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星の海で遊ばせて  作者: ノマズ
5,この空が崩れ落ちても
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かさね色目の陽炎(9)

 一瞬、冬璃が唇を結んだのを、美奈は見逃さなかった。美奈はブロッコリーをフォンデュフォークに差して、チーズ鍋に入れた。その作業で冷笑を隠しながら、冬璃に聞いた。


「応援コメントとか貰うでしょ?」


 皮肉の一つでも言い返してやりたい気持ちだった冬璃は、しかし美奈のその問いかけで反抗を諦めた。冬璃は、他の若手のアナウンサーと同じように、〈応援コメント〉どころか、ファンもいて、ファンメールも貰っていた。その現実を叩きつけられてなお、私はタレントではなくアナウンサーだ、と言い切る論陣を、冬璃は張れないと思った。


『アナウンサーの本分は伝えることだ。そのスキルを磨いてこそのアナウンサーだ』と、研修では冬璃も散々言われてきた。日頃は、そういうものだ、と思うことにしているが、それは、先輩達の言うアナウンサー哲学に感銘を受けたからではない。そういうものだ、と思っておけば、それを土台に歩くことができる。進んでいく根拠が欲しいために、その根拠を信じて、疑わない振りをしているに過ぎない。


 冬璃はわかっていた。アナウンサーはスキルだ、実力だ、というのが建前であることを。しかし一度そこに疑問を抱けば、自分が次に進む一歩先からの地面が幻のように消えて、踏み出そうとすれば、底の見えない奈落へ落っこちていってしまう。それがわかるから、建前を、今は縋る様に信じている。


 それなのに菊池さんは、平気で私を、谷底へ突き落そうとする。自分だけはがっしりとした鉄橋の上を歩いて、なんでそんな靄の上にいるのか、あの蠱惑的な笑みで聞いてくる。それが冬璃には悔しかった。しかし悔しくても、足元のしっかりした美奈の歩みには敵わないと思った。


 冬璃は風船が萎むような空気を鼻から出して応えた。


「まぁ、はい……」


 冬璃の反応は、美奈には意外でも何でもなかった。一言の内に自分の言葉の裏を読み取るだけの賢さ――言い換えれば神経質さを冬璃が持っていることは知っている。


「ま、椎名は私とは路線違うからね」


 この話題はここまでにしようと、美奈はそう言って、ブロッコリーを食べた。ここで冬璃に説教するつもりも、自分の仕事論を冬璃に語るつもりも、美奈にはなかった。


「菊池さん、ファンメールとかたくさん来て大変そうですよね」


「え? 全然大変じゃないわよ」


「え、そうなんですか?」


「だって、返事出すわけじゃないし」


 確かにそれは尤もだった。テレビ城東では、アナウンサー宛てのファンメールは総務部のチェックが入った後に、各アナウンサーの社内アドレスへと送信される。しかし受け取るだけで、返事は禁止されている。


 そこで一つ、冬璃は思い出したエピソードがあった。


「――そういえば、オミさんから聞いたんですけど、柚子先輩、ファンメールに返信出そうとしたことあったらしいですよね」


「え? それ知らない」


 美奈は冬璃の話に興味をそそられた。先を促すよう、冬璃を見つめる。


「去年の話みたいですよ。その時は私、知りませんでしたけど」


「でも返事って、出せないよね? メールの送り側のアドレスって、私たちに回ってくる時には消されてるから」


「どうやろうとしたのかはわからないんですけど、無理に出そうとして、総務に怒られたらしいですよ」


「へぇー……」


 美奈は深く相槌を打った。


 私や、他のちょっと浮ついているアナウンサーならともかくとして、あの新見さんがルールを破ろうとするなんて、一体どんなメールだったのだろう。ものすごく腹の立つ内容だったのか、それとも励まされたのか、それとも別のことで返事を出そうと思ったのが。規則を破ってまでそれをしようとしたのだから、よほど何か、あったに違いない。


