かさね色目の陽炎(2)
とりあえず一口飲むと、自然と、深いため息が出てくる。
思い出すのは、住み込みで働いていた茨城での日々だった。
「――詩乃君」
と、春は自分のことをそう呼んで、最初からずっと懐いてきてくれた。
住み込み先で七年間世話になったのは、新倉さん一家。春は、その主人の孫にあたる。主人と奥さんと、その息子夫婦、そしてその子供たちの三世代が一緒に暮らしていた。春は、その息子夫婦の長男である。詩乃が新倉家にやってきたとき、春はまだ小学校にさえ上がっていなかった。それでもどういうわけか、最初から春は、自分を気に入ってくれていた。
詩乃は春のために、月に一作品ずつ、童話を中心とした短編を作り、作っては春に読ませていた。無理やり読ませたのではなく、一度読み聞かせをしてやるとそれが春の病み付きになった。
春は小学校に上がると地元の少年団でサッカーを習い始めたが、サッカーの練習と同じくらいに読書も好きで、詩乃も驚くほど熱心に本を読んだ。詩乃は、週に一度か、少なくとも二週に一度は、春を車に乗せて古本屋に行き、本を買ってやった。「詩乃君がお父さんだったら良かったのに」と、春はたまにそういうことを平気で実の親の前で言うものだから、詩乃はそのたびに焦ってしまったものだった。
新倉家での生活は、最初こそは慣れない農作業や、合宿シーズンが来れば食事を作ったり、送迎業務を任されたりと大変だったが、三年が過ぎた頃には、その生活にもすっかり慣れて来て、穏やかな日々を過ごせるようになっていた。大雨や日照りや、トラクターやマイクロバスの故障なんていうトラブルがあった時にはそのつど大童だったが、どうしようもないような事でも、なんとかなるものだった。
新倉家の人間も、農家仲間も酒が好きで、何か一つの山場を乗り切るたびに、集まっては、日本酒と焼酎を中心とした酒宴が開かれた。夏場はメロンの収穫と夏季合宿期が重なって、一年で最も忙しい二か月だったが、それでも、時間を見つけては地元の若者や農業仲間を集めてバーベキューや、徒歩三分で着くだだっ広い白砂のビーチでメロン割りやビーチボールをして遊んだ。夏のメロンの収穫が終わると、それから春先までは、新倉の主人のツテを頼って、鹿島神宮近くの洋食店で働いた。
ずっと居ていいと、新倉家の皆は、そう言ってくれていた。
乱暴に聞こえる主人のきつい茨城弁も、酒焼けしたような大声も、慣れてしまえば、怖いどころか面白かった。見ず知らずの、居候の自分をすんなり受け入れて、ずっと居ていいなんて言える人情を持った人たちだった。
『ずっと居ようかな』
借金をすべて返した祝宴の日の夜、詩乃はちらりとそう思った。
ここの、穏やかな生活も悪くない。しかしそう思いながらも、それを絶対に拒絶する自分がいた。東京に戻ると言った時、一番悲しんだのは、春だった。東京に戻ることを家族の皆の前で告げた日の夜、春は二階の隅の、自分が借りている部屋にやってきた。
「行っちゃうの?」
捨てられた子犬のような目――春はこの時、小学五年生だった。
まだきめ細かい白い頬を撫でると、いつもはそれで、嬉しそうにくすぐったがる春だったが、この日はただ悲しそうに、目を伏せていた。
「ずっと居ればいいのに」
春はそう言った。
「行かなきゃいけないんだ」
自分は、そう答えた。それから、「いつかはそんな時が来ると思っていた」と言うようなことを言った。
詩乃は目を開けた。
かすかに残っていたウィスキーと、すっかり解け切った氷が、グラスの中で混ざり合っていた。神棚には、大事な筆記具が三本並んでいる。一本は緑の万年筆、もう一本は深紅のボールペン、そして一番新しい一本は、銀色のシャーペン――別れ際、春から貰ったプレゼントだ。
自分があげたのは、春が気に入っていたにょろにょろのぬいぐるみと青い万年筆、それと、最後の短編童話だった。高校の文芸部時代に書いて部誌の一編として作った童話、『怪我した渡り鳥』に加筆をしたもの。飛び去った渡り鳥は、最後にまた、自分を手当てした動物園のペンギンと再会する――というハッピーエンドにした。本当は、怪我の治った渡り鳥――オオマシコが動物園を飛び去っていく所で幕を閉じる話だった。
なんであんな加筆をしてしまったのだろう。
そのことを考えるとむしゃくしゃして来て、詩乃はもう一度台所に行くと、グラスの中身を洗い場に乱暴に捨て、新しい氷を入れて戻ってきた。そうして二杯目のウィスキーを注ぐ。
向こうに居たらダメになると思ったからここに戻ってきた。
でも今はどうだ。
アイデアばかりが浮かんでは沈み、浮かんでは沈み、これという作品なんか、一つも出来上がらない。
――結局、まだダメじゃないか。
詩乃は、ぐいっとストレートに近いウィスキーを飲んだ。
ぐらりと、酔いが回ってくる。
酒気を含んだため息をつき、天井を仰ぎ、目を瞑った。
十月最後の月曜日、〈とろたま〉での閉店業務を終えた詩乃は、駐輪場でいつものように清彦と別れ、自宅への短い道を歩き始めた。しかしほんの数歩と行かないうちに、ぱたぱたと後ろから足音が聞こえて来た。詩乃は何となく、その足音が自分に向かってきているような気がして振り返った。
