恋ふるしるし(1)
クリスマス・イヴを翌日に控えた日曜日の夜、閉店後は明日のための仕込みに追われる。クリスマス限定オムレツのホワイトソースと、限定パンケーキを、今のうちに準備しなければならない。明日、明後日は、朝からデリバリーやテイクアウトの注文が殺到する。パンケーキなどは、明日の朝から作り始めたのでは間に合わない。
詩乃と清彦と、厨房スタッフがもう一人の三人体制で仕込みを行い、ホールスタッフの二人と副店長の三人は、駅店舗の共同物置から、明日の朝使うもの――宣伝用ののぼりや、テイクアウト用の容器の入った段ボールなどを運び出し、それから、フロアの飾りつけを増やした。
明日はクリスマス・イヴだっていうのに、こっちは店の準備だ――という幾分かやさぐれた気持ちは、〈とろたま〉だけでなく、他店舗のスタッフにもあって、スタッフ同士すれ違う時の「お疲れ様です」の声も皆いつもの倍は大きかった。空元気の笑顔が互いに可笑しく、クリスマスソングのBGMが流れる中、駅で仕事をするあらゆるスタッフには妙な一体感が現れて、雰囲気はまるで、文化祭前日のようだった。
「――結婚式、たぶん三月だ」
仕込みがひと段落し詩乃と清彦は、トイレで二人並んで用を足していた。
その時に、清彦が詩乃に言った。
「卒業って感じで、いいですね、三月」
「勘弁してくれよ、卒業なんて」
清彦は弱弱しく笑った。
「じゃあ、門出で」
「あんまり大袈裟にしたくないんだけどなぁ」
「でも彼女さん、喜んだんじゃないですか?」
「まぁ……めっちゃ喜んでた。で、叱られた。決心が遅いって」
詩乃はそれを聞いて笑った。
「招待状出そうと思うんだけど、いいか?」
「え、誰にですか?」
「詩乃にだよ」
「え、僕ですか?」
「うん」
詩乃ははにかむような笑みを浮かべた。
二人は用を足した後、洗面所で、また並んで手を洗った。詩乃は洗った手を拭いて、ズボンのポケットからスマホを取り出し、画面を確認した。その様子を、清彦はちらりと見つめた。
いつも詩乃は、スマホを持ち歩かない。家に置いてくるか、持ってきていたとしても、着替えと一緒にロッカーに置いてくる。それが一昨日も昨日も、そして今日も、ズボンのポケットに入れて、仕事の合間にさえ頻繁に確認している。
「――何かあったか?」
「え? あ、いや、何でもないです」
詩乃はそう言うと、再びスマホをポケットにしまった。
懸賞の結果待ちでもしているのかと清彦は思ったが、詩乃が詮索を好まないのを知っていたので、それ以上は何も聞かないことにした。
柚子にとっては穏やかな日々が続いていた。
家の外は日に日に寒さを増していたが、家の中は、温かかった。ダイニングのテーブルの周りには思い出のものを集めて、柚子はそのソファーに座って、日がなその思い出の世界に浸っていた。意識がはっきりしてくると、思い出の中の詩乃の面影が見えずらくなってしまうので、ワインを飲み干してしまった後は、酔いが醒めないように、好きなブランデーを飲んだ。
この二日間はそうしようと、柚子は決めていた。
金曜日、会社から帰ってきた後、夜には姉に電話した。姉とは、久しぶりの会話だった。元気な声が聞けて良かったと、柚子は一時間ほど話をして、電話を切った。
その後は、携帯端末の電源を切り、他のタブレットも、外部接続をオフにした。
「やっと、二人になれるね」
柚子はノートサイズのタブレットの画面いっぱいに映し出された詩乃に囁いた。
柚子はずっと、この時を待っていた。
嘘でもいいから、詩乃君の思い出に飛び込んで、もう戻ってこられないほどに深く沈んでしまいたい。
「また、食べたいね」
串焼きの岩魚に噛みつく詩乃に、柚子は話しかけた。
「あの時私、詩乃君を枕にして、寝ちゃったんだよね。重くなかった?」
柚子は詩乃に微笑んだ。
ねぇ、詩乃君、今度はどこに行こうか。
ねぇ、ずっと、寂しかったんだよ。
あれから色んな人と出会って、何人かとお付き合いもしたんだけど、やっぱり、ダメだった。私の事を褒めてくれる人はたくさんいるけれど、月から見える春や冬を感じさせてくれる人はいなかった。きっと、そんな人は他にいないんだと思う。
あの時、私が「行かないで」って言ったら、どうなってたかな?
