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星の海で遊ばせて  作者: ノマズ
5,この空が崩れ落ちても
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海月のクオーツ(8)

 しきりに感心する清彦に、詩乃は反応しないようにした。どうして作家になりたいのか、というような面倒な質問を受けたくなかった。なぜ書きたいのか、どうして書けないと、家じゅう滅茶苦茶に荒らしまわりたくなるような衝動に駆られるのか、そこまでして、創作文芸に何があるのか、詩乃も答えは出せていなかった。ただ自分の身体は、〈書く〉ようにできている。食欲や睡眠欲を、創作欲は遥かに上回っている、それは確かだった。


「生きるとは、みたいな?」


「なんですかそれ」


「いや、小説っていうと、難しいイメージあるからさ。俺ほとんど読まないんだよ。――あ、漫画は読むけど」


 確かに、志波さんは読書なんてしなさそうだな、と詩乃は思った。茨城で世話になった新倉家の皆も、春以外は、文芸というものにほとんど関心が無かった。そういえば春の父――、広志さんは、車いじりとサーフィンの情報誌だけは熱心に読んでいたっけ。


「でも、作家って狭き門だろ? なろうと思ってなれるものでもないって言うかさ」


「そうなんですけどね。でも――」


 なれると思う――詩乃はその自信だけは昔からあった。


 しかしそれがいつになるのかは、わからない。少なくとも、今ではない。何しろ今は、一つの短編さえ完成させられない状態なのだ。作家として生計を立てるにはいくつか方法があるが、詩乃は、懸賞に応募して、賞を取って――という道を考えていた。いずれにしても、作品を書ききらなくては話にならない。


「でも俺、いいと思うよ、そういうの。夢あるじゃん」


「そうですかね」


 詩乃はすげなくそう応え、肉に塩を振った。


「でももし作家デビューしたらさ、なんだっけ、芥川賞? そういう有名な賞取ったら、それこそ、新見アナとお近づきになれるんじゃないの。インタビューとかされちゃってさ。なぁ」


 元同級生だし――と、清彦はそう付け足し、自分の皮算用に興奮している。


 詩乃は、柚子の名前が出てくると、フォークとナイフを動かす手を止めた。特に、何を言おうとしたわけでも、何かを考えようとしたわけでもない。ただ体が勝手に、そういう反応をしたのだった。


 清彦は柚子の動画を携帯端末のモニターに出した。〈新見〉で検索すれば、写真も動画も、いくらでも出てくる。清彦が詩乃に見せたのは、〈新見柚子のお仕事舞台裏〉という、テレビ城東の公式チャンネルから出ている最近の動画だった。


 詩乃は日頃、テレビも見なければ、柚子の事をネットの中に探すこともなかった。ニュースになっている時にも、特別重大な内容でなければ、その記事を読むだけにとどめている。一番最近では、四カ月ほど前の、柚子がジャズピアニストになった昴にインタビューした、という記事。尤もその時には記事だけでなく、テレビ城東の動画チャンネルから配信されていたものをしっかり全部観た。


 それから、詩乃が柚子を見るのは、四カ月ぶりである。


『――これは、靴です、運動靴。いつでも外出られるように』


 動画の中の柚子が、撮影者の質問に答えながら、デスク周りの持ち物を紹介している。柔らかい柚子の笑顔に、詩乃の頬も自然と緩んだ。


『私ロケすごく好きなんですよ。あと、急に散歩に出たくなるときとかあるので、運動靴、必需品です。……これは、佐田さんに貰ったやつです』


 そう言って画面の中の柚子は嬉しそうに、黒いスポーティーな運動靴を紹介する。普段の飲み物、弁当、オンエア前の様子――柚子の姿を見ると、詩乃は、柚子を始めて見た時の感情を思い出した。そして、忘れもしない林間学校の時のことを。


 こんなに綺麗になって、大人っぽくなって。


 でもあの目の無邪気さは変わらないな――。


 詩乃は頬杖を突いて動画を見ながら、悩ましげなため息をついた。


 清彦は、詩乃がそんな反応をするとは思っていなかった。誰が可愛いとか、スタイルがどうとか、そういった類の話題には、いつも全く付き合わない。前川のことにしてもそうだ。詩乃は、女に興味が無いタイプの人間なのだろう。清彦はそう思っていた。


