海月のクオーツ(1)
「お前ちょっと、新見にあたってくれねぇかな」
ゴトンゴトンと、電車の走る振動が今にも壁を崩しそうなもつ煮屋。壁のお品書きは、黄ばみがひどく何が書いてあるのかよく見えない。誰かのサイン色紙がその中に紛れているが、誰のサインなのかもよくわからない。
カウンターテーブルの一番隅に、愛理は座っていた。その隣には堀田がいて、その堀田は、同窓のよしみで新見柚子のことを調べてくれと愛理に頼んでいた。愛理は、もつ煮の汁を口に含みながら、ぶすっと顔をしかめていた。
「――それ、堀田さんの個人的な趣味ですか? 気持ち悪いですよ」
「馬鹿野郎、仕事の話だよ」
ずるずるっと、愛理は汁を啜り、泥のようなその汁に視線を落としながらぼそっと聞いた。
「そんな仕事、堀田さんやってましたっけ。聞いてないですけど」
すると堀田は応えた。
「一々お前に話すわけねぇだろ。……まぁ、今回は俺の仕事じゃねぇよ。〈スマッシュ〉の沖って奴、知ってるか?」
「あぁ、堀田さんの仲間でしたっけ。アイドルばっかり追いかけてる変態」
「まぁ、そいつだよ。俺の仲間じゃねぇけど……」
「一緒に女子アナで一儲けって話があるんですか?」
今日は随分つっかかるなと思いながら、堀田はレモンサワーを喉に流し込んだ。
「沖に貸しを作りたいんだ」
なるほど、と愛理は顔をしかめ、残りのもつ煮を一気に、飲み込むように平らげた。
「お兄さん、お代わりくださーい。あ、冷ややっことヒレ酒も」
お兄さん、と愛理に言われた年配の店主は、笑いながら、「はいよ」と愛理の差し出した空のどんぶりを受け取った。
「その沖って人、新見アナを追ってるんですか?」
つまらなさそうな口調で、愛理は堀田に訊ねた。
堀田は、鼻下の無精ひげをじょりじょりと撫でて悩んで見せ、それから苦しげに答えた。
「もうじきデカいのが出る。――つってもまぁ、ありがちな女子アナのスキャンダル報道だけどな」
「新見アナのですか?」
そうだよ、と言いながら、堀田は鬱陶しそうに懐から煙草を取り出して、火を点けた。
「へぇ、新見アナにもスキャンダルなんてあったんですね。不倫ですか? それとも何か、エグい写真が出て来たとか」
煙草を吸って、煙を吐いて笑いながら堀田が言った。
「それだったらもっと良かったろうけどな――略奪愛だよ」
「略奪愛、ですか?」
「今あいつ、〈N・ドーベル〉のCEOと関係があるらしい」
愛理も、その会社の名前は知っていた。サイバーセキリティーの分野で出てきた新興企業だ。去年、〈週間ワイディー〉でITベンチャーの若社長を特集した企画があり、そこに〈N・ドーベル〉の会社の名前もあった気がする。
「ヒルズ族ですか」
「ヒルズ住み、栖常明って男だ。三十三歳、東大出のエリート。愛車はジャガー。今年になって、宝石ブランドをいくつか買収した。自家用機も購入予定。――今年の十月から、テレビ城東のスポンサーにもなった」
にたりと、堀田が油っぽい笑みを浮かべた。
愛理は、堀田の顔から、沖という記者が柚子についてどういう記事にするのか、その筋書きがわかったような気がした。
「略奪愛っていうのは、何ですか? 不倫でもなく」
「そりゃあ、お前から言質取るまでは教えられねぇよ」
「言質って、新見アナに近づいて何かを聞き出すっていうことですか」
「あぁそうだ」
愛理は、もつ煮のたっぷりと入ったどんぶりを受け取り、それに七味を振りながら言った。
「女子アナの浮気記事なら、もうそれで出しちゃえばいいじゃないですか」
「浮気じゃない」
「じゃあ不倫ですか?」