私を連れて行ってくれた? それとも、こっちに残ってくれたのかな。
あれで良かったんだって思うけど、でも、あれが今だったら、きっと私は、詩乃君のバスに乗り込むと思う。いつだったか詩乃君は、自分のことを泥船って言ったけど、私、泥船でも良かったよ。一緒に沈めるのも、私には幸せだから。
「――ちゃんと安産杉にも手を合わせたのにね。私と詩乃君が家族になってた……そういう未来もあったかもしれないのに、神様って、意地悪だよね」
柚子はそう言うと、グラスのブランデーを飲み欲した。
ぼんやりとした意識の中で、再び酒をグラスに注ぐ。
「もうすぐ会いに行くからね」
柚子は呟いた。
――もう詩乃君がこっちの世界にいないなら、向こうで会える。もしどこかで生きてたら、魂だけでも、風に乗って会いに行くよ。
柚子は時計を確認した。
ムーンフェイズの、詩乃にプレゼントした懐中時計とデザインがそっくりの男物。
柚子はグラスに二種類のブランデーとベルモットを注ぎ、氷でかき混ぜた。
「ずっと大好きだからね」
柚子は呟き、作ったカクテルを一息で飲み欲した。
クリスマス・イヴでも月曜日になれば〈昼いち!〉はいつも通りの時間帯で放送された。莉玖と美奈のダブルメインMCはこの日が三回目となった。柚子の出演休止でスポンサー離れや視聴率の低下を危ぶんでいた制作陣だったが、チーフプロデューサー兼ディレクターである辻木の才覚もあって、番組の趨勢に陰りはなかった。それどころか、来年度はこのまま新見無しのダブルMCで行こう、という意見まで出始めてきていた。そんな意見を美奈に直接言うディレクターやプロデューサーもいた。
しかし美奈は、一貫して答えた。
「新見さんを復帰させてください」
美奈のそのかたくなな態度には、皆首を傾げるばかりだった。美奈が柚子の事をどう思っているのか、本当の所を知っている人間は、実のところ誰もいなかった。
番組の後、アナウンサー室に戻った美奈は、そこで困り顔の福美と出くわした。
「どうしたんですか?」
美奈は、不思議に思って訊ねた。
アナウンサー部の副部長が、アナウンサー室のデスクをうろうろとさ迷っていたら、流石に美奈でも、声をかけるしかない。
「うーん、今日打ち合わせの予定なんだけどね、新見さんが来ないのよ」
「え? ――何時からですか?」
「一時からの予定だったんだけど……」
美奈は反射的に腕時計を確認した。
もう、二時二十分である。
「連絡無いんですか?」
「うん。電話してるんだけど、電源が切れてるみたいで、全然つながらないの」
美奈は、胃のあたりがぐにょっと歪む様な、嫌な引っ掛かりを覚えた。
「新見さん、無断で休んだりって、珍しいですよね?」
「珍しいどころか、聞いたことないわね、私は」
美奈は、一先ずデスクに座った。
何か、あったのだろうか。
そしてふと、デスクに置いていたスノードームが目に入った。
――そういえばこれ、先週……。
ガタン、と美奈は椅子から腰を上げ、柚子に電話をかけた。
今日来る予定だったら、先週これを私に渡しただろうか。今日はイヴだ。クリスマスプレゼントなら、そして今日、ここに来るつもりだったのなら、プレゼントは今日貰ったはずだ。
このスノードームは、クリスマスプレゼントなんかじゃない。
新見さんは今日、最初からここに来るつもりはなかった。あの時にはもう、何かを決めていた。一体何を? 美奈は首を振った。
福美の言う通り、電話が繋がらない。
「心配ねぇ」
福美が言った。
美奈はバックを肩にかけた。
「ちょっと私、新見さんの家行ってきます」
「今から?」
「はい。この後仕事も無いので。福美さんはこの後、電話出られますか?」
「うん、大丈夫よ」
「じゃあ、向こう着いたらまた連絡します」
美奈はそう言うと、会社の外でタクシーを拾って千葉みなと駅へと向かった。美奈が千葉みなと駅に着いたのは、三時半過ぎだった。タクシーを降りて、美奈は速足で、柚子のマンションに向かった。