白い海へ(3)
「新見アナのスキャンダル、ネット記事結構出てますよね」
柚子が発作を起こして番組を休んだ日の翌日、〈とろたま〉の閉店作業をしながら、麻美が言った。詩乃は、ちらりと、小さなすりガラスからホールの掃除をしている麻美に目をやった。その目線の鋭さに、自分と麻美のまかないを作っていた清彦は、小さな焦りを覚えた。
「メディアもネタがないんだろ」
麻美に聞こえる大きな声で清彦が言った。
「店長もチェック済みですか」
こいつ本当にやりにくいなと、清彦は余った野菜や肉類をぶち込んだ小鍋のスープを混ぜた。
「どっちが勝つんですかね、婚約してるキャリアウーマンと、新見アナと」
「どっちでもいいよ」
面倒くさそうに、詩乃が言った。
「初恋の人のそういう話は、複雑ですか?」
麻美は、誰もいないホールに声を響かせた。
「心配だね」
詩乃はそう言って、タオルで手を拭いた。
ホールの片付けが終わった麻美はキッチンにやってきた。
「社長が相手じゃ分が悪いですよ」
麻美は、冗談半分に詩乃にそう言った。
いつもよりも割増しで麻美の態度には棘がある。清彦は、二人に挟まれて、気が気ではなかった。つい最近までは、二人とも付き合っちゃえばいいだろ、とそう思っていた清彦だったが、今は、二人は水と油かもしれないと考えを改めていた。
「社長じゃなくてCEOでしょ」
「どっちでも同じようなものですよ」
ピピピ、ピピピとタイマーが鳴った。
清彦はパスタを引き上げ、フライパンに入れた。卵黄を少量のミルクで解いた液体を、その上から加える。
「今日はカルボナーラですか。美味しそう」
「旨いよこれ。――詩乃も食ってけよ」
「すみません、今日はちょっと」
そうか、と清彦は応えた。
「水上さんって、普段何してるんですか。今日とかも、帰った後」
清彦は、麻美が詩乃の小説の事を知らないのを意外に思った。付き合っていないにしろ、二人で食事に行くくらいの関係にはなっているのだから、小説のことくらい、麻美はもう知っているものだとばかり思っていた。
「酒飲んで寝るかな」
「えぇ、じゃあ食べてけばいいじゃないですか。作るの店長ですけど」
「酒飲みながら考えたいこともあるんだよ」
「何ですか。新見アナのことですか?」
図星を突かれ、詩乃は押し黙った。
柚子がネット記事で取り上げられているのを見て、詩乃はすぐに、その大本の雑誌を買った。この一週間、柚子の記事は、すでに何度も読み返して、その文中に出てくる単語や固有名詞を、全て説明できるくらいに調べつくしていた。
今、詩乃の中にあるのは、柚子の体調の事だった。今週月曜日から、柚子は出演していた全ての番組を休んでいる。テレビ城東はそれを、体調不良と説明している。雑誌のゴシップが原因で謹慎させられているのならまだ良いが、テレビ局のコメントの通り、本当に体調不良だとしたら、本当に心配だ。そう思って詩乃は、本当の所を、ネットの情報を漁って今日も調べようとしていた。
「え、ホントにそうなんですか!?」
詩乃の沈黙に対して、麻美はさっそく突っ込んだ。
「ちょっとやめてくださいよ。引いちゃいますよ、それ」
清彦は麻美に、それ以上何か言うなと、視線を向けたが麻美は気づかなかった。
「……まぁ別に、誰かにわかってもらおうなんて思ってないよ」
詩乃はそう言うと、早々に片付けの残りを終わらせて、一人先に上がった。
詩乃が店を出た後、清彦と麻美は、テーブルに向かい合って座った。
「水上さんって、よくわからないですよね」
カルボナーラを食べながら、麻美が言った。
「いや俺は、わかる気がするけどな」
「え、ホントですか? ――結構根クラですよね」
「……お前はさ、結局あいつのこと好きなの?」
「なんですか急に! そんなわけないじゃないですか。付き合っても、旨味無さそうだし。会話も、全然弾まないんですよ?」