言い淀む堀田を尻目に、愛理は蓮華に掬ったモツと、どろどろの野菜の溶け込んだ汁を息で冷ました。堀田が何も言わないので、愛理はそれならこっちも言うことは無いと、蓮華の中身を口に入れた。
「婚約者がいるんだよ」
堀田が言った。
「IT長者の方にですか?」
「あぁ。幼馴染だ。六渡商事のキャリア組で、三年前からルアンダにいる」
「ルアンダって、アンゴラですか?」
「あぁ」
突然ルアンダと言われても、愛理はピンと来なかった。とはいえ愛理も記者の端くれとして、アンゴラの経済成長については、その数字を朧気ながら知っていた。大手商社の幹部候補なら、新規開拓のために海外赴任は出世コースだろう。
「でもそれ、本当ですか? 遠い国の話だからって、適当言ってるんじゃ――」
「相手の名前は井戸栞。一昨日帰国した沖が言ってたんだ、間違いないだろう」
「帰国って……――行ったんですか、ルアンダに」
「あぁ。土産にワイン貰ったよ。六渡商事の扱ってる商材の一つだってさ」
やっている報道の下品さはともかく、〈週刊スマッシュ〉の取材力はすごいと、業界内では有名な話だったが、その執念に改めて愛理は呆れてしまった。女子アナのスキャンダルなんて、せいぜい数日のうちに消費しつくされて、半年後には誰も覚えていない。そんなもののためによくやるもんだなぁと、愛理は思った。
「会えたんですか? その、井戸さんには」
「手厚くもてなされたってよ」
「本当に、婚約してたんですか?」
「本人がそう言ってる」
「本人って、井戸さんが?」
あぁ、と堀田は頷いた。
愛理は、ずるずるっと蓮華でもつ煮を掻き込んだ。
口の中のものをごくっと無理やり呑み込んで、愛理は堀田に言った。
「いやでも、男の方にも聞かないとわからないじゃないですか。言ってるだけかもしれないし」
「お前な、素人臭いこと言うなよ。疑惑で充分なんだよ。別に、金持ちと商社ウーマンの恋愛事情なんてどーだっていい。世間が興味を持つのは、新見だ。あの清純派で売る新見柚子が、裏では婚約者のいる男を奪おうとしていた――」
「奪おうとしているとは限りませんよ。そんな、アンゴラに三年もいる人の事、男の方が言わなきゃ知らないんじゃないですか」
堀田は煙草を灰皿に押し付け、二本目に取り掛かった。
その間に愛理も、自分が感情的になっているのに気づき、頭を冷やした。
愛理は一息ついて、エイひれの熱燗を啜る。
「――私に何を協力してほしいんですか、そこまでウラ取れてて」
「決定的な一枚がほしいらしい」
愛理は、冷ややっこにしょうがをのせ、ポン酢をかけながら思考を巡らせた。話からして、もう、柚子と明のツーショットくらいは撮れているのだろう。しかし、〈略奪愛〉というコピーと筋書きにするのには、相当インパクトのある写真でなければ読者は納得しない。並んで歩くツーショットくらいでは、沖というその記者は満足しないのだろう。しかしスクープは生ものだ。同業のライバルより早く出さなければならない。
「十二月三日、新見柚子の誕生日だろう」
「へぇ、そうなんですか、詳しいですね」
じとっとした目で愛理は堀田を見て言った。
「その日、栖常の奴、夕方に予定を入れてる」
「その予定が、新見アナとのデートってわけですか」
「沖も俺もそう考えてる。――そういう特別な日ってのは、気は緩まなくても、特別なことをしたくなるもんだ。下半身もうずくだろ?」
愛理はくいっと酒を煽って言った。
「その男が、うずくほどのモノを持ってればそうかもしれませんね」
カッカッカと、堀田は笑った。
「十二月三日の予定――どこで会うことになってるのか、聞き出してくれよ」
