海月のクオーツ(7)
これで良かったのだろうかと、千代の心は複雑だった。いっそ、興信所でも頼って、本格的に水上君を探してみたらと、そう言うべきだったろうか。でもそれくらい、柚子だって考えなかったわけがない。考え抜いた挙句、そこまでして探していないのだ。きっと柚子も、水上君と会いたいと思う気持ちと同じくらい、その所在を明らかにするのが怖いのだ。
そんな気持ちでの十年は、柚子にとって、どんな十年間だったのだろう。
それを想うだけで、千代は胸が苦しくなった。
自分にとっては、みっくんとの恋も、そしてその後、専門学校で同期だった男との一年間の付き合いも、過去の甘酸っぱい恋愛で、今はもう、思い出として消化されている。でも、柚子にとっての水上君は、たぶん違うのだろう。それは高校時代、まだ若くてフレッシュで浅はかだった私も、何となく感じていた。柚子と水上君の関係は、青春の一ページと言うにはあまりにも命がけで、二人の空間はまるで、シェイクスピアの世界だった。
吹っ切れたような柚子の顔に、千代も笑みを浮かべ、もう一回乾杯しようかと明るくそう提案した。運ばれてきた赤ワインに「柚子の新しい出発に」と、軽くグラスを掲げる。
そうしてワインを飲む瞬間、千代は、一瞬ぐっと、目を瞑った。
――ごめんね、水上君。
心の中で叫び、その懺悔とともに、千代は一息でグラスのシラーを飲み欲した。
平和島のだだっ広い、片側四車線の道沿いに、愛理は車を止めた。フィアットの十数年物である。ギギギっと、サイドブレーキを強くひいて、エンジンを切った。「あー」と、肺にたまった鬱憤を晴らすようなため息をつき、ハンドルの縁に額を乗せる。
愛理はしばらくそのまま目を閉じていたが、グオーンと、十トントラックが発するディーゼルエンジンの音と振動に、頭を座席のヘッドレストに戻した。飛ばしてきたせいか、首筋が熱い。
一度深く呼吸をしてみても、むずむずと、体が落ち着かない。愛理はシートベルトを外し、頬や額を掌で撫でまわして頭を掻いた。それから、後部シートに手を伸ばしてトレンチコートを引っ掴むと、そのままドアを開けて外に出た。
車から出た愛理は、コートを着て、閉めたドアに寄りかかった。
十一月末の夜の寒さが、少しずつ愛理の身体を冷やした。
ダボっとしたズボンのポケットから、携帯端末を引っ張り出し、画面を見る。
時刻は八時を少し過ぎていた。
今頃新見先輩は、どんな気持ちでいるだろうか。
そう考えて、愛理はぶんぶんと首を振った。
気持ち――何が気持ちだ、と愛理は思った。もし落ち込んでいたらどうだというのだ。友人に裏切られたと思って、悲しんでいるかもしれない。でもそれが何だ。今更自分は、〈良心〉なんてものを持ち出そうとしているのだろうか。
「あぁー、もう、馬鹿!」
愛理は思い切り叫んだ。
愛理の声は反響もせず、ただ広い空間に吸い込まれて消えていった。
「馬鹿ぁああああ!」
もう一度思い切り叫ぶ。
しかしそんな事をしても、道の向こうに止まっているトラックの運転手さえ振り向かせることはできない。愛理は目を閉じたまま空を仰いだ。白い息を吐き出して、目を開く。星も月も出ていない夜空が、ただぼうっと、広がっている。
電話が鳴った。
コートから携帯端末を取り出して電話に出る。
相手は、表示を見なくてもわかった。
『おう、どうだった?』
堀田の声だ。
愛理は一度咳払いをして、明るいいつもの、ふざけたような口調で言った。
「いやぁ、ダメでしたねぇ。やっぱりガード固かったです」
電話の向こうで、少し沈黙があった。
愛理は、電話を耳元にやったまま、俯いた。
『いや、掴めたんだろ。面倒なやり取りは無しにしようや』
堀田の確信めいた口調は、しかし愛理にとっては、意外ではなかった。きっと堀田は、自分と新見先輩の関係を、とうに調べ上げていたのだろう。最初から、そんな直感はあった。それでも同窓会に進入したのは、新見先輩に会いたかったからなのか、それとも、記者としての性分がそうさせたのかわからない。
「友達は売れないって言ったら、堀田さんどうしますか」
愛理はそう言ってみた。
喚き散らすか、怒鳴るか、説教か――どれにしても、聞く気はないけれど。
『まぁ、そう言うだろうな』
堀田は、笑うでもなくそう言った。
愛理も、怒るでもなく堀田に言った。
「やっぱり知ってたんですね」
『いや、勘だよ。新見の話題が出るとお前、妙に余所余所しくなるだろ。それでピンときた』
愛理はため息をつき、今しがた通り過ぎた車のテールライトを目で追った。
