かさね色目の陽炎(1)
「はぁ……いやぁ、助かったよ」
包丁を砥石で磨きながら、志波清彦が言った。
清彦は、オムライス専門レストラン〈とろたま〉北千住駅店の店長である。今年で三十三歳、足腰のしっかりした、年相応に自立した男で、三十になったばかりの彼女と同棲している。三年前、北千住駅店がオープンする前は上野店に勤めていた。
「人見つけた方が良いですよ」
洗い終わった調理道具をそれぞれの定位置に戻しながら、水上詩乃は清彦に言った。
詩乃がこの店――〈とろたま〉の北千住店に勤め始めたのも、三年前だった。茨城県の農家兼民宿に住み込みで働き、高校卒業と同時に負った借金の全てを、予定より早く完済して北千住に戻ってきた。食費くらいは稼がなければと思っていた時に、開店したばかりで人出の足りていなかったこの店の求人を見つけたのがきっかけだった。
ステン張りのクローズドキッチンに二人、並んで閉店業務をするのは、最早いつもの光景だった。ディナー時から閉店業務までを担当する第四シフトに、詩乃は週四で入っている。今日の様に、急な呼び出しがあると、週五になる。
もともとは、週二回、十六時間程度の勤務だったが、だんだんと店の必要に迫られて、勤務時間が増えてきている。
清彦は包丁の手入れを終えた後、今日使った材料の余りを、保存用の容器に詰め替える作業に移った。それをしながら、清彦は詩乃に聞いた。
「お前、やらない?」
「正社員の話ですか?」
「うん。てか、調理師免許取ったの、そのためじゃなかったの?」
「いや、趣味ですよ」
清彦は顔をゆがめた。
店には清彦の他に副店長の正社員が一人と、契約社員が二人いる。しかし実の所、現場レベルでは、清彦はその三人の社員以上に、詩乃のことを重宝していた。詩乃は、責任感もあるし、調理の方も申し分ない。レジと接客は嫌っているが、それでも、頼めばやってくれる。そして何より、細かい所で気が利く。
「悪い話じゃないと思うんだけどな」
「働きたくないんです」
「なんだよそれ」
そう言いながら、頼めば大抵入ってくれるじゃないか、と清彦は思った。今日も、急遽来られなくなった大学生バイトの代わりに、ディナー時のホールを駆け回ってくれた。本当はキッチン二人、ホール二人の四人で回す所を、今日は三人で凌いだ。自分と、副店長の小西と、そして詩乃。仕事のわかる三人だから何とか回せたが、詩乃が来られなかったらと思うと、ゾッとする。この時間帯、どうしても詩乃を保険として考えてしまって、そこにシフト決定の甘さが出ている事を、清彦も自覚はしていた。
「無責任なの二人入れるより、責任感のある人を一人雇った方が良いですよ」
詩乃が言った。
「まぁ、そうなんだよな……」
「計算が立たないと、志波さんが大変じゃないですか」
清彦はそう言われて笑った。
確かに、それは道理だった。大学生のバイトは、求人を出すと今ではすぐに入ってくるようになったが、その責任感はピンキリだ。今日の様に、当日急に来られません、という奴もいる。それが今日は、たまたま二人重なり、まずい状況になった。
「だから社員にならないかって誘ってるんだよ」
清彦は詩乃に言った。
清彦は、副店長の小西には不満を持っていた。勤務時間外の仕事は、全くやろうとしない。今日も、バイトの詩乃に来てもらっているというのに、小西はと言えば、閉店時間になると、週の勤務時間を超えてるんで帰ります、なんて、平気で帰って行った。それに引き換え詩乃は、閉店業務まで丁寧にやってくれる。
「自分はいいですよ、そういうの」
調理用具の片付けを終えた詩乃は、鉄板の掃除をすでに始めていて、その作業をしながら清彦に応えた。わしゃわしゃとプレートを磨くそのやり方も、プレート面を傷つけないようにという配慮が感じられる。
「詩乃は、結婚する予定ないの?」
業務用冷蔵庫のがっしりした扉を閉めながら清彦は詩乃に訊ねた。
詩乃は、清彦のプライベートを多少は知っていた。五年付き合っている彼女がいて、三年前、北千住店勤務が決まったタイミングで同棲を始めたこと。最近はその彼女から、「結婚しないの?」という無言の圧をかけられていることなど。
「ないですね」
プレートの泡を水で洗い流しながら、詩乃が答えた。
清彦は、詩乃の気ままさが羨ましかった。
「彼女とか作らないの?」
清彦はそう言ってから、女の子の名前を並べた。〈とろたま〉に勤務する女性は、契約社員が一人と大学生バイトが八人いる。日中の第二、第三シフトに入っているパートの女性三人は勘定に入れない。その三人は、家庭を持つ母親たちである。
詩乃は、微かに自嘲を含んだ笑いを浮かべて答えた。
「そういうの向いてないです」
「向いてないって何だよ」
ガスレンジ周りの掃除を始めた清彦は、思わずそう反応する。
詩乃は清彦の隣からその後ろに移動し、シンクを磨き始める。
「どんな子がいいの、詩乃は」
「どんな子でもダメですよ」
「おい! お前、どういうことだよ」
「いや……彼女がいなくても、別に困ってないんで。……志波さんは、いて困ってるし」
そう言われると、清彦は、一本取られたような気分になった。確かに最近は、家に帰りたくないと思う時がある。「結婚」の二文字のために気が重い。
「いいこともあるから!」
詩乃は、小さく笑った。
例えば、と聞き返してこないあたりが詩乃らしい。清彦は少し悔しくなって、背中越しにはっきり聞こえるような声で言った。
「安心してセックスできる!」
ぶっと、詩乃はさすがに噴き出した。
「なんで急に――」
清彦は、自分も笑いながら応えた。
「違うから、安心感!」
げらげらと背中合わせに、暫く二人で笑いながら、清彦は自分の彼女の、営みの良さを詩乃に説明した。ひとしきり、ほとんど清彦が一方的にそんな話で盛り上がった後、詩乃は清彦に訊ねた。
「なんで結婚しないんですか」
詩乃の言葉は、グサりと清彦の胸に突き刺さった。
そのものズバリ、という言葉。
詩乃は、いつものようにピカピカに磨き上げたシンクの、残っている泡を水で流した。
「いやさぁ、色々あるんだよ。お前もさ、彼女作って、同棲してみればわかるよ」
そういうものですか、と流せばそれで終わる話だったが、何となく詩乃は一言言ってやりたいと思った。
「もし彼女出来ても、自分は同棲しないと思います」
「でもそれじゃ、結婚した後上手くやっていけるか不安じゃない?」
――何が不安なんですか?