「友達でもない人間にそんな予定を教えるほど無防備だと思います?」
「今週土曜日、茶ノ原高校の同窓会がある」
堀田はそう言うと、内ポケットから四枚に折りたたまれた紙を取り出し、それを愛理に渡した。愛理はそれを受け取り、広げた。
同窓会の招待状だった。
卒業十年目の学年同窓会。時間と場所も、しっかり表記されている。
どうして堀田さんがこれを、と愛理は今更驚かなかった。方法なんていくらでもある。
「お前、卒業生なんだから、ここで近づけるだろ」
「二年後輩ですけどね」
「馬鹿、そんなの問題になるか」
愛理は口を結んだ。
何かや誰かに成りすました取材は、それこそ日常茶飯事的に行っている。ターゲットの行きつけの店に毎日服装を変えて張り込んだり、身分を偽って電話をかけたり。そんな取材に比べれば、同窓会くらい、何てことはない。堀田の言う通り、『そんなの問題になるか』だ。
しかし愛理も、堀田の図々しさに押し込まれる気はなかった。
「でもそれ、私に旨味あるんですか?」
「今まで通り、週一でタダ飯にありつける」
あっはっはっはと、愛理は笑った。
堀田も笑う。
笑いながら愛理は言った。
「寝言は寝てから言ってくださいよ。堀田さんはその沖って人から、美味しいネタなり人脈なりを手に入れるんでしょ。だったら、私にもくださいよ」
「何が欲しいんだよ」
「柳下先生の連載、私にください」
おいおい、と堀田は煙草の煙を払った。柳下の連載を取ってきたのは堀田だったが、柳下光秀という作家は若手でもなければ、人気作家でもない。今時流行らない時代劇――しかも人情物という、斬った斬られたすらない小説を書く物書きだ。一本は時代劇を入れたいという上の考えから、その仕事を押し付けられた。ゴネても仕方が無いので、文芸雑誌者の友人から幾人か候補を貰い、最終的に柳下に決めた。締め切りをしっかり守るという執筆スタイルが決め手になった。新人でもないので、作品作りにこっちが労力をかける必要もない。
しかし、そんな仕事とはいえ、柳下も小説家らしく気難しい人物で、連載を頼むのにはそれなりに苦労はした。それを、入社四年目の小娘にどうぞと渡すのも堀田には癪だった。
「お前、時代小説に興味なんてないだろ」
「案外詳しいですよ。堀田さんこそ、山本周五郎読みました?」
「……」
「それに、興味がどうとか、それこそ堀田さん興味ないでしょ。記者の興味なんてどうでもいい、堀田さん、よく言うじゃないですか」
堀田は舌打ちの様な音を鳴らして、歯に挟まっていた小葱の残骸を取った。
「俺が受けた仕事だぞ」
「堀田さん、編集長と仲良いじゃないですか。それに、柳下先生の担当、堀田さんがオッケーなら変えても別にいいって言ってましたよ」
「五十嵐が?」
「はい」
「マジかよ」
堀田は煙草を灰皿に押し付け、ぐしゃぐしゃと頭を掻いた。
愛理はヒレ酒をもう一杯、店の主人に頼んだ。
「というかお前、そんな話、五十嵐としてたのかよ」
「やりたい仕事あったら、ふつう掛け合うじゃないですか」
「お前本当に連載小説の担当なんかやりたいの? なんで?」
「説明なんてできませんよ。本当に大事なことは言葉じゃないって思いません?」
愛理の態度に揺るがないものを感じ、堀田はため息をついた。
「――じゃあ新見の情報、取ってこい。十二月三日、夜、どこにいるのか」
「そんな、鼻息荒くしないでくださいよ。下衆がうつります」
愛理は、カウンターの上に出しっぱなしにしていた同窓会招待状のコピーを、折りたたんでジーンズのポケットに入れた。