 ところが、柚子の動画を見せた途端、詩乃の表情はすっかり変わってしまった。普段難しい顔ばかりしている詩乃が、こんなに柔らかい表情をしている。


「やっぱこういうタイプが好きなんだ」


 清彦は、悪戯っぽくそう言った。


 詩乃は、柚子を見つめながら言った。


「タイプというか、この子が」


 え、と清彦は反応に詰まった。


「ファンってこと?」


「ファンじゃないですよ」


「お前それ怖いよ。同級生だって言ったって高校時代――……友達でも無かったんだろ?」


「はい」


 動画を見つめたまま答える詩乃に、清彦は焦りを覚える。


「え……マジで好きなの?」


 恐る恐るといった調子で、清彦は訊ねた。


 再生の終わった動画から目を離し、詩乃は小さく息をついた。温くなったコンソメスープを一口飲み、清彦をちらりと見やる。


「いや、別に構わないけどさ」


 清彦は、半笑いで言った。その半笑いさえ、頬が引きつっている。


 詩乃は清彦の表情を見ないふりをして、ナイフとフォークを手に取った。


「志波さんは結婚しないんですか?」


 ステーキを切りながら詩乃は清彦に訊ねた。


 清彦は、今さっきまでのものとは違う半笑いを浮かべる。


「するとは思うけど……」


 清彦も、残りのステーキに取り掛かる。


「勝手にどんどん準備進められてるんだよ、今」


 詩乃はそれを聞いて微笑した。


「年貢の納め時ですね」


「え、何?」


「そういう言葉があるんです。――いつ籍入れるんですか?」


「はぁ……なんでそんなに結婚したいんだろ」


 清彦が弱弱しく呟いた。


「なるようになりますよ」


 詩乃は、気の抜けたような声で言った。


「そう簡単に言うなよ、金とか、向こうの両親とか……」


「お金、あるじゃないですか。志波さんも、彼女さんも、親も親戚もいるんでしょ。何とかなりますよ」


 清彦は詩乃にそう言われてハっとした。


 清彦は、詩乃の境遇を知っている。


 詩乃の口調は静かなものだったが、清彦はその言葉の裏にある詩乃の人生を考え、「簡単に言うな」と言った自分の発言を恥じた。


「そうかなぁ……」


 清彦はそう言って、付け合わせのポテトを齧った。


「結婚の良い悪いなんて、自分にはわかりませんけど……でも、相手がいるんだったら、それはまぁ、それも一つの幸せだと思います」


「うーん、まぁ、なぁ……でもお前は――」


「自分はそういうのは……一人でも、そんなに辛くないんです。むしろ、人と一緒にいる方が辛くて」


「まぁそれは確かに、人それぞれだわな」


「でも、別に、彼女とか結婚を馬鹿にしてるわけじゃないですよ。あの、例えばその……」


 詩乃は一度言葉を止めて考え、それから再び、罪の告白でもするかのようなひっそりした雰囲気で口を開いた。


「この間、地下の和菓子屋で上生買ったんですよ。花とか、魚とか、見た目にもすごく綺麗に作ってあって、普通に買うと高いんですけど、フェアで安くなってたんです。折角なんで、お茶と黒文字も一緒に買って帰っちゃいました。それで、家に帰って食べる準備して、箱を開いた時に、ちょっと――」


 詩乃はそこで、言葉がつっかえたかのように少し間を置き、それから続けた。


「――本当に美味しいものって、自分じゃなくて、誰かに食べさせてあげたいなって、思いませんか? なんか、自分で食べるより、その方が、美味しい気がするんですよね。だから、そういう相手がいるのは、やっぱり幸せって言っていいんじゃないですかね。綺麗な物とか美味しいものとか、見たり食べたり飲んだりした時は、いつもそう思います」


 うーん、と清彦は腕を組んで考え込んでしまった。


 詩乃も、手を顎にやり、俯いて目を閉じた。


「確かに、そうかもなぁ……」


 深い沈黙の後に、清彦が言った。


「いや、気にしないでください、物書き崩れの戯言です」


 詩乃はそう言うと、通りかかった店員に手を上げて、突然注文した。


「あ、すみません――生ビール下さい」


 突拍子もないオーダーに、清彦は面食らった。


「え、飲むの!?」


「昼間の酒はいいですよ」


「じゃあ、俺も飲もうかな。――生二つで」


 生ビール二つで、畏まりました、と店員はハキハキと注文を繰り返して、二人のテーブルから離れた。その後ろ姿を見ながら、清彦は声を上げて笑った。


「やっぱ独り身のうちだけだよな、こういう自由があるの。店長って言っても、稼ぎいいわけじゃないし」


「ビールが無くたって志波さんは立派だと思いますよ、僕からしたら。店長なんて、自分はできません。週六とか、下手したら毎日出勤なんて。しかもバイトとかから愚痴を言われたりするわけじゃないですか。自分だったら、やってられないですよ」


「いやまぁ、根本的には、好きでやってることだからな」


 清彦は、内心詩乃の言葉に感動しながら応えた。


「僕の親なんて、手取り十五くらいの時に結婚して自分を産んだんですよ。しかもその後は脱サラして。結果的に自営が上手くいったのは、本当に偶然だったみたいです。でも、その時の疲労が多分原因で、母親は身体悪くして死んじゃうし、父親も、不摂生で死んで。――僕の父親に比べたら、志波さんなんて、すごく立派ですよ。大丈夫ですよ。そういう所で躊躇ってるなら、心配しすぎだと思います」


 清彦は、そうかなと、頷いた。


 ちょうど、生ビールのジョッキが運ばれてきた。


 白い泡がこんもり盛り上がっている。


「よし、じゃあ、乾杯するか」


 清彦はジョッキの持ち手を握った。


「はい。――志波さんの結婚に」


「勘弁してくれよ」


 そう言いながら、清彦は笑ってグラスを掲げた。


 詩乃もそれに合わせた。


 ガチンと、豪快な音をたてたビアグラスから、ばしゃっと、ビールが零れる。互いに手を濡らしながら、泡に顔を突っ込んだ。そして、喉を鳴らしながら、途中目配せをしたりして、息つくことなく一気にジョッキのビールを飲み欲した。


「すみません、生もう二つ」


 清彦が言った。


 詩乃は笑った。


「今日俺の奢りな」


「今のうち貯金しとかないと、自由が減りますよ」


「独身収めだよ、付き合えよ」


 清彦はにやっと詩乃に笑みを見せた。

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