「……アナウンサーのゴシップなんて、何になるんですか。誰と付き合っていようが、別に、いいじゃないですか、どうだって。相手に婚約者がいたから、何だって言うんですか」
『何いじけてんだよ、お前』
「――堀田さんなんて、ゴキブリ以下です」
愛理がそう言うと、帰ってきたのは、ガッハガッハという大きな笑い声だった。
『お前な、そりゃ、ゴキブリに失礼だろうが』
愛理はそんな返事を聞いて、思わず小さく笑ってしまった。
『お前知ってるか。ゴキブリだってウジムシだって、なんとかって寄生虫だってな、当人たちはそんなつもりはないだろうが、食物連鎖の循環に一役買ってるんだ。――別に、俺たちが益虫だって言ってるわけじゃないけどな……害虫は害虫なりの流儀があるんじゃないのか、どうだ』
愛理は反動をつけて車から体を離し、広々とした車道の真ん中に歩いて出た。
「何が流儀ですか、カッコつけて。堀田さんの説教なんて、犬も食いませんよ。……沖って名前の変態も、私、大っ嫌いです。芸能人も政治家も社長も、皆大っ嫌いです」
電話の奥で、堀田が笑った。
愛理は、道の遠くに灯る青信号を睨みつけた。
――堀田との電話の後、愛理は車に戻った。車体を支えにして、もう一度空を見上げる。すると、倉庫の赤いランプよりはるか上空、真っ暗な曇り空の片隅に、白いぼんやりした明かりが微かに出ていた。
その明かりに向かって、愛理は大声で言った。
「なんで先輩と別れちゃったんですかぁああああ!」
明りはすぐに厚い雲に覆われて見えなくなった。
愛理は一つため息を零し、コートを助手席に放り投げて車を出した。
十一月の最後の日、金曜日の昼過ぎ。詩乃は店長の清彦に連れられて、北千住駅前のステーキハウスにやってきていた。二人とも、仕事終わりである。この日も詩乃は、急遽人が足りなくなった〈とろたま〉の十時から十四時までの第二シフトに入っていた。
詩乃は席に着くと、何度もため息を繰り返し、メニューを見ながらうとうとし始めた。この日も詩乃は、寝たのは早朝の六時過ぎで、清彦からの電話で起こされた。いつもなら、二時過ぎはまだ寝ている時間である。
「寝不足?」
「はい」
半分目を瞑ったまま、詩乃は応えた。
それでも何とかサーロインステーキのランチセットを注文した。
「そういえば、聞いたぞ。前川といい感じなんだって?」
詩乃は目を擦った。
「一回食事行っただけですよ」
「いやぁ?」
自分を怪しむ清彦の妙な声とスケベな表情に、詩乃は肘をついて微かに笑った。
「あの子は苦手です」
「可愛いじゃん。まぁちょっとキツい所あるけど」
詩乃は目を瞑って、肘をついたまま頷いた。
やっぱり変わった奴だなと、清彦は思った。
「お前、彼女いないんだろ?」
清彦の質問に、詩乃は目を開けた。
「試しに付き合ってみたら?」
「いやぁ……」
「なんで、もったいない。――あいつ絶対、お前に気があるよ。最近特にさ。気づいてる?」
詩乃はまたため息をついた。
麻美のことも、恋愛のことも、詩乃にはどうでも良かった。執筆の足を引っ張るすべてのものが、今は煩わしかった。構想を練っていよいよ書こうと思うと、その作品がくだらないものに思えてきて、途端に興味を失ってしまう。そんなことの繰り返しに、詩乃は苛立っていた。
「気のせいじゃないですか」
「気のせいじゃないって!」
清彦は、実のところ、麻美から直接、詩乃への気持ちを聞いて知っていた。詩乃のことを色々聞いてこようとするので、不審に思って清彦が逆に質問したのだ。すると麻美は、あっけなく詩乃への好意を明かした。「好き」とは言わなかったが、「少しだけ興味がある」と言っていた。
肉とスープと白飯が運ばれてきた。
熱せられたプレートの上で、肉がジュージューと音を立てている。
その匂いと音で、詩乃も少し目を覚ました。腹は減っていた。
「彼女欲しくないの?」
「今はいりません」
「じゃあいつならいいの」
肉を喰う合間に言葉を交わす。
詩乃は白飯を咀嚼しながら返答を考えた。麻美のことはともかく、清彦には世話になっている。自分の言うことを理解してくれるとも思えないが、かといって、誤魔化すのも違うような気がした。
「……作家でデビューできたら、そっちの方は考えます」
「作家? え、詩乃って作家になりたいの!?」
「はい」
詩乃は短く応え、肉を口に運んだ。
作家のことは、清彦は初耳だった。しかし清彦は、詩乃が高校時代文芸部だったと言っていたのを思い出した。
「あぁ、そうだったのか……作家かぁ……」