かさね色目の陽炎(3)
大量の卵パックの入った袋を持って、二人が詩乃の家の玄関に入ったのは、それから二十分後の事だった。卵の他に、詩乃は鶏の胸肉や焼きそばやベーコンを買い込んでいた。
玄関を入ると、詩乃の家は少しほろ苦い匂いがして、それを嗅ぐと麻美も少し緊張した。職場が一緒というだけの、ロクに会話すらしたことのない三十路男の一人暮らしの家に自分は上がり込んでいる。我ながら、危機感が無さすぎると麻美は今更ながら思った。しかし同時に、「この男は、私に無理やり何かをするなんてことは絶対にできない」という詩乃を侮る心地よさも感じていた。
買い物をしながら、詩乃は麻美から、今回のことについて話を聞いた。
十一月の半ばに、麻美は高校時代の友人たちを自宅に招いて、小さな同窓会を開くことになった。その話の中で、自分がオムライス専門店で働いている事を話し、うっかり見栄を張って、自分もオムライスを作れる、ということを言ってしまったという。困った麻美はしかし、友達に本当のことを告げる恥じは選べなかった。料理動画を見て練習をしたが、専門店でオムライスを作っている、というレベルには全く届く気がせず、そこで、自分を頼ってきた。
店には詩乃の他にもキッチンを担当できるスタッフが六人いるが、麻美はそのうち四人とは、シフトが被っていず、ほとんど面識がなかった。清彦か詩乃かで、麻美は詩乃を選んだ。麻美は、清彦とは上手くやっていたが、店長に教わるというのは、何か仰々しい気がして嫌だった。
「間に合いますかね」
卵を袋から出して、ガスコンロ横の小さな作業台に並べ置きながら、麻美が言った。プチ同窓会の当日まで、あと三週間ほど。たった三週間で、どれほどできるようになるだろうか。
詩乃はステンレスボールを二つ、卵で占領されそうな作業場に重ね置き、言った。
「毎日できるなら一週間で充分」
「え!」
麻美は、詩乃の顔を見た。
詩乃は淡々と、足元の収納棚からハンドホイッパーを出して、ヘッド部分を水で洗い始める。「卵全部、片方のボールに入れて。殻はその袋に」と詩乃は指示を出した。
「え、これ全部ですか!?」
「量やらないと上手くならないから」
麻美は、言われた通り卵をボールに空け始めた。
店では見慣れた光景とはいえ、卵も十個を越えて集まると、それは卵ではなく桃の缶詰のようだ。二十個、三十個――道具の準備を終えた詩乃は、残りワンパック分の卵を、ぱかぱかと片手で容易く開けた。
「混ぜて」
麻美は、コンセントを入れたハンドホイッパーを詩乃から受け取り、大量の卵を混ぜた。グオーンと、低い音がボールと作業台を振動させる。詩乃は、折り畳みの椅子を引っ張り出して、麻美の作業をしている隣に坐った。
「これくらいでどうですかね?」
詩乃は立ち上がって、ボールを覗いた。
「うん、いいんじゃない。そしたら――」
と、詩乃は準備の手順を麻美に教えた。詩乃が作業場の隅に用意していた平型のシンプルなこし器を使いながら、空のボールに混ぜ合わせた黄色い液体を流し込む。普段見ている割に、麻美には、忘れてしまいそうな工程だった。少し面倒に感じてしまう。
「これで、味変わるんですか?」
ボールを傾けながら、麻美が言った。
「何か一か所良くしたからって、出来が劇的に変わるってことは無いよ」
随分現実的なんだなと、麻美は思った。もっと大袈裟に、「これで全然味が違うんだよ!」くらい言えばいいのにと思う。
「バター使おうか」
「はい」
麻美は、詩乃の指示のもと、固形バターを切り、耐熱ボールに入れて電子レンジにかけた。ほんの数十秒で、バターはすっかり、とろりとした香ばしい匂いの香るハチミツのような液体になった。
「じゃ、作ろう」
