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星の海で遊ばせて  作者: ノマズ
5,この空が崩れ落ちても
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白い海へ(1)

 十二月三日、午後五時過ぎ、柚子は身支度を整えて家を出た。緑のパーティードレスに白いボレロ、姉の夫がデザインした赤い小さなバックを手に、マンションのエントランスを出る。自動ドアが後ろで閉まり、柚子は静かに深呼吸をする。


 明の手配した車は、もうマンション前の道に停まっていた。黒塗りのジャガー。


 柚子は心を決めて、車に乗った。


 明のクルーザーは、豊洲にある桟橋の一つに停泊していた。


 二百人程度が乗船できるレストランシップで、普段は客を乗せている。船は、厳密には明の持ち物ではないが、船を所有、運用しているオーナー会社にとって明の〈N・ドーベル〉は、大事な取引先であり、重要なスポンサーでもある。今回は明の私用だったが、明は電話一本で、柚子の誕生日を祝う船を用意させることができた。


 運転手から柚子の到着の報を受け、明は船から降り、柚子を迎えに行った。


 車から降りた柚子は、停泊する船をバックにやってきた明の姿を見つけた。光沢のある紺のスーツにベスト、青と黒の中間色のネクタイに革靴。明の、自分に笑いかける表情を見た時、柚子は、明の本気を感じ取った。


「あれ、明さんのクルーザー?」


 明は振り返り、あぁ、と笑った。


「そうだよ」


「えぇ、大きいね!」


 柚子は、小型のクルーザーを想像していたので、大いに驚いた。柚子の驚いた表情を見て、明も、柚子がどんなものをイメージしていたかわかった。


「プライベートクルーザーもあるけど……そっちが良かった?」


「ううん、驚いちゃって」


「小さいのもそれはそれでいいんだけど、今日は、折角だからさ」


「ありがとう」


 柚子の喜ぶ顔を見て、明も思わず笑った。


「――あれ、コートは?」


「着てくるの忘れちゃった」


「はっはっは、じゃあ、寒いから行こう」


 明は柚子に笑顔を見せ、手を差し伸べた。柚子は明の手を取った。


 船は桟橋に左舷を付けて停泊していた。メインデッキの上にプロムナードデッキを備えた立派な客船で、夜の海にきらきらと、金色の光に浮かび上がるその姿は、一つの芸術品の様だった。この船が、自分だけを待っていると思うと、柚子は圧倒される思いだった。


 乗船ブリッジを渡るために、五段程度の階段を上り、そこで柚子は一旦立ち止まった。


 あとはこのブリッジを渡るだけ。


 たった数歩の距離。


 明は、柚子が怖がっているのかと思って声をかけた。


「大丈夫? ほら、どうぞ」


 明は、再び柚子に手を出した。


 柚子は明の手をじっと見つめた。


 やがて、柚子はにこりと明に微笑み、ありがとうと言って、その手を取った。




 船のきらびやかな内装を楽しみながら、二人は二階に上がり、窓から船が桟橋を離れるのを眺めた。桟橋が夜の中に消えてしまったのを見届けながら、柚子は静かに息を吐いた。


 その後、二人は船の中を散歩することにした。一階と二階にある広いレストランフロアも、個室も、特別席も、どこでも自由に使うことができる。どこで夕食にするか、明は柚子に選ばせて楽しんだ。


 明のエスコートは丁寧だった。二段、三段のちょっとした階段の上り下りも、明は必ず一歩前に出て、柚子を導いた。柚子は明の手を握るたびに、笑みを重ねた。


 ――明さんなら、大丈夫。


 そう心に決めるだけの安らぎを積み重ねた後、柚子が夕食の場所に選んだのは、一階の広いレストランフロアの船首側の席だった。オードブルから始まるフレンチのフルコースにピアノの生演奏。ワインは、成功者のみの特権のようなロマネ・コンティを、明は当たり前のように、ソムリエに開けさせた。オマールブルーを使ったポワソンを前に、二人は早速、ワインを飲んだ。


「どう、美味しい?」


「うん、美味しい。こんなに滑らかなんだね」


 柚子は、ワインに語り掛けるように言った。


「良かった。いや、俺さ、そこまで酒の味わからないんだよ」


 そう言いながら、明はもう一口飲んだ。


「――うん。確かに滑らかだ」


 そう言って、明は笑った。


 ね、と柚子は深く頷いてグラスから香る香水のようなその香りを味わい、グラスのワインに微笑んだ。明は、参ったなと、柚子の味覚や嗅覚の鋭さに舌を巻いた。


 柚子は機嫌顔で、海老のふっくらした身をフォークで刺し、口に運んだ。


「違いの分かる男を演出しようとしても、新見ちゃんには通用しないな。恥をかくだけだよ」


「そんなことないよ!」


「いや、いいんだよ。その方が気が楽って言うか……見栄を張らなくて済むから、新見ちゃんといると落ち着くんだ」


 嬉しいな、と柚子は思った。


 柚子はじっと、明を見つめた。


 明さんと一緒になったら、結婚したら、どんな家庭になるのだろう。柚子はそんな事を空想した。デートも旅行も、私のために完璧にセッティングしてくれるのだろうか。子供が出来たら中高一貫、大学まで付いた私立校に入れて、こんな船での船旅も家族そろって、シーズンごとにできて――そんな将来を、柚子は何となく思い描いた。


