海月のクオーツ(3)
受付開始の二時間前に会場にやってきた柚子は、一番乗りだった。
ホテルの会場スタッフの仕事を手伝いながら、打ち合わせをし、そのうち、幹事補佐をやってくれていた元同級生も一人、二人と会場にやってきた。連絡はずっとメールと電話だけでのやり取りだったので、顔を合わせた瞬間、柚子も元同級生も、飛び跳ねて喜んだ。在学中はあまり接点のない間柄でも、十年ぶりに会うと、懐かしさが込み上げてくる。
幹事補佐の一人は長江匠で、背広を着た匠の姿が会場に現れると、柚子は嬉しくて、表情筋が痛くなるほどの笑顔になった。
匠はダンス部で、柚子と三年間一緒だった。大雑把に見えて細かいことを言うので、千代はそれを鬱陶しがっていたが、柚子は、匠の神経質ともいえるような性分を好ましく思っていた。
「おぉ、皆久しぶりだな」
三百人入るホールいっぱいに響く豪快な声で匠が言った。
高校生当時より、一回りか二回り、大きくなっていた。もともと肩幅は広かったが、それに加えて胸板が厚くなり、そして腹にも立派な脂肪がくっついている。
「タク君久しぶり! なんか、大きくなったね」
タク君、と当時の呼ばれ方をされて、匠は顔がにやけるのをくすぐったそうに顔をしかめて誤魔化した。十年――なんて時間が嘘のように、互いに一瞬で当時の心に戻った気がした。
「順調に成長してるよ」
ぽんぽんと、匠は出始めた自分の腹をぽんぽんと叩いた。
「新見さんは、今朝見たばっかだからな」
匠の言葉に、そうだよねと他の同級生が笑いながら相槌を打つ。
匠は今は鹿児島に転勤していて、今日は朝から飛行機と電車でやってきた。柚子の〈さんサタ!〉は、機内のテレビで見ていた。
匠に遅れて幾人か、元ダンス部の部員が会場の入り口にちらちらと姿を見せた。
「あれ、メグちゃん!? ――と、ケイ君?」
柚子は目ざとく二人を見つけた。
幹事でもないのに勝手に入っていいものかと躊躇っていた二人は、しかし柚子に呼ばれたので、開けっ放しの入口から会場に入ってきた。
メグちゃんこと須田恵は、当時より顔立ちがシャープになってキリっとして見える。春を連想させる膨張色のワンピース姿がしまって見える。多賀啓は、相変わらず寝癖のような無造作な髪に、笑うと笑顔がくしゃりとすぼまって、当時よりもより少年らしさが目立つようになった。服も、ジーンズ、白シャツ、革ジャンというワイルドな格好。柚子は啓とは今年の一月――千代の結婚式で会っていたが、その時よりも少年らしい。
「柚子ぅ、久しぶりぃ!」
恵は柚子と両手を組んで、再会を喜び合った。
恵も匠も、千代の結婚式には来られなかったので、柚子も卒業以来会っていなかった。恵が自衛官として働いているということは、千代から聞いて知っていたが、実際に会ってみると、たしかに顔つきも体つきもそれらしい。
――が、なんだかメグちゃんも、ケイ君も顔が赤いなと、柚子は首を傾げた。
柚子の疑問を感じ取って、匠が言った。
「一緒に飲んでたんだよ」
匠の顔も、目のあたりが少し赤い。疲れのせいかと柚子は思っていたが、どうやら違ったらしい。
「なんでもう飲んでんのさ。出来上がってるって事?」
全くもう、といった調子で、幹事補佐の一人が言った。ちょっとエネルギー入れただけだよと啓が言って、皆を笑わせた。参加者のリストに三人分の追加チェックを入れ、柚子は左手首の内側を微かに傾け、時間を確認した。皆も、それとなく柚子の腕時計を見る。
へぇ、カルティエじゃないんだ――と、柚子の腕時計を見て、何人かは内心そう思った。
革のストラップの丸型時計。柚子の手首には随分と大きい。白い文字盤に金色のケース。秒針も金色で、シンプルなバー型のインデックス。文字盤の下のムーンフェイズの夜空には三日月が出ている。
「新見さん、マイクテストのお願いしていいですか」
設営スタッフが柚子のもとにやってきて言った。
はい、と柚子は応え、設営スタッフに連れられてステージの方に移動した。マイクを持ち、「――本日はお忙しい中ご来場いただき、誠にありがとうございます」と、音響のテストを始める。その声を聞いて、匠をはじめ、その場にいた同級生たちは、柚子が本物のアナウンサーなのを改めて認識させられた。
落ち着いた柔らかい声。一音一音の輪郭がはっきりしていて、聞き取りやすい。柚子の喉からその声が発せられているとは思えず、一瞬皆、録音を流しているのかと思った。
「やっぱりすごいね、アナウンサーって。プロだね」
恵が言った。
「――会場外での飲食はご遠慮ください。会場内、敷地内は禁煙となっておりますので、喫煙は会場の外にあります喫煙ルームをご利用ください」
――マイクテストを終えた柚子は、司会のための衣装に着替え、会場に戻った。