 そこで美奈は、柚子が『もう忘れた』と言った相手の事を考えた。『作家になってるかも』と言った新見さんの口ぶりからすると、今はもう、どこで何をしているかわからない人なのだろう。その元彼からのメールだったのだろうか。


 そこまで考えて、いやいやと、美奈は自分の推論の下手さを思って、考えるのを止めた。そのメールがその初恋の相手からだったら、その話を、さっき一緒にしただろう。まだ去年の話なのだから、『実は去年メールが来たんだ』とか、そんな言葉を添えないはずがない。


 また別の日に少し聞いてみようと美奈は思った。でもたぶん聞いても、新見さんが踏み込ませたくないと少しでも思っている気配があったら、やっぱり自分は、無理には聞けないのだろうなと美奈は思った。


 程なく、柚子が部屋に戻ってきた。


 本当に忘れていた連絡をしに行ったのか、それは席を離れる口実だったのか、美奈も冬璃も、柚子には聞かなかった。戻ってきた柚子は、温かくて濃厚なチーズフォンデュを食べて、ワインを飲み直し、その美味しさを褒めた。


 食事の後、店を出て階段を上っている時に、美奈は柚子からこっそり「ありがとう」と礼を言われた。子供っぽい仕草に優しい微笑み。それなのにその瞳だけはやけに落ち着いていて、美奈は妙な不安に駆り立てられた。枯れ葉が落ちるのを見つめているような、そんな目をしていた。






 数人の友達を招いてのプチ同窓会で、麻美は皆に見事なオムライスを作って見せた。ナイフで真ん中を切ると、とろっとした半熟の黄色い玉子が広がり、そこに、キャラメル色のソースをかける。皆に褒められて、麻美は鼻高々だった。


「お礼したいんですけど、食事とか、どうですか?」


 プチ同窓会の翌週、麻美は店の閉店作業をしながら詩乃を誘った。一緒に作業をしていた清彦ともう一人の大学生バイトの男は、何のことかと興味をそそられ、二人に訊ねた。麻美と詩乃に、プライベートの関係があるとは誰も知らなかった。


「オムライス、作り方教えてもらったんですよ」


 麻美は、どうしてそうなったかの経緯についてもその場で話した。清彦とバイトは二人してゲラゲラと笑った。プライドの高そうな麻美にはいかにもありそうなエピソードだった。頼ったのが詩乃だったということと、詩乃が頼られて手伝ったということが、二人には意外だった。


「いや、いいよ」


 と、詩乃は麻美の誘いを最初は断った。外食をするくらいなら、自分で食材を買ってきて作った方が、安く、美味しくできる。どうせ外で食べるなら、特別なものでなければ意味が無い。


 ――じゃあ、何食べたいですか。


 麻美は詩乃に訊ねた。詩乃の外食に対する意見を聞いて、麻美は腹を立てていた。自分で作った方が安い、というのは理解ができたが、「特別」に関しての詩乃の認識は癪に障る。私と二人、というのは「特別」ではないのか、と。


「普段食べられないものかな、どうせ行くなら」


 お礼程度の食事でそんな店普通行かないでしょ、と麻美は詩乃の非常識に内心呆れながら、携帯端末で店を探した。「特別な料理」「店」「今が旬」と、キーワードを繋げたり、変えたりしながら悩む。検索結果には高級店がずらりと並ぶ。どの店も、「ちょっとしたお礼」の域を遥かに逸脱している。


 苛立ち半分、店選びに苦心している麻美に詩乃は言った。


「いいよ、気使わなくて。気持ちだけ受け取っとくから」


 麻美はそう言われて、携帯端末ごと詩乃に投げつけてやりたい衝動に駆られた。別に、気を使って誘っているわけじゃない。それなのにそんな言い方、流石に冷たいんじゃないの、と麻美は小さく傷ついた。


