かさね色目の陽炎(7)
コートを脱いで荷物を置き、三人が席に着いた後でコースの説明があった。今日は、チーズフォンデュのコースである。柚子が招待するはずだったチーズフォンデュの店がダメだったので、せめてメニューだけでもと、美奈の決めたコースである。
早速、オリーブとチーズとタコを使った可愛らしい前菜と食前酒のキールが運ばれてきた。三人の初めての食事会を祝して、という美奈の音頭で乾杯し、三人はグラスに口をつけた。
「こういうお店、どうやって見つけるんですか?」
冬璃は、美奈に訊ねた。
「食事に誘ったり、誘われたりしているうちに自然とね。ここは、〈クラプロ〉の社長が知ってた店」
えっ、と冬璃は口元に手をやった。
通称〈クラプロ〉――〈クランプロダクション〉といえば、この五年で台頭してきた、新進気鋭の芸能事務所である。動画共有サイトでのコンテンツ配信に特化していて、所属タレントを、自社が持つ配信チャンネルの番組に出演させている。その金回りの良さは、業界内でも有名だった。
「引き抜きの話ですか?」
冬璃が、恐る恐る訊ねる。
「そ。一千万で来ないかって」
「え、年収ですか?」
「月」
冬璃は息を呑んで固まった。
前菜の席には衝撃が強すぎるネタである。
「行くんですか?」
恐る恐る、冬璃が訊ねる。
これから美味しいフランス料理――チーズフォンデュのコースが運ばれてくる前の会話ではない。オファーの情報を私なんかに明かして、一体何のつもりなのだろうと、冬璃は警戒の色を浮かべる。
「ばっと稼いで早期引退、っていうのも悪くないかもねぇー」
美奈はそう言って、オリーブをぱくっと口に入れた。
言葉を失う冬璃の緊張した顔を、美奈はくすくすと笑いながら楽しんだ。冬璃の考えていることを、その態度から美奈は予想する。自分が移って、チャンスと思っているかもしれない。あるいは、〈昼いち!〉のメインMCが抜けて、また大きなキャスト代えの可能性を考えているかも。美奈は、キールをもう一口飲んで、ふふっと笑った。
「え、柚子先輩、知ってました?」
冬璃は、柚子に訊ねた。
柚子は柔らかい笑みを浮かべながら応えた。
「うん、前に、菊池さんがうちに遊びに来た時、聞いたよ」
柚子の答えを聞いて、冬璃は再び驚いた。
柚子先輩と菊池さんは、いつからそんな仲になったのだろう。柚子先輩の家に菊池さんが遊びに行ったなんて話は、全く知らなかった。菊池さんも柚子先輩も、SNSにそんな話を載せていない。いつのことだろうか。
「椎名、まだそういう話来ない?」
「え、来ませんよ。普通来るんですか? ――柚子先輩、来てます?」
冬璃の問いに、柚子は曖昧に笑って答えを濁し、代わりに言った。
「でも、月一千万は、なかなか無いよね」
「受けるんですか、オファー」
「うーん――」
と、美奈はタコを噛み、呑み込んでから答えた。
「残念、受けないよー」
美奈はおちゃらけた口調でそう言ったが、冬璃はその答えに、安心したわけでも、美奈の言うように「残念」に思ったわけでもなかった。冬璃にとっては、美奈が局に残ろうと、オファーを受けてフリーになろうと、あまり関係がなかった。
柚子は、二人のやり取りや冬璃の若い反応を見て、笑っていた。
冬璃は、柚子の笑顔で安心すると同時に、腹も立ってきた。いくら後輩とはいえ、自分だけ蚊帳の外で遊ばれている、そんな気がした。
「もし菊池さんがフリーになって降板したら、〈昼いち!〉のメインMCって、たぶん柚子先輩ですよね?」
冬璃の渾身の一言に、美奈はにやりと笑い、言った。
