに入れてかき混ぜながら、詩乃は、自分の中でのその直感が、確固たる事実であるという気がしてきた。一度そう思うと、その考えは一瞬で確信に変わった。
――でも、どうしてよりにもよって、こんな日なんだ。
詩乃は思った。そうして一人呟いた。
「――いや、今日だから?」
詩乃は、眉を顰めた。
半熟のオムライスにホワイトソースをかけ、パセリを皿に盛り付ける。
クリスマス・イヴを新見さんが選んだのだとしたら、そこに手がかりがあるはずだ。イヴ、何かあったろうか。茶ノ原高校のダンスパーティーのあった日。イベント日程が変更になっていなければ、まさに今日、これからあの体育館でダンスパーティーが開催されるはずだ。
でも、パーティー会場なんて最後の場所にしては賑やかすぎる。
新見さんの性格からして、命の幕引きなら、きっと誰にも迷惑が掛からないような、ひっそりとした場所を選ぶはずだ。死ぬのなら自分も、静かな場所が良い。この世を離れるのなら、誰にも気づかれないように行ってしまいたい。
詩乃は頭を掻いた。
クリスマス・イヴという日に、詩乃は強い引っ掛かりを覚えていた。何か大事な行事を忘れている気がする。何か、あったような気がする。
詩乃の脳裏に、さっき見たばかりの、柚子の家のテーブルの映像が浮かんだ。
そうしてそれと連動するように、詩乃の――自分の家の〈神棚〉の映像も。
緑の万年筆と、春に貰った銀色のシャープペン。
それから赤いボールペンは――。
「ああっ!」
「な、なんだ、どうした!?」
詩乃が急に大声を上げたので、清彦も、他のスタッフも驚いた。
「すみません、ちょっと――」
詩乃は再び、裏口からキッチンを出た。
スマホで調べるのは、〈橘昴〉の名前。
すぐにヒットした。コンサートの日程がぱっと表示される。
十二月二十四日、今日は、昴のジャズコンサートツアーの最終日だ。
横浜、東京、名古屋ときて、十二月は京都だ。そうだ、昴が、新見さんとのインタビューで宣伝していた。京都嵐山コンサートホール。開演時間は、午後六時。公演時間は二時間。
新見さんは、これを聴きに行ったのではないか。セットリストの最後の曲は〈Fly Me to the Moon〉。自分にとっても、新見さんにとっても思い出深い曲だ。この曲を――橘君の演奏を聞いて、それで……と思っているのではないか。だとしたら、この勘に従って今すぐ店を出て、嵐山に行かなければならない。
しかし、と詩乃は思いなおし、ぎゅっと目を閉じた。
全く見当違いかもしれない。それに、この広い日本中で、その時間、その場所にいる人間を見つけ出すなんて、それは星を掴む様なものだ。見上げた空に流れ星を発見できる可能性の期待値よりも、遥かに期待できない。その可能性に賭けて、今忙しい〈とろたま〉を抜け出すのか。見つけられないとほとんど決まっているようなものなのに、そのために、今から京都に行くのか。
時刻は今、四時半。
大体、今から行ったとして、コンサートの終わる八時までに間に合うのだろうか。
それに、もし今店を飛び出していったら、もうここには戻れないだろう。志波さんとの関係も、たぶん、これきりだ。良くしてくれたのに、一番大変な時に、自分の都合で裏切ってしまうのだから。
詩乃は目を閉じたまま、一度、大きく息を吸い込んだ。
また自分は、決断しなければならない。十年前、新見さんと別れるのを決めた時と同じように。あの時自分は、自分の「生き方」に従った。自分がこうあるべきだという理想に縋ったのだ。北千住という土地や、大学や、新見さんとの将来をさえ捨てて。
そして今、自分の変わった事と言えば、借金が無くなったことくらいだ。生き方なんて、考え方なんて、何年経っても変わらない。自分を動かしているのは、やっぱり、理屈ではない。合理的なのは利口かもしれないけれど、自分は、そういう生き方には向いていない。
頭を真っ新にすれば、心の声がはっきり聞こえてくる。
自分は、新見さんが好きだ。ずっと変わらず、恋しさは昔よりはるかに強くなっている。何を賭けても、何を失ったとしても構わない。今すぐ、新見さんの所に行きたい。その先が地獄ならば、もうそれでも構わない。
詩乃はスマホをポケットにしまい、キッチンに戻った。
熱気を帯びた厨房。
オーダーを捌くスタッフたち。
詩乃は息を吸い込んだ。
「すみません、志波さん! 俺、抜けさせてもらいます」
「え?」
詩乃の言葉に、パンケーキを焼いていた志波が驚いて顔を上げた。
冗談かと思った。
しかし詩乃の顔は、いつになく真剣だった。泣きそうな、焦っているような、怒っているようなそんな表情で、感情が読めない。ただ目だけは、覚悟を決めたように真っすぐで、その黒目は、獰猛に燃えていた。
「自分の、一番大事な人の、生き死にの問題なんです。すみません!」
詩乃は、清彦に頭を下げた。
それは困る、と清彦は思った。詩乃に今このタイミングで抜けられてしまったら、今日は回らない。これからが一番忙しい時間帯なのだ。しかし清彦は、それを詩乃には言えなかった。
思い返せば随分、ピンチヒッターとして詩乃を使って来た。
一瞬、キッチンが静まった。
清彦は口を開いた。
「わかった、行ってきな。心配しなくていいから」
すみません、と詩乃はそう言うと、他のスタッフやホールには目もくれず、キッチンを出た。
「どうするんですか」
詩乃がキッチンから出て行った後、清彦の決断に不服そうに、もう一人のキッチン担当が言った。清彦は一つため息をつき、言った。
「まぁ、何とかするしかないだろ!」
「何とかって……」
「この業界、無理でも無理を通しながらやりくりしてるんだ。今更だろ!」
清彦は引きつった笑顔でそう言うと、よっしゃあ、と気合の掛け声を上げた。