 悪くないと思う。


 本当に、悪くない。


 主役の肉料理のために、一度口をすっきりさせるオレンジのシャーベットが運ばれてきた。


「こういう、船でのデートは初めて?」


 明は、シャーベットにスプーンをつける柚子を見つめながら訊ねた。


 柚子はピタッと、一瞬動きを止めた。


 しかしすぐに、にこりと明に笑みを見せ、シャーベットをスプーンごと口に入れて、それから応えた。


「船上パーティーは何回かあるけど、お船のデートは、高校生の時以来かなぁ」


「高校生? 随分大人びてたんだね」


「観光地の遊覧船だよ」


「あぁ」


 なるほどね、と明は納得して頷いた。


「新見ちゃんの元カレかぁ。ちょっと興味あるな」


 茶目っ気のある明の声音に、柚子はくすりと笑った。


「十年も前だけどね」


「でも覚えてるんだ」


 柚子は、ワインを見つめながら応えた。


「うん。その時は、私じゃなくて、その彼の誕生日のお祝いだったんだ」


 柚子はそれから、ふと我に返り、自分を見ている明の視線に気づいた。


 柚子は苦笑いを浮かべ、ワインを一口飲んだ。


「今となっちゃ、驚いてるだろうね。テレ城の看板、新見アナとデートをした男なんて。鼻が高いんじゃないの」


「そういうの、たぶん、頓着が無いと思う。そういう人だったから……」


 明は小さく、そっか、と言って、ワインを口にした。


 その後は、メインデッシュのシャトーブリアンが運ばれてきて、丁度二人がそれを食べ終わる頃、柚子の誕生日を祝うためのデザートが、美しいガラスの皿でやってきた。食べきりサイズのプチホールケーキに、生クリームで形作られたリボンと、チョコレートソースで書かれた〈Happy Birthday〉の文字。ケーキの周りには大粒の苺が敷き詰められている。


 フロアライトの光量が落ち、スタッフが、キャンドルに明かりとともす。それを合図に、ピアニストが〈Happy Birthday To You〉をジャズ調で弾き始めた。


「誕生日おめでとう」


 明はそう言うと、柚子にプレゼントを差し出した。


 空色の細長い箱に白いリボン。


 プレゼントは、ネックレスだった。鍵モチーフのペンダントトップは、散りばめられたダイヤモンドできらきら輝いている。


「つけてあげるよ」


 明はそう言って、柚子の後ろに回った。明は、柚子の付けていた金チェーンのネックレスをはずし、鍵のネックレスを柚子の首につけた。柚子の胸元に、明のネックレスが光った。




 レストランフロアでの食事の後、二人は三階デッキのバーラウンジに上った。全開できるガラス扉の外はテラスデッキになっている。二人は、東京湾の夜景が見える窓際の、二人掛けのソファー席に座った。


 窓からは広大なコンテナ港が見える。オレンジ色の明かりが煌々と灯り、巨大なキリンのような骨組みのクレーンやコンテナや、倉庫などの施設を海上に浮かび上がらせている。その景色は、美しくもあり、不気味でもあった。


 明は、ロックグラスのラスティネイルを舐めるほどに一口、唇を湿らせた。


「新見ちゃんは、アナウンサーの仕事は、ずっと続けるの?」


「わからない」


 明の質問に、柚子は答えた。


「仕事は楽しいんだけど、でも……」


「うん」


 明は優しく頷き、柚子に続きを促した。


「何としてもやり抜こうとか、続けようとか、そういう風には思えてないんだ。皆頑張ってるのに、私はなんだか宙ぶらりんで……」


「辞めたい?」


「ううん、辞めたくはない! ……でも、ううん、違うかもしれない。辞めるって思えるほどの信念が無い――たぶん、そうなんだと思う。続けようとする情熱も、辞める勇気もない……」


 柚子はきゅっと、リキュールグラスを持つ手に力を込めた。


 柚子のグラスには琥珀色のブランデー、その飲み口には輪切りのレモンが乗り、その上には山型に上白糖が盛られている。カクテルの名前はニコラシカ――臆病な自分を奮い立たせるための、柚子の気つけ薬だった。


 これを飲んで、そして明さんの気持ちに応える。


 そのための一口。


 それなのに、自分はまだ何かを躊躇っている。この期に及んで、私は何を考えているのだろう。グラスを見つめながら、このカクテルを飲む勇気すら自分にはないのかと、柚子は自分の弱さが悔しかった。


 思いつめたような柚子の瞳に、明は口を開きかけた。


 その時バーテンダーが、長く沈黙する二人に気を使って、静かな声で言った。


「もうすぐレインボーブリッジです」


 柚子と明は、バーテンダーの声に従って、正面のガラスの奥を見た。


 ライトアップされたレインボーブリッジが近づいてきていた。暗い海面にもきらきらと、橋の光が映り輝いている。おぉ、と明がレインボーブリッジを見ている間に、柚子は、レモンと砂糖を口に含み、そして一気に、ブランデーを飲んだ。


 甘い砂糖と、フレッシュなレモンの果汁が口に広がり、そして芳醇な、どっしりとしたブランデーの味わいが口に広がる。呑み込むと、胸の奥が焼ける。

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