「椎名は新見さん推しだもんね」
「……」
冬璃は、黙ってしまう。
美奈の言う通り、冬璃は、〈昼いち!〉のメインMCが、なぜ柚子ではないのかと、内心ずっと思っていた。わざわざ自分のために時間を作って、相談に乗ってくれたり、原稿読みの練習に付き合ったりしてくれる。そんな柚子に敵意を向ける美奈のことは、正直な所冬璃は、苦手を通り越して嫌いだった。日頃は、それを表に出してはいけないので、「苦手」ということにして、自分にもそう言い聞かせていたが、この瞬間冬璃は、自分の美奈に対する感情を、はっきり自覚した。
「椎名さん、私推してくれるの?」
笑顔の柚子にそう聞かれ、冬璃は、残りのキールを一気に飲み欲した。
「おぉ、豪快!」
美奈が言った。
丁度そこで部屋の扉にノックがあり、三種類のチーズフォンデュが赤、白、青の鍋で運ばれてきた。その他にもパン、野菜、ブイヤベースの皿が続々と、テーブルの上に並べられる。最後は、新しいグラスに白ワインが注がれた。
冬璃は、特別な接待を受けているような気がした。日頃冬璃は、メディア業界や芸能業界の関係者と飲み食いすることがほとんど無い。外食も、気になる喫茶店に一人こっそり行って、コーヒーや紅茶でケーキを楽しむくらいなものだった。
「美味しそうですね。チーズフォンデユなんて、人生二度目くらいかも」
美奈はそう言うと、早速先陣を切って、フォンデュフォークにブロッコリーを突き刺し、そのブロッコリーにチーズを絡めた。一口でそれを食べた後、美奈は深く頷きながら言った。
「うーん、美味しい。チーズが濃厚」
柚子と冬璃も、それぞれに好きな具材を選んでフォークに刺した。柚子にとっても、チーズフォンデュは久しぶりだった。チーズに海老を絡めて食べた後、新しく運ばれてきたフレッシュなシャブリを飲み、柚子はほっと息をついた。
「ワインの味はどうですか?」
美奈は、ちらと柚子に目をやって聞いた。
「すごく美味しいよ。菊池さんが選んでくれたの?」
「いえいえ、店の人に任せましたよ。私はワインの味なんて――」
美奈は言葉の途中で、ワインを少し口に含んだ。
「あぁでも、これは飲みやすいですね」
「ね、美味しい」
「柚子先輩と菊池さんって、あの……」
冬璃はそう聞きかけて、途中で言葉をしまった。仲良かったんですか、と露骨に聞くのはさすがに憚られる。
柚子と美奈は顔を見合わせた。
冬璃が何を自分たちに聞こうとしたのか、わざわざ冬璃の言葉を催促するまでもなく、二人にはわかった。特に美奈には。
「新見さんに相手にしてもらえないから、もうライバル辞めちゃったの、私」
美奈がそう言い、柚子の笑顔が困り笑いに変わる。
「そうなんですか? でも……」
美奈は柚子を押しのけてメインMCを勝ち取り、SNSのフォロワー数や、局が独自の基準で出しているアナウンサー別の人気ポイントも、今は美奈の方が上だ。美奈がもう柚子の事を相手にしていない、というのならまだわかるが、柚子に相手にしてもらえないからライバルをやめたとは、どういうことだろうか。相手にしないのは本当は自分の方、という意味の皮肉だとすれば、柚子先輩にかなり失礼だ。
まさか今日は、それを私たちに宣言するためにこの会を開いたのではないかと、冬璃はそんなことを考えてゾっとした。柚子先輩はどんな顔をしているだろうと、冬璃は柚子の表情を覗った。
「新見さんと話してたら、なーんか、人気ポイントだのランキングだの、馬鹿らしくなっちゃって」
「でも、私は菊池さんすごいと思うよ」