前川麻美だった。
ペタンペタンと、白いパンプスの音を響かせて、やってくる。鎖骨のちらちら見えるスリットの紅色シャツにミモレ丈の黒いプリーツスカート。ベージュのコートを羽織り、白いトートバックを肩から下げている。
〈とろたま〉のホール担当をしている女子大生で、バイトの男たちからの人気はあったが、詩乃の眉の間には、自然と皺が寄った。
「水上さん、お疲れ様です」
「どうしたの」
詩乃は立ち止まって、答えた。今日はさっきまで、一緒に働いていた。麻美からの「お疲れ様です」は本日二度目である。
「いや、ちょっと、あの、聞いてほしいことがあるんですよねぇ」
ちらりと、上目使い。
舌打ちしそうになるのを詩乃は押えて、応えた。
「何?」
「水上さん、このあと時間あります?」
詩乃は渋い顔のまま考えた。
追い払うのは容易い。「無い」と答えるだけで良い。しかしあの前川麻美が、よりにもよって自分なんかに相談とは、何事だろうか。
「今日時間なければ、明日でも良いです! 明日のバイト後、どうですか」
明日も、十八時から二十一時半過ぎまでの第四シフトでは、詩乃は麻美との勤務になる。
プライドの高そうな――というより、自分のことをフリーターだからと見下している麻美が、そうまでして頼ってくるのには、それなりの理由があるのだろう。
詩乃は、麻美のことは好きではなかったが、自分を頼るというのは、恐らく麻美にとってはそれなりに屈辱的なことに違いない。その麻美の小さな忍耐は報われるべきだろうと詩乃は思った。
「いいよ、この後でも」
「ホントですか? ありがとうございます」
「何の話?」
「えっと……」
麻美は、じっと詩乃を観察した。
麻美は今まで、詩乃とは一年ちょっと同じ職場にいながら、会話らしい会話はほとんどしたことがない。週にシフト二枠分の八時間、場合によっては追加でもう一枠か二枠、一緒に働いている。その割には、ホールとキッチンという担当場所の違いはあれど、言葉を交わす量も回数も少ない。料理の受け渡しというような、業務的なやり取りしかほとんどしていない。
最近までは、別にそれでも良かった。麻美にとっては、詩乃は、いないと困らないような存在でも、進んでコミュニケーションを取りに行こうと思える面白い存在でもなかった。
「――何か食べながら、話ししません?」
麻美は、通りに光るファミレスの黄色い電光看板を見やり、詩乃に提案した。
詩乃は振り返り、麻美の視線の先を確認した。
今更ファミレスでなんか食べたくないよと、詩乃は思った。ドリンクバーさえ、詩乃には高く感じられた。コーヒーも紅茶も、酒類も、家に帰ればもっと良いものがある。
「ここじゃダメ?」
え、と麻美は一瞬固まった。
麻美からすれば、外での立ち話なんていうのは全く芋っぽく、受け入れがたかった。
詩乃も、そんな麻美の反応を受けて、むかっと腹が立った。
やっぱりこのまま帰ろうかな、と詩乃はその言葉が舌先まで出かかった。
「オムライス、作り方教えてほしいんです」
麻美は、喉の奥から無理やり言葉を押し出した。
結論を急かされたように思って麻美は内心腹が立っていたが、その感情は笑顔の奥にしまい込んだ。
「キッチンやるの?」
詩乃は、麻美に聞いた。
「そうじゃないんですけど」
麻美は笑顔を崩さないようにしながら、もう一度ちらりとファミレスを見やった。それ見たことか、やっぱり理由を話すことになるのだから、最初から、どこか店に入った方が良いじゃないかと、麻美は思った。
「――やっぱり寒くないですか?」
麻美は再度、詩乃に提案した。
しかし詩乃も頑なで、ファミレスに入るつもりはなかった。
「いいよ。教えるよ」
詩乃は拗ねた子供の様に言った。
「――え、教えてくれるんですか?」
「うん」
麻美は、また固まった。
駆け引きも何もあったものじゃない。麻美は、詩乃に「うん」と言わせる色々な作戦を立てて来ていた。普通の会話から色仕掛けまで、あらゆる方法を。最初から気の無い相手だから、思わせぶりで感情を揺さぶって利用することには、少しの罪悪感もない。それどころか、自分の掌の上で年上のダメな男を転がせるかもしれないということを、楽しみにさえしていた。
「いいんですか?」
「いいよ」
麻美が確認し、詩乃が即答した。
手ごたえの無さに、麻美は、とぎれとぎれに笑うしかなかった。
「いつから?」
「いつから大丈夫ですか?」
「今日からでもいいよ」
「え、マジですか!?」
思わず、麻美が声を上げた。
というのも、麻美の願いにはタイムリミットがあった。早く教えてもらえるなら、それに越したことはない。場所は、わかっている。水上さんの自宅だろう。この近くだということは知っていた。
「うちの台所で良かったら」
よし来た、と麻美は思った。駆け引きをするまでもない。
「いいんですか!?」
大袈裟に喜び、詩乃の「いいよ」という言葉を再び引き出す。
「じゃあ――」
と、詩乃はオムライスを教えるにあたり、一番必要な卵の買い出しをしようと麻美に提案した。