「まぁ……わからないかもな、お前じゃ」
「なんですか、それ」
麻美は、むすっと剥れた。
いつもなら麻美は、清彦に反撃したいときは、結婚や同棲の話題を振る。しかし近頃清彦は結婚を決めたので、麻美も、その話を武器にはできなくなった。
「あとお前、さっき、社長が相手じゃ分が悪いとか、そんなこと言ったろ」
「はい。え、だって、そうじゃないですか」
「女は残酷だねぇ」
「……何ですか今日。というか、店長って、随分水上さんの肩持ちますよね。男の友情ってやつですか?」
こいつも今日は随分憎まれ口をたたくなと、清彦は思った。
「――あいつは孤独なんだよ。若いうちに両親無くして、親の残した借金のために地方出て働いて――そういう奴の気持ち、お前想像できないだろ?」
「え、ちょっと待ってください……そうなんですか? でも水上さん、家族とは音信不通だけど、会おうと思えばいつでも会えるって言ってましたよ」
清彦は少し考えてから応えた。
「会おうと思えばいつでも会える、か……。前川、お前相手に詩乃が、両親のこととか、借金のこととか、話すと思うか?」
そう言われて、ズキンと麻美の胸は痛んだ。
「まぁ、どうでもいいか、社長でもない三十路フリーター男の話なんて」
「そういう言い方しなくてもいいじゃないですか。私が悪かったですよ」
そう言って麻美は、スープを掬った。
清彦も、パスタを丸めて口に入れた。咀嚼しながら、こうやって自分はだんだん、若い従業員から煙たがられる存在になっていくんだろうなと、清彦はそんな事を考えていた。自分で作ったパスタの味は、あまりよくわからなかった。
スタジオでパニック発作を起こしてから一週間、柚子は自宅療養をしていたが、その期間が、さらに一週間伸びた。それに伴って、柚子の療養中は、ナレーションの番組は代役のアナウンサーが起用されることになった。〈昼いち!〉はしかし、柚子の代役はたてず、柚子がサブMCに入っていた日は、メインMCの美奈と、サブMCの一人が、ダブルメインMCというような形で、対応していくことになった。
十二月十七日の月曜日、〈昼いち!〉の放送が終わり、放送後ミーティングも終わった後、美奈と莉玖の二人は、アナウンス室の隣の休憩室で一緒になった。莉玖は砂糖いっぱいのカフェオレを作り、美奈は粉末青汁を湯で溶かし、かき混ぜた。
「――新見さんいないと、ほんっと毒強いですね」
美奈は、莉玖に言った。
柚子がサブMCを担当していた月曜日、水曜日、木曜日は、柚子の復帰まではダブルMCになる。月曜日は、莉玖がMCのもう一人で、先週は柚子が倒れたその日だったので莉玖も番組を回すことに徹したが、今日は、本番中、美奈は随分莉玖にいじられた。
「台本だよ」
「アドリブでしたよ!」
莉玖は微笑を浮かべ、紙コップにふちに唇をつけた。
「はぁ。新見さん、早く帰ってこないかなぁ……」
そう呟いて青汁を啜る美奈を、莉玖は湯気の隙間から見やった。
「このまま休んでくれた方が都合がいいって声もあるけどな」
莉玖がそう言うと、美奈は髪を逆立てんばかりに、表情を怒らせた。
「――俺が思ってるわけじゃないよ。そういう声があるって話、それとなく菊池も聞いてるだろ?」
「オミさん、ぶっちゃけていいですか」
莉玖は、部屋の扉が閉まっているのを振り向いて確認してから言った。
「どうぞ」
「私、今一番のストレスは、そういう事言ってる玉無し野郎と一緒に仕事しなきゃいけないってことです」
美奈のあんまりな発言に、莉玖は咽た。
柚子が出演している各番組の公式サイト上には、柚子が健康上の理由で暫く番組を休むという旨が発表されている。「番組関係者一同、新見アナウンサーの復帰を心より願っています」というような文言が添えられて。