白い海へ(5)
東京湾の埋め立て地の一画にテレビ城東の本社ビルはある。縦よりも横に広い建物で、周りの歩道には樹齢のまだ浅い黒松が植えられ、商業ビルやオフィスビルというよりは、博物館のような趣が濃い。テレビ城東の本社はもとは深川にあったが、二十年前、この土地に移動してきた。埋立地らしいだだっ広い敷地には、ビルの他に、小山や遊具を備える芝生の公園もある。
最寄りの潮見駅からテレビ城東のビルまでは、歩いて五分とかからない。
十二月十八日の火曜日、柚子の出演休止期間の延期が発表された翌日、詩乃は、テレビ城東のその本社にやってきていた。朝の八時。冬らしい空気の冷たい朝だったが、その冷たさはかえって、詩乃にはありがたかった。
詩乃は、ビル前の大理石のような石畳広場のベンチに座り、ダッフルコートの襟に顔をうずめた。白い息の隙間から、その目だけは注意深く、ビルに出入りする人間達を観察する。
ここにいれば、新見さんに会えるかもしれないと、詩乃は思いついてやってきたのだ。番組には出演していなくても、会社には出勤してきているかもしれない。もし会えて、もし新見さんが望んでいるのなら、悩みを吐き出すそのはけ口になろうと、詩乃は決めてきていた。ストーカーじみた真似をしていることは、詩乃もわかっていたが、柚子が傷ついていると思うと、何かせずにはいられなかった。
〈とろたま〉は、来週のクリスマス商戦に向けて、今週は忙しい。特に今週は、金曜、土曜、日曜と、連日詩乃も、昼の第二シフトから閉店作業・翌日の仕込み作業のある第四シフトまでの時間で駆り出されている。こうしてテレビ城東の本社前で柚子を探せるのは、今週は今日、明日、明後日しかない。
――会えなかったとしても、新見さんが元気ならそれでいい。
詩乃は、骨董品のような分厚いスマホで、三十分ごとに柚子の情報を集めた。柚子やテレビ城東に関する新しい記事があれば、誤字誤植のある三文記事でも拾い上げた。
腹が空くのは塩むすびを食べて、眠くなってきた時には飴を舐めて、その日は夕方前までテレビ局を見張っていた。しかし柚子らしき人物は、見つけられなかった。詩乃は仕方なくその足で北千住に戻り、〈とろたま〉のバイトに向かった。
その日の仕事の後、詩乃は更衣室を出たところで、まだホールユニフォームのままの麻美に呼び止められた。
「水上さん、あの、この間はすみませんでした」
「え?」
何が、と詩乃は首を傾げた。
「いや、なんか色々、水上さんに悪いこと言っちゃったかなって思って」
詩乃は眉間にしわを寄せ、それから応えた。
「思ってることを言っただけなら、それでいいじゃない」
突き放すような詩乃の言葉に、麻美の胸は痛んだ。
確かに思っている事を言ったのは間違いない。けれど、言っていない本音もある。それに、どっちにしても、水上さんに嫌な思いをさせたなら、謝りたい。
「でも、ごめんなさい」
詩乃はそう謝られて、考えるのは清彦の事だった。
志波さんはたぶん、自分と麻美が不仲になることは望んでいないだろう。気まずくなって自分か、麻美に辞められてしまうと、店を回すのに苦労する。辞めないまでも、スタッフ間の不仲は、職場環境として良くない。当人たちは良いとしても、周りが気を使う。そんな息の詰まるような中で働くのは、誰だって嫌だろう。
詩乃はそこまで考えて、麻美への態度を決めた。
詩乃は麻美に微笑みかけ、応えた。
「まぁいいよ、そんなに、気にしてないから」
詩乃の笑みを見て、麻美はほっとした。しかし、「気にしていない」のは、それはそれで少し嫌な気がする。
「……ちょっとは気にしました?」
麻美は、探るように言った。
「まぁ、ちょっとはね」
詩乃は、会話の教科書をなぞる様に応えた。
「――そういえば、水上さん、正社員になるんですか?」
「あぁ、そういえば……」
少しちゃんと考えますと、最近詩乃は、清彦に伝えたばかりだった。来週の金曜日までにどうするか決めて、清彦に返事をしなければならない。
「正社員になったら、彼女出来るかもしれませんよ。水上さん、見栄えは悪くないんですから。背も高いし」
麻美はそう言って、にやりと笑った。
それは、麻美なりの誉め言葉だったが、詩乃は鼻で笑った。
「前川さんは、正社員じゃなきゃ恋愛もする資格が無いと思ってる?」
ぽつりと、詩乃は麻美に訊ねた。
麻美は、「え」と言ったきり固まった。
麻美の反応に詩乃は唇を結び、それから明るい声で言った。
「志波さんの話を受けるかどうかは、もう少し考えるつもりだよ」
麻美は、詩乃の顔を見つめた。
好きなのか、好きではないのか、麻美はまだ、詩乃への気持ちに結論が出せないでいた。それでも、詩乃が自分を子ども扱いして、相手にしていないのがわかる。一瞬本音が見えても、すぐにそれは、偽物の笑顔と建前の言葉に隠されて、深く見えなくなってしまう。相手にされていない悲しさに、麻美は、自分の気持ちを全部打ち明けて、詩乃の関心を引きたいという思いに駆られた。
「水上さん、クリスマスイブの夜って空いてますか?」
感情の勢いのまま、麻美は詩乃に訪ねた。
詩乃は、麻美の表情を一瞬見ると、すぐに視線を外して言った。
「シフト入ってるよ。前川さんもでしょ」
「あぁ……ええと、その後です」
「その後……」
詩乃は呟き、顎に手をやった。
自分の答えを麻美が待っている、そのことを感じながら、詩乃は麻美の足元のあたりに視線を落とした。いつもは何とも思わない、麻美のホールスタッフ用の黒バンプスが、今は妙に艶々して見える。床の鏡面タイルが、LEDライトを照らし返しているからかもしれない。
「――あぁ! ごめんなさい、水上さん。私イブは予定あるの忘れてました!」
麻美が、急に高い声の早口でそう言った。
詩乃は顔を上げた。
「友達来るんですよ!」
「あぁ、そう」
「はい、ごめんなさい、私から誘っておいて。あはは、忘れてください」
困った様な笑みを浮かべながらそう言う麻美に、詩乃は「うん」とだけ短く応えた。
「前川さん、次は、日曜夜だよね」
「えーと……確か、はい、そうです」
「じゃあその日に。またね」
「はい、また」
詩乃はそう言って、駅の連絡通路を、西口に向かって歩いて行った。麻美はその背中を見届けた。詩乃が見えなくなると、麻美はぱちんと、自分の頬を両手で叩き、「よし」という掛け声とともに、詩乃の見えなくなった西口に背を向けた。