フライパンを火にかけ、スプーン二杯分ほどの溶かしバターを入れる。卵は、底の深いおたま一杯分。卵を入れたら、外の薄く固まり始めた玉子を、内側に持ってきて、ぐるぐると全体をかき回す。玉子がほどよく固まってきたらゴムベラを使いつつ形を整える。三日月形にして、つなぎ目を熱して閉じ、皿の上に乗せる。
言うのは簡単だが、やるのは難しかった。
形を整えるのに苦労し、最初のオムレツは、所々穴が開いた、硬いオムレツになった。
自分の家のフライパンに比べて、フライパン自体は断然使いやすかったが、明らかな失敗オムレツに、麻美は「あー」と声を上げた。
「やっぱり最後の方、弱火にした方が良かったですかね」
詩乃に何も言われなかったので、火加減は中火のまま作ったが、SNSに上がっているオムレツやオムライス作りの動画では、火加減が大事だとほとんど共通して言っていた。特に最後の形作りの所は、弱火でやった方が良いと。
「いや、そのままでいいよ。次いこ」
一回目の品評もほとんどせずに、二つ目のオムレツに入る。
「フライパン、もうちょっと動かしてごらん」
詩乃のアドバイスの通り、麻美はやってみる。ただ、なかなか手が動かない。右手は卵をかき混ぜて、左手はフライパンを上下する。簡単そうに言う詩乃が、すこし恨めしかった。
それでも、二つ目、三つ目、四つ目とどんどん繰り返すうちに、だんだんと、形になってきた。麻美も、毎朝オムレツを作る様にしていたが、この十分ちょっとで、明らかに、上達しているのが分かった。
一回ごとに、フライパンの角度だったり、ゴムベラの使い方だったりを詩乃からアドバイスされているうちに、十回目あたりには、麻美は自分でも驚くほどの美しいオムレツができるようになっていた。
ぼてっとした黄色いオムレツ。ペティナイフで真ん中に一本切れ目を入れ、左右に広げると、とろっと半熟の玉子が湯気と一緒に姿を現す。
「すごい!」
麻美は、自分が作ったとは思えないオムレツを見て声を上げた。
時間にして、まだ三十分程度。準備を含めても一時間経っていない。
たった一時間の間にここまで――。
「綺麗にできたね」
麻美の渾身のオムライスを見て、詩乃が言った。
詩乃は、麻美が作った大量のオムレツを使って親子丼を作っていた。しいたけの出汁の香りが、フライパンから漂っている。
「ありがとうございます!」
麻美は、達成感に任せて詩乃に言った。
詩乃は、目じりに少し皺が寄るだけの微笑を返した。
詩乃の控えめなその微笑を見た時、麻美は、詩乃に対して大きな負い目を感じた。
「あの、材料費、やっぱり私が全部払いますよ」
「いいよ、今更面倒くさい」
材料費は、割り勘で払っていた。
詩乃は麻美の作ったオムレツで親子丼とひき肉とスクランブルエッグのあんかけ、それに形の良いオムレツを使ってオム焼きそばを作った。ちょうど、溶き卵の残りも、あとオムレツ一回分くらいになっていた。
詩乃は、三種類の料理をそれぞれ半分くらいずつタッパーに入れ、「これお土産ね」と言って、重ねて麻美に差し出した。
「あとは、今日みたいに一時間くらい集中して明日、明後日で作れば、それなりの形になるよ」
「え、もう終わりですか?」
「うん、あとは慣れ」
「でもまだ――ライスの方やってないですよね」
詩乃は小さく笑って応えた。
「ケチャップライスは作れるでしょ。こだわればそりゃ、それなりだけど、オムライスの花形はオムレツなんだから、友達に振る舞うんだったら、花形に華があればいいんじゃないの」
それは確かにその通りだと麻美も思った。
良かったじゃないか、三週間でできるかどうかわからなかったものが、一回の、しかも一時間にも満たないレクチャーで済んで。あと何回か自分で作って慣れればそれでいい。わざわざ誰かに教えてもらう必要もない。
