表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
星の海で遊ばせて  作者: ノマズ
5,この空が崩れ落ちても
181/243

海月のクオーツ(1)

「お前ちょっと、新見にあたってくれねぇかな」


 ゴトンゴトンと、電車の走る振動が今にも壁を崩しそうなもつ煮屋。壁のお品書きは、黄ばみがひどく何が書いてあるのかよく見えない。誰かのサイン色紙がその中に紛れているが、誰のサインなのかもよくわからない。


 カウンターテーブルの一番隅に、愛理は座っていた。その隣には堀田がいて、その堀田は、同窓のよしみで新見柚子のことを調べてくれと愛理に頼んでいた。愛理は、もつ煮の汁を口に含みながら、ぶすっと顔をしかめていた。


「――それ、堀田さんの個人的な趣味ですか? 気持ち悪いですよ」


「馬鹿野郎、仕事の話だよ」


 ずるずるっと、愛理は汁を啜り、泥のようなその汁に視線を落としながらぼそっと聞いた。


「そんな仕事、堀田さんやってましたっけ。聞いてないですけど」


 すると堀田は応えた。


「一々お前に話すわけねぇだろ。……まぁ、今回は俺の仕事じゃねぇよ。〈スマッシュ〉の沖って奴、知ってるか?」


「あぁ、堀田さんの仲間でしたっけ。アイドルばっかり追いかけてる変態」


「まぁ、そいつだよ。俺の仲間じゃねぇけど……」


「一緒に女子アナで一儲けって話があるんですか?」


 今日は随分つっかかるなと思いながら、堀田はレモンサワーを喉に流し込んだ。


「沖に貸しを作りたいんだ」


 なるほど、と愛理は顔をしかめ、残りのもつ煮を一気に、飲み込むように平らげた。


「お兄さん、お代わりくださーい。あ、冷ややっことヒレ酒も」


 お兄さん、と愛理に言われた年配の店主は、笑いながら、「はいよ」と愛理の差し出した空のどんぶりを受け取った。


「その沖って人、新見アナを追ってるんですか?」


 つまらなさそうな口調で、愛理は堀田に訊ねた。


 堀田は、鼻下の無精ひげをじょりじょりと撫でて悩んで見せ、それから苦しげに答えた。


「もうじきデカいのが出る。――つってもまぁ、ありがちな女子アナのスキャンダル報道だけどな」


「新見アナのですか?」


 そうだよ、と言いながら、堀田は鬱陶しそうに懐から煙草を取り出して、火を点けた。


「へぇ、新見アナにもスキャンダルなんてあったんですね。不倫ですか? それとも何か、エグい写真が出て来たとか」


 煙草を吸って、煙を吐いて笑いながら堀田が言った。


「それだったらもっと良かったろうけどな――略奪愛だよ」


「略奪愛、ですか?」


「今あいつ、〈N・ドーベル〉のCEOと関係があるらしい」


 愛理も、その会社の名前は知っていた。サイバーセキリティーの分野で出てきた新興企業だ。去年、〈週間ワイディー〉でITベンチャーの若社長を特集した企画があり、そこに〈N・ドーベル〉の会社の名前もあった気がする。


「ヒルズ族ですか」


「ヒルズ住み、栖常明って男だ。三十三歳、東大出のエリート。愛車はジャガー。今年になって、宝石ブランドをいくつか買収した。自家用機も購入予定。――今年の十月から、テレビ城東のスポンサーにもなった」


 にたりと、堀田が油っぽい笑みを浮かべた。


 愛理は、堀田の顔から、沖という記者が柚子についてどういう記事にするのか、その筋書きがわかったような気がした。


「略奪愛っていうのは、何ですか? 不倫でもなく」


「そりゃあ、お前から言質取るまでは教えられねぇよ」


「言質って、新見アナに近づいて何かを聞き出すっていうことですか」


「あぁそうだ」


 愛理は、もつ煮のたっぷりと入ったどんぶりを受け取り、それに七味を振りながら言った。


「女子アナの浮気記事なら、もうそれで出しちゃえばいいじゃないですか」


「浮気じゃない」


「じゃあ不倫ですか?」


 言い淀む堀田を尻目に、愛理は蓮華に掬ったモツと、どろどろの野菜の溶け込んだ汁を息で冷ました。堀田が何も言わないので、愛理はそれならこっちも言うことは無いと、蓮華の中身を口に入れた。


