恋ふるしるし(2)
どうにも、嫌な予感がする。
マンションの自動扉の前、ロビーインターホンで柚子を呼び出す。
しかし、何度か試しても返事が無い。
美奈はすぐに、管理員をインターホンで呼び出した。
「――すみません、二〇二号室の新見さんの知り合いの者なのですが、安否を確認したいので開けてもらっていいですか」
『い、今行きます』
少しすると、慌てた様子の初老の管理員が自動ドアを開けてやってきた。
「テレビ城東の菊池美奈といいます」
美奈はそう自己紹介をしながら、すぐに自分の名刺を管理員に見せた。
管理員も、美奈のことは知っていたので、すぐに美奈をマンションの中に入れた。階段を上り、管理員の合鍵を使って、美奈は柚子の家に入った。
「新見さん!」
美奈は玄関で靴を脱ぎながら、柚子の名前を呼んだ。
異様な静寂。
返事がないので、美奈は部屋に入った。
寝室、バスルーム、トイレ――扉を開けたり覗いたりするたびに、美奈の心臓はドックン、ドックンと跳ねた。しかし柚子は、ダイニングにも和室にもベランダにも、そしてどのクローゼットにもいなかった。
心臓が締め付けられるような感覚を覚えながら、美奈はダイニングに立ち尽くした。
部屋は、キッチンから何から、すっかり片付けられている。まるで、引っ越し前だ。キッチンの洗い物も、寝室の布団も服も、整いすぎている。
ダイニングのテーブル周りだけは、色々なものが置いてあった。
アルバムに文集、シリンダー型のオルゴール、はちみつの飴、それに、兎のイヤリング。洋酒のボトルが三本と、グラスが二つ――リキュールグラスと、ロックグラス。それに、バースプーン。文庫本ほどのアクセサリーケースもあり、中には、鳩のブローチとキーホルダーが入れられている。革のキーホルダーには鍵と、紫陽花のキーホルダー、それにペンギンのキーホルダーも一緒についている。
「あっ!」
美奈は、テーブルの上に、電源の落とされた携帯端末を見つけた。ソファーの方に回り込むと、テーブルの下に大型のタブレット端末も置いてあった。電源は、切れている。
「どうですか?」
玄関先で、管理員が、顔だけを覗かせながら美奈に訊ねた。
「いません……でも、ちょっとやっぱり、不安なので、もうちょっと調べます」
「いやぁ、でもそれは……」
「訴えられるとかあったら、私が全部責任持ちます。これ、身分証です」
美奈はそう言うと管理員のもとにつかつかと歩み出て、免許証に国民保険証、社員証を全て見せた。管理員は美奈の迫力に負け、「部屋を出る時は電話してください」と、電話番号を美奈に教えて扉を閉じた。
美奈はダイニングのソファーの前に戻った。
部屋の雰囲気からすれば、やはり普通じゃない。何かあったに違いない。
――と、美奈はアルバムの下に二つ折りの青い色紙があるのを見つけた。
開いてみると、そこには、詩が書かれていた。
そしてその詩の下には、ボールペンの文字で、こう書いてあった。
『みんなごめんなさい。さようなら。
詩乃君、もう一度会いたかったよ。』
美奈は急いで管理人に電話をかけ、部屋で遺書のようなものが見つかったということを伝えた。管理人はすぐに防犯カメラの映像を確認した。エントランスの防犯カメラは、この日の十二時半頃、柚子がマンションを出て行く姿をとらえていた。
美奈は、すぐに福美に電話して、状況を伝えた。美奈はひとまず、柚子の家に待機ということになった。柚子の実家には、福美が連絡をすることになった。
「どうしよう」
美奈は、テーブルの前で頭をかかえた。
遺書らしきものが見つかっても、打つ手がない。新見さんがどこにいるのか、どこに行ったのか、全く見当がつかない。しかしふと、美奈は遺書に書かれていた名前を思い出した。
「詩乃って誰!?」
美奈はその名前をSNSで調べてみた。
しかし、よくわからない。
「落ち着け、落ち着け……」
美奈は自分に言い聞かせ、柚子がそのような人物の名前を出していなかったかと、記憶を探った。同級生で、相談したい人がいるとか、そんなことを言っていたような気がする。それが、〈詩乃君〉だろうか。じゃあその〈詩乃君〉の連絡先はどこだ。