でも、と麻美は思った。
――もう少し、水上さんに教えてもらいたい。
「でもやっぱり、店の看板に傷つけたくないので、もうちょっと教えてもらいたいんですよね。ライスの方も。――ちゃんと、オムライスの形で作れるようになるまで……迷惑ですかね?」
詩乃は、どうして麻美がそんな事を言って粘るのか測りかねて考え込んだ。
そんなに料理が好きという風にも見えない。今回の頼みだって、美味しい料理を友人に振る舞いたいからではなく、恥をかきたくないからという動機だ。今の出来が、むしろ麻美と言う女性には全くよく似合っているではないかと思う。卵を混ぜる時の泡の考え方だとか、半熟の加減、ご飯の水分、ケチャップの酸味やタマネギの甘みのバランスなど、そんな内面的なこと、興味があるのだろうか。少なくとも、店の看板云々なんていうのは、全く思ってもいないことだろう。
「まぁ、いいけど」
詩乃は怪訝な様子を見せながら応えた。
なんでこんなに不機嫌なんだろうと思い、麻美は一つの可能性に気づいた。
「あ、水上さん、彼女いたりします!?」
「いないよ」
ぶっきらぼうに詩乃は応える。
前にそんなこと言ってましたもんね、と麻美はけらけら笑った。
馬鹿にしてるのかと、詩乃は唇を結ぶ。いや、麻美が自分のことを馬鹿にしているのは知っていた。麻美が入りたての頃、店長と麻美と、もう一人のバイトと、閉店後の片付けをしている時に、たまたまその頃、不倫についての発言でちょっとしたバッシングを受けて話題になっていた柚子の話が出た。
その時に詩乃は、柚子と高校の時同級生だったと、三人に話した。「可愛い顔して女子アナってドロドロしてそうだ」とか「実は新見アナも、不倫してんじゃないの」だとか、そう言った意見を皆が言い始めたので、思わず、詩乃は打ち明けたのだ。同級生だった、ということだけ。
流石に詩乃の同級生となれば、三人も女子アナとはいえ安易に柚子の悪口は言えない。三人は柚子をネタにするのをやめ、代わりに、恋愛の話になった。彼女はいないと詩乃が言ったのは、その時だった。
不満そうな詩乃の様子を見て、麻美は慌てて繕うように言った。
「安心しただけですよ。やっぱり、彼女さんいたら、流石に自宅上がるのまずいじゃないですか」
今日何度目か、詩乃は舌打ちを我慢する。
どうも麻美は、嘘ばかりで嫌だと詩乃は思っていた。本心を隠した探り合いのようなやり取りは、面倒で疲れる。そもそも、そこまで本心を隠して建前や見栄を張る目的が全く見えない。常に自分の優位性を示していたいという見え見えの根性を、隠そうとしていることが鬱陶しい。
詩乃は、麻美が他のバイトに、自分の陰口を言っていることを知っていた。聞いたのはたった一回だったが、詩乃はそれで、麻美に対する見方を定めた。麻美の中では自分は、同級生の女子アナにストーカー的な想いを抱く憐れな三十路男なのだ――。
「明日もいいですか? 店終わった後、同じ時間で」
「いいよ」
麻美を玄関から送り出した後、詩乃はウィスキーグラスに氷を入れて、冷蔵庫の脇に置いておいたゴールドラムを注ぎ、ぐいっ一息で飲み欲した。それから居間に入り、デスクチェアに座り、空のグラスに二杯目――ウィスキーを注ぐ。
「はぁ……」
今日もため息をつき、天井を仰ぐ。
いつもより一時間遅くそうしているだけで、今日も昨日と変わらないサイクルに突入する。酒で額の上の方、たぶん前頭葉のあたりだろう――そこが、カッカと熱を持つ。モニター上の白紙を眼前に、キーボード前の両手を握ったり、開いたりして、書きあぐねる。
一体自分は、何を書いたらいいのだろう。
ぎゅっと目を閉じ、首を垂れて、詩乃はその日も、何も生み出せない真夜中から早朝までの七、八時間程度を過ごすのだった。