ダークエメラルドのパーティードレスに生地のしっかりしたボレロを羽織る。柚子のその姿の美しさに、元同級生たちは見惚れてしまった。
受付が始まる三十分前あたりから、参加者が続々とホテルにやってきた。ロビースペースが混雑する前に、ホテルスタッフによって受付が、予定時刻より早めに始まった。受付を終えた七十六期卒業生たちは、上着をコート置き場のハンガーにかけ、会場に入った。
皆、二十八歳の年。
もうすっかり大人だった。
しかし皆、この会場に入り、かつての同級生の顔を見て、言葉を交わすと、その一瞬で童心に帰った。自分の「素」を隠す術をまだ知らなかった高校時代。当時の友人たちを前にすると誰も彼もが、今更フォーマルの仮面をつけてもしょうがない、と思うのだった。肩ひじを張ったところで、あいつも、あいつも、皆、子ども時代の自分を知っている。格好つけたってしょうがない、そういう気分になる。
遅刻の常習犯が今では教員になっていたり、公務員をやめて役者をやっている女の子がいたりする。父親の跡を継いで工務店の社長になった男の子は、自分より年上の職人たちが言うことを聞かなくて苦労が絶えないという話をしている。児童館職員の仕事の傍ら絵本を書いているというのは、高校時代の匠の彼女である。
柚子は受付とホールを行き来しながら、元同級生たちにできるだけ声をかけた。当時の面影の残っている人もいれば、全くわからない人もいた。それでも皆、柚子の事は知っていたので、柚子に話しかけられると、男も女も、緊張と興奮の入り混じった反応を示した。
「柚子、久しぶり」
柚子を見つけて声をかけたのは、川野だった。高校一年生の時、二か月ほど柚子と付き合ったことがあった男である。当時は野球部に所属していた。骨格がしっかりしているので、スーツが良く似合っている。しかしその目には、当時のギラつきはなかった。目じりにしわが刻まれている。
「川野君! 久しぶり!」
柚子は、その人物が川野とすぐにわかった。
川野はばつの悪そうな笑いを浮かべ、頭を掻いた。
「本当に久しぶりだね……まだ野球やってるの?」
人懐こいころころした声で聞かれて、川野は、当時柚子が好きだった自分の気持ちを思い出した。自分が野球部だったことはおろか、名前も、存在自体、忘れられているのではないかと思っていた。
「まぁたまに。遊びでね」
そっか、と柚子は嬉しそうに笑う。
――今、何やってるの。
次の質問は、それと決まっていた。しかし柚子は、その質問をしなかった。川野も自分から、今の仕事を言うのを躊躇った。後ろ暗い仕事をしているわけでは決してない。今は、ジムでパーソナルトレーナーをしながら、週に二日は、地元の高校野球部に、外部指導員兼トレーナーとして、活動に参加している。しかし柚子を前にすると、胸を張ってそれを言えない卑屈な気持ちが湧いて出てくる。
「川野君、昔より筋肉ついたね」
「あぁ、うん。筋トレが仕事みたいなもんだから」
「そうなんだぁ」
と、柚子が興味をそそられたような相槌を返す。
それでも川野は、自分の仕事について、話そうと決心がつかなかった。
「やっぱりスーツは、筋肉あると似合うよね。川野君、似合ってるよ」
川野は照れ笑いを浮かべた。
昔から、柚子は人の好い所を褒めるのが上手い。今も変わらないなと川野は思った。
川野の野球部の友人が三人、二人のもとにやってきた。柚子はその三人とは在学中は接点も無かったが、その三人とも、言葉を交わした。皆、相手が柚子だと、話題づくりもしやすかった。番組の話をすれば、それは天候の話題よりも良い挨拶になる。
「――じゃあ川野君、今日は楽しもうね。お酒もたくさん用意してくれてるみたいだから」
そう言って柚子は、川野とその友人たちの会話の輪から離れた。
そうして次の誰かに話しかける。
柚子が誰かに話しかけると、それをきっかけに、そこにちょっとした人の輪が出来上がる。参加者も、続々と会場に増えてきた。開演十分前、そろそろ一度全体にアナウンスを入れようと、柚子は時計を見て立ち止まった。
ホールを見渡せば、かつての同級生たちが、互いの再会を喜び合っている。
――参加率すごいね。新見さんが幹事だからだよ。
幹事補佐をやってくれた一人の言葉を思い出す。
そうだったらいいな、と柚子は思った。そうだとしたら、私は、居て良かったんだと思える。何人かは、誰も連絡先を知らずに、招待状すら送れていないけれど。
「柚子!」
人の輪と輪の間から、黒シャツにカーキ色のレザースカートを穿いた女性が柚子の前に現れた。微かに茶色に染まったフレアパーマの一つ結い。シャツのボタンに眼鏡をひっかけている。
――千代だ!
柚子は心の中で叫んだ。
会えるのはわかっていた。名簿を管理していたのだから。
しかし柚子は、千代の顔を見ると、息が止まるような感動を覚えた。