美奈は柚子の携帯端末とタブレットの電源を入れた。
どちらも、ロックがかかっている。
「あぁ、どうしよう! どうしよう!」
美奈は髪を掻きむしった。
柚子を失うのは、美奈にとっては恐怖だった。
折角、信頼できる人に出会えたというのに、こんなすぐにお別れなんて、ひどすぎる。まだ新見さんには、聞きたいことがたくさんある。一緒にいろんな話をしたい。一緒にまだまだ仕事がした。仕事の哲学や、人生の哲学を聞いてみたい。新見さんに、優しく妹扱いしてもらいたい。
美奈は、泣きそうになるのを堪えて、記憶を探った。
何か手掛かりは無いか。
何か――。
「あっ!」
美奈は、一つ思い出したことがあった。
新見さんは一度だけ、規則を破ってファンメールに返事を出そうとしたことがあったらしい。これは、冬璃に聞いたんだったか、オミさんに聞いたんだったか――とにかく確か、去年のことだ。あの新見さんが規則を破ってまで返事を返そうとしたファンメール、送り主は何者だったのだろう。全く見当がつかない。
しかし美奈は、藁にも縋る想いだった。
美奈はすぐに、総合編成局の総務部に電話を繋いだ。出たのは、美奈と同期の男性社員だった。
「はい、編成総務の山岸です」
「菊池美奈です、アナウンス部の」
「あぁ、何?」
「新見さんに届いたファンメール、検索してほしいんだけど」
「えぇ? なんでだよ、面倒くさい」
美奈は、相手がぼやくのを無視して用件を伝えた。
「去年、新見さんがファンメール返そうとしたらしいけど、知ってる?」
「知らない」
即答する山岸に、美奈は声を荒らげた。
「調べて、すぐに!」
「な、なんだよ、お前。お前の趣味に付き合ってる暇――」
「早くして! 新見さんの命がかかってるの!」
美奈の剣幕に圧されて、山岸は美奈と通話を繋いだまま、過去のファンメールに検索をかけて調べた。
えーと、ここでもない、あー、これか――と、キーボードを叩く音と声の後、山岸が件のファンメールのやりとりをデータ上に見つけ出し、そのことを美奈に伝えた。
「あったあった。これ、本文必要?」
「必要!」
「じゃ、送っとく。――あ、この差出人、もう一通出してるっぽいな」
「それも送って!」
「わかった」
「ありがと!」
怒るような口調で美奈は礼を言い、通話を切った。その後、早速美奈のもとに、美奈の探していたファンメールデータの添付されたメールメッセージが送られてきた。
柚子が返信をしたというそのファンメールには、差出人名がない。そのメールへの新見さんの返事――読んでみても、掴みどころがない。ただのファンと、たまたまそのメッセージに元気づけられて新見さんが返事をしただけに見える。
からぶりだったろうか――。
美奈は次に、その差出人と同じアドレスで送られてきたというもう一通のメールを確認した。
差出人名――。
「水上詩乃……詩乃!?」
美奈は思わず声を上げた。
電話番号も、メールアドレスも書いてある。しかも、先週の金曜日――つまり、一昨日来たばかりのメール。
絶対この人だ、この人に違いない!
美奈は考えるのは後回しにして、そのメールに記載されていた電話番号に電話をかけた。
〈とろたま〉のクリスマス戦線は好調で、午後四時からどんどん客が増えて来ていた。ホールスタッフ三人、キッチン三人でなんとか回している。嬉しい悲鳴だな、とキッチンでホットケーキを焼きながら、清彦が言った。
デリバリーの注文もひっきりなしにかかってきて、配達員がとっかえひっかえ、店に立ち寄った。配達員にとっても今日は稼ぎ時である。それでもまだ四時台で、ピークタイムがこれからだと思うと、詩乃も眩暈を覚えた。
「酒飲みながらやりたいですね」
「それはちょっと、やめてくれ」
詩乃の軽口に、清彦が笑いながら応えた。
「今日乗り切ったら、シャンパン開けてやるから」
「え、マジですか」
清彦の言葉に、電話対応をしていた麻美が反応した。
「こういう時絶対聞いてるよな、お前」
「ごちそうさまです」
麻美はそう言いながら、クリスマス限定オムレツ二皿をトレイに乗せてホールに戻った。
――詩乃がズボンに、スマホの振動を感じ取ったのはその時だった。