柚子が、美奈にそんな言葉をかけるので、冬璃はさらに二人の関係がわからなくなってしまった。柚子の声には、感情を隠したり、何かを取り繕うような雰囲気が無い。落ち着いた、耳に心地良いソプラノトーン。
「私にはお二人とも、雲の上すぎて……」
冬璃が言った。
美奈はにやっと微笑んだ。
「椎名、結構煽られてるんでしょ」
「はい、ホント、そうなんですよ。菊池先輩も柚子先輩も、もう、完成されてるじゃないですか。私そんなの絶対無理なのに、発破かけられます」
美奈と柚子はうんうんと、頷いた。
あいつを越えろ、お前じゃ無理か――等、少し偉くなった男は、決まってそういう事を若手のアナウンサーに言い出す。賢くて容姿も良い女を支配している、その征服感に酔っているのだ。そこで争っても馬鹿を見るので、新人であっても女の方は、権力を持った男連中の欲望を上手く躱しつつ、利用しつつ、自分の価値を上げていく。
「ホント、ムカつくよね」
美奈が言った。
冬璃は、目を丸くして、思わず笑ってしまった。
「私たちをアイドル扱いして、ランキングとか馬鹿みたいなことやってるくせに、ちょっとアイドル風に振る舞うとさ、調子に乗ってるとか、それはそれでグダグダ陰口叩くんだよね」
冬璃は、深く何度もうなずいた。自分の心の中の鬱積した不満を、美奈が代弁してくれているようでスカっとした。
「椎名も相当溜まってるんでしょ?」
「……はい」
美奈の問いに、冬璃は素直に答えた。それが面白くて、美奈と柚子は笑いあった。冬璃の口をもう少し軽くしようと、美奈は冬璃が直面しているだろう問題や、若手の女アナウンサーにありがちなプレッシャー、上司や同僚の無理解についての悪態を、軽妙に語った。そのうち冬璃も、美奈の憎まれ口の調子に巻き込まれて、頷くだけではなく、自分から口を開いて悩みや不満を口にし始めた。
柚子は二人が盛り上がるのを、にこにこ笑いながら聞いていた。何はともあれ、後輩二人が仲良くなってくれるのは、柚子にとっては無条件に嬉しいことだった。しかし、話を聞いているだけの柚子に、美奈は何かしゃべってもらいたいと思っていた。頃合いを見て、美奈は話題を変えて柚子に聞いた。
「そういえば新見さん、例の彼とは、どんな感じなんですか?」
以前美奈は、柚子の家に遊びに行った時に、柚子の恋愛事情について聞いていた。近頃、デートに誘ってくれる男性がいると、そのことだけはその時に柚子が打ち明けた。そしてまだ、恋人という関係ではないということも。
「え、柚子先輩、良い人いるんですか?」
冬璃の問いに、柚子は恥ずかしそうに笑う。
それから柚子は、飲みかけたワインのグラスをテーブルに下ろし、俯いた。そうして、少しの逡巡のあと、口を開いた。
「友達じゃなくて、先に進みたいって言われてるんだ」
柚子の言葉を聞いて「ええっ!」と、美奈と冬璃は途端に色めき立った。
柚子は、二人に聞かれるままに、栖常明のことを二人に話した。明が〈N・ドーベル〉のCEOだということが柚子の口から語られると、美奈は早速、明とその会社のことを携帯端末で調べた。『若手IT長者ランキング』に明の名前が載っているのを見つけて、美奈は興奮して、その画面を冬璃に見せた。
「かなり優良物件なんじゃないですか? 顔も、悪くはないし」
ネットを漁った結果出てきた明の顔写真を見ながら、美奈が言った。
「え、じゃあ、柚子先輩、結婚するんですか?」
冬璃が訊ねる。
「気が早いよ。結婚の話なんかは、まだ全然出てないよ」
「でも、友達より先に進みたいっていうことは、それって、プロポーズみたいなもんなん
じゃないですか」