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星の海で遊ばせて  作者: ノマズ
5,この空が崩れ落ちても
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かさね色目の陽炎(10)

「あぁ、あそこで殻取ってもらうんですね……すみません、ちょっと並んできます」


「え? いやいいよ、面倒くさい」


「でも――」


「自分でやったほうが早いよ」


 詩乃はそう言うと、麻美の持ってきたバケツを取って、店の一画に用意されている、客用の調理場に向かった。調理場には牡蠣の殻を剥くための道具をはじめ、プレートに乗せて使う蒸し焼き用の蓋や料理酒など用意されてあった。


 詩乃は軍手をはめると、殻剥き用のナイフとハサミで、牡蠣の殻を剥き始めた。


 カシャコ、カシャコという小気味良い音で、すぐに最初の牡蠣の殻が取れた。


「水上さん、牡蠣の処理もできるんですか?」


「うん」


 驚く麻美を尻目に、詩乃は剥いた牡蠣をさっと水で洗い、次の牡蠣にとりかかった。十数個の牡蠣は、三分とかからず、詩乃によって貝柱まで外されて、あとはちゅるっと吸い込むだけで食べられる状態になった。


 テーブルに戻って、二人は改めて牡蠣を前に両手を合わせた。


 レモンを絞り、最初の牡蠣を麻美が口に運ぶ。その風味を麻美が味わう様子を見てから、詩乃も一口目の牡蠣を食べた。美味しい、美味しいと、美奈は三杯をレモンでペロッと食した。詩乃は四粒の牡蠣に料理酒をかけ、プレートに乗せた。


「何作るんですか?」


「酒蒸しを」


 そう言いながら、詩乃は蒸し焼き用カバーで牡蠣を覆った。


「水上さん、ホント何でもできるんですね」


 詩乃は鼻を鳴らして、虚無的な笑みを微かに浮かべた。


 詩乃は、麻美の笑顔も、自分をほめそやす言葉も嫌いだった。出来の良いオムレツを作ってしまった時の驚いた表情やその時の感嘆は素直だったのに、こうして話すとなると、途端にこの子は嘘をつく。


「何でもはできないよ」


 知ってるだろうけど、と思いながら詩乃は麻美に言った。


 そんなことないですよ、と麻美が応じた。否定的な言葉にはこう返すものだ、というルールか何かがあるらしい。見せかけの謙遜、あるいは、自分の価値感の押しつけ。日頃からそういうコミュニケーションの中で生きている人間が、詩乃には異星人の様に映るのだった。しかし事実、異星人は自分の方なのだということも、詩乃は自覚していた。


「牡蠣の殻取れる人、そういませんよ」


「なんでも褒めりゃいいってもんじゃないよ」


 詩乃はそう言って笑った。


「いやいや、私出来ませんもん。魚だって捌けないし」


「いいんだよ捌けなくて」


 放り捨てるような乱暴な口調で詩乃が言った。


「いやでも、料理できた方が良いじゃないですか」


「できる人がやってくれるよ」


「えー」


 その言葉は、自分が言うならわかるけどと麻美は思った。


 詩乃は蒸し焼きの蓋を開けた。ふわっと、料理酒の香りと湯気が広がる。牡蠣は殻の上で、白っぽい半透明の汁を沸騰させながら、柔らかくぷりっと出来上がっていた。


「食べ頃だよ」


 詩乃はそう言いながら、トレイに残っていた牡蠣を網に乗せて、コンロの火を点けた。麻美は、酒蒸しの牡蠣を取り皿に乗せ、タレをつけて、箸で口に運んだ。美味しい、という麻美のリアクションに微笑を浮かべ、詩乃は次の牡蠣をカウンターに取りに行った。


 口の中に牡蠣の風味を味わいながら、麻美は、牡蠣を選ぶ詩乃の後姿を眺めた。


 私の七つ年上の男性。


 だけど、二十代後半にしては、頼りない。高卒のフリーター。料理は上手いけれど、フリーター。店を持とうとか、店長の座を狙ってやるとか、そういう野心は微塵も感じられない。たぶん、出世しないタイプの男なのだろう。


 だから、水上さんには恋愛感情を抱くはずがない。


 私は、向上心のある、頼れる男が好きなのだと麻美は自分の恋愛観をそう認識していた。


 それなのにどうしてか、この数週間のうちに、水上さんに私は、好意を抱いている。その自分にとってはありえない感情の動きに、麻美はもやもやしていた。将来性も経済力もない、頼りがいも怪しい。話も、何を言っているのかわからない。そもそも口数が少ない。それなのに私は、「お礼の食事」に拘って、水上さんと二人で、今ここにいる。しかもそのことについて、悪くないと思っている。


 おかしい、と麻美は牡蠣を飲み込み、奥歯を噛んだ。


 ナイフとハサミで手早く牡蠣を捌く水上さんの横顔は、少し格好良い。だけど私が、そんなことくらいで人を好きになるわけがない。美味しい酒蒸しが作れるくらいで、魚介を捌けるくらいで。