「婚約者がいるんだよ」


 堀田が言った。


「IT長者の方にですか?」


「あぁ。幼馴染だ。六渡商事のキャリア組で、三年前からルアンダにいる」


「ルアンダって、アンゴラですか?」


「あぁ」


 突然ルアンダと言われても、愛理はピンと来なかった。とはいえ愛理も記者の端くれとして、アンゴラの経済成長については、その数字を朧気ながら知っていた。大手商社の幹部候補なら、新規開拓のために海外赴任は出世コースだろう。


「でもそれ、本当ですか? 遠い国の話だからって、適当言ってるんじゃ――」


「相手の名前は井戸栞。一昨日帰国した沖が言ってたんだ、間違いないだろう」


「帰国って……――行ったんですか、ルアンダに」


「あぁ。土産にワイン貰ったよ。六渡商事の扱ってる商材の一つだってさ」


 やっている報道の下品さはともかく、〈週刊スマッシュ〉の取材力はすごいと、業界内では有名な話だったが、その執念に改めて愛理は呆れてしまった。女子アナのスキャンダルなんて、せいぜい数日のうちに消費しつくされて、半年後には誰も覚えていない。そんなもののためによくやるもんだなぁと、愛理は思った。


「会えたんですか? その、井戸さんには」


「手厚くもてなされたってよ」


「本当に、婚約してたんですか?」


「本人がそう言ってる」


「本人って、井戸さんが?」


 あぁ、と堀田は頷いた。


 愛理は、ずるずるっと蓮華でもつ煮を掻き込んだ。


 口の中のものをごくっと無理やり呑み込んで、愛理は堀田に言った。


「いやでも、男の方にも聞かないとわからないじゃないですか。言ってるだけかもしれないし」


「お前な、素人臭いこと言うなよ。疑惑で充分なんだよ。別に、金持ちと商社ウーマンの恋愛事情なんてどーだっていい。世間が興味を持つのは、新見だ。あの清純派で売る新見柚子が、裏では婚約者のいる男を奪おうとしていた――」


「奪おうとしているとは限りませんよ。そんな、アンゴラに三年もいる人の事、男の方が言わなきゃ知らないんじゃないですか」


 堀田は煙草を灰皿に押し付け、二本目に取り掛かった。


 その間に愛理も、自分が感情的になっているのに気づき、頭を冷やした。


 愛理は一息ついて、エイひれの熱燗を啜る。


「――私に何を協力してほしいんですか、そこまでウラ取れてて」


「決定的な一枚がほしいらしい」


 愛理は、冷ややっこにしょうがをのせ、ポン酢をかけながら思考を巡らせた。話からして、もう、柚子と明のツーショットくらいは撮れているのだろう。しかし、〈略奪愛〉というコピーと筋書きにするのには、相当インパクトのある写真でなければ読者は納得しない。並んで歩くツーショットくらいでは、沖というその記者は満足しないのだろう。しかしスクープは生ものだ。同業のライバルより早く出さなければならない。