 自分の言葉には答えずに、無言で小さなモニターとにらめっこをする麻美を見て、詩乃は眉間にしわを寄せた。


「じゃあ、牡蠣小屋でも行く?」


 牡蠣小屋ですか、と麻美は顔を上げた。


「お金は出すから、店探してよ」


「いやいや、奢りますよ! じゃないとお礼の意味が――」


「牡蠣を大学生に奢らせる惨めな男にしてほしくないんだけど」


 そう言われると、麻美も反論できなかった。


「わかりました」


 と、麻美は応えた。


 旬はわかるけど、よりにもよってどうして牡蠣、と麻美は思ったが、これ以上何か意見したら、やっぱり行くのやめよう、と言われかねない。麻美はその場で詩乃と予定を合わせ、早々に店を予約した。




 麻美は実家の草加から神保町のキャンパスまで、片道四十分ほどかけて学校に通っている。その途中に通る押上駅の近くに牡蠣小屋がるのを飲食店紹介サイトで知り、麻美はその店で予約を取った。水曜日――講義の後はいつもなら、マネージャーをしているフットサルサークルの活動に参加する。しかしこの日は、サークルを欠席して、押上の駅に向かった。


 日が落ち始める夕方四時。


 待ち合わせの場所は、駅前のバスロータリーにしていた。広場の様になったその開けたロータリーの、スカイツリーを見上げるベンチの一つに、詩乃は座っていた。ジーンズに黒シューズ、ごわっとした茶のダッフルコートを着ている。腕を組み、居眠りをするダルマのような詩乃の姿を見つけ、麻美はその肩を強めに叩いた。


 驚いて顔を上げた詩乃に、麻美は尖った口調で言った。


「おはようございます」


「あぁ……おはよう」


 詩乃は、麻美に起こされて立ち上がった。


 ライラック色のファーコート、膝下からブーツをはく足首の上までは肌が露になっている。それを見た最初の一瞬だけ、詩乃は麻美に女性の色っぽさを感じた。麻美から漂うキンモクセイの微かな香りが、その一瞬を、微か数秒だけ長引かせる。


「寝不足ですか?」


 歩きながら、麻美は詩乃に訊ねた。


「考え事してただけだよ」


「何考えてたんですか?」


「何を考えようか考えてた」


 なんですかそれ、と麻美は声を上げた。




 待ち合わせ場所から歩いて数分で目的地の牡蠣小屋に着いた。平日の夕食前とは思えないほど、店は繁盛していた。ぱちぱちと、牡蠣をはじめとした魚介類を焼く音があらゆるテーブルから聞こえ、天井付近には煙がもうもうと立ち込めている。


 二人の席は、四人掛けの四角いテーブル席だった。テーブルの真ん中には、焼き肉屋のような網焼きのコンロと、その横に、プレートも用意されていた。二人は向かい合って座り、コートを丸め、椅子の下の荷物籠にしまった。


 牡蠣食べ放題、ソフトドリンク飲み放題で約五千円というコース。折角来たからには元を取りたいと、麻美は早速、牡蠣を取りに行った。氷上にずらりと並べられた殻付きの牡蠣。食べ放題コースの客はそれを、用意された銀の小さなバケツやステンレスのトレーに入れる。詩乃は麻美が牡蠣を取りに行っている間、ドリンクサーバーで野菜ジュース注ぎ、席に戻って、眠気覚ましにそれを飲んでいた。


 呑気にジュースを飲んでいる詩乃のもとに、麻美が戻ってきた。銀のバケツに、十杯以上の牡蠣が入っている。


「牡蠣小屋って初めてなんですよね」


 麻美はそう言って、バケツから牡蠣を掴み出した。


 その時になって麻美は、牡蠣の殻を取らなければならないことに気が付いた。


 牡蠣が並べられているカウンターの横を見れば、殻剥きカウンターがあり、そこに牡蠣の入ったバケツやプレートを持った客が、数人の列を作っている。

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