 牡蠣の殻を外して詩乃が席に戻ってきた。


 酒蒸しの牡蠣がまだ二杯残っていた。網の上の牡蠣も、じゅうじゅうと良い音を立てている。


「なんだ、食べて良かったのに」


 詩乃は、プレートの上に残った二粒の酒蒸しの牡蠣を、着席と同時にぱくぱくっと自分の口に放り込んだ。それから、新しいレモンを絞って、生牡蠣をつるっと口の中に流し込む。


「水上さん、正社員にならないんですか? 店長が嘆いてましたよ」


「あー……保留にしてもらってるんだよね」


「いつまでに決めるんですか?」


「十二月いっぱいって言われてるけど――」


 詩乃は苦い顔で牡蠣を口に流し込んだ。


「社員になれるの、チャンスじゃないですか」


 うーん、と牡蠣を食べながら詩乃は唸る。


 何を悩むことがあるのだろうかと、麻美は思っていた。


「家の人に言われません?」


「家族とは音信不通だから」


「え、そうなんですか?」


「会おうと思えばいつでも会えるんだろうけど、まだ会うのはちょっとね」


「何か、やりたいこととか、あるんですか?」


 詩乃は口元に手をやって考えた。


「前川さんは?」


「私は、とりあえず就職ですかねぇ」


 詩乃は小さく何度か頷いた。麻美は大学三年で、就職活動をすでに始めている。そのことを、詩乃も知っていた。


「そんなに働きたい?」


「働かなきゃダメじゃないですか」


 麻美の答えに、詩乃はまた小さく頷く。


「前川さん、商学部だよね?」


「はい。あれ、言いましたっけ?」


「うん、聞いたと思う――もういいんじゃない」


 詩乃に言われて、麻美は網で焼いていた牡蠣をトングでつまみ、自分の皿に置いた。詩乃も焼き牡蠣を取って、そこに醤油を垂らした。


「水上さん、恋愛の方はどうなんですか」


 突然そう聞かれて、詩乃は牡蠣から視線を持ち上げた。


「どうって?」


「結婚とか、考えないのかなぁって」


「考えなてないよ」


「それは、相手がいないからですか」


 詩乃は、煙たがるように顔をしかめた。


「あ、別に水上さんに女っ気が無いとか言ってるわけじゃないですよ」


「言ってるようなもんだよ、それ」


 わかりやすく憤慨した詩乃の態度は、麻美を笑わせた。


 詩乃は焼きたての牡蠣を、唇で温度を測りながら慎重に口の中に入れる。


「でも実際どうなんですか。狙ってる人とか、好きな人とか、いないんですか?」


「いないね」


「水上さん、恋したことあります?」


 詩乃はため息をついた。


「すみません、流石にありますよね」


 からかいすぎたと思い、麻美は謝りながら言った。でも、これくらい笑って受け流してくれてもいいじゃないかと、麻美は腹も立てていた。やっぱりこんな大人げない人、好きになんてなるはずがない。


「新見さんだよ、自分が恋をしてたのは」


 詩乃は、じっと麻美の目を、睨むように見つめて言った。


「え…っ!」


 麻美は驚いて、ケホケホと、焼き牡蠣に咽た。なんとかそれを飲み込み、麻美は身を乗り出して詩乃に訊ねた。


「新見さんって、新見アナのことですか!?」


「うん」


 詩乃は、すっかり温くなってしまった野菜ジュースを一気に飲み欲した。


「え! やっぱり可愛かったんですか、新見アナって」


「うん」


「へぇー、そうだったんですか。仲良かった、とか?」


 詩乃は静かに笑い、プレートに乗せた牡蠣に料理酒を振りかけた。


「告白、しました?」


「したよ」


 キャー、と、麻美は両手を自分の頬に添えた。


「写真とかあります?」


「無い」


 詩乃は、プレートに蓋をしながら応えた。


 麻美は、詩乃の素っ気ない答えを聞いて、何か、勝ち誇ったような同情を詩乃に覚えた。学校のアイドルに晩年片想いをしていた暗い男子、麻美はどこかの恋愛漫画に出てきたようなそのイメージと、詩乃の青春時代とを、容易くリンクさせることができた。


「何か思い出とか、聞かせてくださいよ」


 わくわくと、麻美が言った。


 しかし麻美は、詩乃の口から新見アナのエピソードなんて出てこないのを知りながらそう聞いていた。せいぜい同じクラスになったとか、挨拶を交わしたとか、あったとしてもその程度の事だろうと、麻美はすでに決めつけていた。そして詩乃は、麻美が自分の高校生時代についてどんな想像をしているのか、麻美の瞳の奥に読み取っていた。


 詩乃は口元に手を当てたまま、目を閉じた。


「あ、あ、すみません、そんな、無理しないでください」


 麻美が言った。


 詩乃はすっと穏やかな微笑を浮かべ、息をついた。


「――行く末の、松の契りも来てこそは見め」


「え、なんですか?」


「和歌は読まない?」


「和歌って、あぁ、なんか、俳句みたいなやつですか?」


 詩乃は、残りの牡蠣を網に乗せ、牡蠣の殻だけになったバケツを持って立ち上がった。


「あ、私捨ててきますよ」


「いやいいよ、食べてて」


 詩乃はそう言って、テーブルを離れた。

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