「十二月三日、新見柚子の誕生日だろう」


「へぇ、そうなんですか、詳しいですね」


 じとっとした目で愛理は堀田を見て言った。


「その日、栖常の奴、夕方に予定を入れてる」


「その予定が、新見アナとのデートってわけですか」


「沖も俺もそう考えてる。――そういう特別な日ってのは、気は緩まなくても、特別なことをしたくなるもんだ。下半身もうずくだろ?」


 愛理はくいっと酒を煽って言った。


「その男が、うずくほどのモノを持ってればそうかもしれませんね」


 カッカッカと、堀田は笑った。


「十二月三日の予定――どこで会うことになってるのか、聞き出してくれよ」


「友達でもない人間にそんな予定を教えるほど無防備だと思います?」


「今週土曜日、茶ノ原高校の同窓会がある」


 堀田はそう言うと、内ポケットから四枚に折りたたまれた紙を取り出し、それを愛理に渡した。愛理はそれを受け取り、広げた。


 同窓会の招待状だった。


 卒業十年目の学年同窓会。時間と場所も、しっかり表記されている。


 どうして堀田さんがこれを、と愛理は今更驚かなかった。方法なんていくらでもある。


「お前、卒業生なんだから、ここで近づけるだろ」


「二年後輩ですけどね」


「馬鹿、そんなの問題になるか」


 愛理は口を結んだ。


 何かや誰かに成りすました取材は、それこそ日常茶飯事的に行っている。ターゲットの行きつけの店に毎日服装を変えて張り込んだり、身分を偽って電話をかけたり。そんな取材に比べれば、同窓会くらい、何てことはない。堀田の言う通り、『そんなの問題になるか』だ。


 しかし愛理も、堀田の図々しさに押し込まれる気はなかった。


「でもそれ、私に旨味あるんですか?」


「今まで通り、週一でタダ飯にありつける」


 あっはっはっはと、愛理は笑った。


 堀田も笑う。


 笑いながら愛理は言った。


「寝言は寝てから言ってくださいよ。堀田さんはその沖って人から、美味しいネタなり人脈なりを手に入れるんでしょ。だったら、私にもくださいよ」


「何が欲しいんだよ」


「柳下先生の連載、私にください」


 おいおい、と堀田は煙草の煙を払った。柳下の連載を取ってきたのは堀田だったが、柳下光秀という作家は若手でもなければ、人気作家でもない。今時流行らない時代劇――しかも人情物という、斬った斬られたすらない小説を書く物書きだ。一本は時代劇を入れたいという上の考えから、その仕事を押し付けられた。ゴネても仕方が無いので、文芸雑誌者の友人から幾人か候補を貰い、最終的に柳下に決めた。締め切りをしっかり守るという執筆スタイルが決め手になった。新人でもないので、作品作りにこっちが労力をかける必要もない。


 しかし、そんな仕事とはいえ、柳下も小説家らしく気難しい人物で、連載を頼むのにはそれなりに苦労はした。それを、入社四年目の小娘にどうぞと渡すのも堀田には癪だった。


「お前、時代小説に興味なんてないだろ」


「案外詳しいですよ。堀田さんこそ、山本周五郎読みました?」


「……」


「それに、興味がどうとか、それこそ堀田さん興味ないでしょ。記者の興味なんてどうでもいい、堀田さん、よく言うじゃないですか」


 堀田は舌打ちの様な音を鳴らして、歯に挟まっていた小葱の残骸を取った。


「俺が受けた仕事だぞ」


「堀田さん、編集長と仲良いじゃないですか。それに、柳下先生の担当、堀田さんがオッケーなら変えても別にいいって言ってましたよ」


「五十嵐が?」


「はい」


「マジかよ」


 堀田は煙草を灰皿に押し付け、ぐしゃぐしゃと頭を掻いた。


 愛理はヒレ酒をもう一杯、店の主人に頼んだ。


「というかお前、そんな話、五十嵐としてたのかよ」


「やりたい仕事あったら、ふつう掛け合うじゃないですか」


「お前本当に連載小説の担当なんかやりたいの? なんで?」


「説明なんてできませんよ。本当に大事なことは言葉じゃないって思いません?」


 愛理の態度に揺るがないものを感じ、堀田はため息をついた。


「――じゃあ新見の情報、取ってこい。十二月三日、夜、どこにいるのか」


「そんな、鼻息荒くしないでくださいよ。下衆がうつります」


 愛理は、カウンターの上に出しっぱなしにしていた同窓会招待状のコピーを、折りたたんでジーンズのポケットに入れた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