詩乃は意見を言おうと口を開いたが、やめた。喉に蓋をして、口を閉じ、代わりの言葉を探す。口当たりが良く、後味のさっぱりした、毒にも薬にもならないような言葉を。
「確かにそういう点もあるかもしれませんけど」
「だろ?」
「でも、五年も待たせて、やっぱりやめるなんて言ったら、貴船の藁人形になりますよ」
「え、キフネ? ――いや、藁人形は勘弁だな」
そんな会話でお茶を濁して、詩乃はこの日の仕事を終えた。
駅の駐輪場で清彦と別れた後、詩乃は自宅へと、いつもの夜道を歩いた。
パジャマ兼用の長袖スウェットシャツにジーパン。それに、黒のダウンジャケットを羽織っている。貴重品を入れたショルダーポーチと、手提げを肩から掛けるいつものスタイル。手提げには、使った調理着の他に、タッパーが二つ入っている。今日店で余った白飯と、溶き卵だ。清彦は、詩乃にはいつも、その持ち出しを許していた。本当は規約違反だが、その特別扱いが、清彦なりの詩乃への労いだった。
一方通行の小さな路地。
高校時代に住んでいた安アパートを通り過ぎる。もうアパートは無人で、入居者の募集もしていない。そんな解体待ちのアパートが、この辺界隈にはまだ数棟ある。しかしこの十年で、駅前の再開発が随分進み、十年前とは、駅も駅前も、その様子が随分と変わっていた。怪しい雰囲気のキャバクラや、雑居ビルに色を付けただけのようなラブホテルも、今や取り壊されて、拡大されたバスロータリーと、ファミリーレストランや焼き肉屋や、チェーンのそば屋になっている。
通りを河川敷に向かってもうしばらく歩き、その河川敷の土手沿いに、詩乃の住んでいるアパートがある。二階建て、西洋風の外見。家賃は安いが、外装のデザインのおかげで安っぽさは感じない。詩乃の家は、そのアパートの一階の隅だった。
鍵を開けて玄関に入り、手提げを放って息をつく。
玄関は広くとられていて、すぐ右手に洗濯機が設置されている。詩乃は機械的に、手提げから今日使った服を引っ掴んで洗濯機に入れ、洗剤を適当にかけ、洗濯機を回した。ジャーと、水が勢いよく出てくる音を聞くと、少しほっとした気持ちになる。
手提げからタッパーを取り出す。
玄関から六帖の居間までの間には一帖半ほどの廊下兼台所があり、冷蔵庫もそこにある。詩乃はタッパーを冷蔵庫に入れ、その向かいの洗面所で顔を洗い、手を洗うと、居間に入り、デスクチェアに座った。
デスクチェア周辺のレイアウトは、高校時代から今まで変えたことがない。入口に向かい合う形でPCデスクを置き、その左右に、腰丈の本棚を置く。右手の本棚の上には、自分が大事に思っているものをレイアウトして、神棚のようにしておく。余った空間には敷きっぱなしの布団と、たまにしか使うことのない折り畳みのちゃぶ台が放り出してある。
マウスを触ると、PCモニターがデスクトップ画面を映し出す。
ほとんど無意識で、詩乃はワープロソフトのファイルを開ける。
白紙が画面に表示される。
そこで詩乃は、ふうっと息をつき、椅子に深く腰掛ける。
今日、この後どうなってしまうのか、詩乃はもうわかっていた。こうして今日も、一文字も書き出せないまま、もやもやと考えて、酒を飲み、炒飯を作って食べ、そうこうしているうちに椅子の上で眠くなって、うつらうつらと朝を迎えてしまう。寝るのは結局朝の六時か七時。そうして明日の夕方前に目を覚ます。それから準備をして、バイトに向かう。
その繰り返し。
バイトが無い日も同じようなもので、結局、椅子に座ってモニターに映し出される白紙を眺めている。北千住に戻ってきてからは、完結させられない書きかけばかりが積み重なり、賞にも、応募すらしていない。
このままじゃダメだと思いながら、詩乃は台所に歩いてゆき、ウィスキーグラスに氷を入れて戻ってくると、椅子の横、散らばり重なった書籍類の一画に聳え立つウィスキーボトルを引っ掴み、とくとくと、グラスにその中身を注いだ。