ハリネズミ(9)
下ごしらえの済んだ野菜、肉類を早速鍋で炒め始める。ごま油の香りがリビングに漂う。ジュワーという派手な音に、美奈は目を輝かせた。キッチンで動く柚子の姿を見て、柚子が料理慣れしていることが、美奈にはすぐにわかった。料理物の企画に出ている女より、よっぽど慣れている。
「あ、くつろいでていいからね。三十分はかからないと思うから」
カウンター越しに柚子が言った。
美奈は、柚子の背中の棚を見ていた。色々な種類の酒が、ガラスの棚に並べられている。グラスも、一種類や二種類ではない。美奈の視線に気づいて、柚子は応えた。
「カクテルの勉強の時に、一式そろえたんだ。で、ほとんど飲み切らないでそのままになってるの」
「普段飲まないんですか?」
「うーん、ワインが多いんだよね。でも、そんなに飲まないよ。週一回か二回」
「なんか、飲めるのにもったいないですね」
柚子は、美奈の顔をちらりと見やった。
美奈は、柚子の視線にドキリとした。新見さんは、私のことをどこまで知っているのだろう、と思う。心の内を全部見透かされているような気さえする。最近まで全然気づかなかったけれど、新見さんは、人の表情だけでなく、その心の中までよく見ている気がする。
「あの、新見さん」
「うん?」
「私、一つ謝らないといけないことがあるんです」
「え、どうしたのそんな、改まっちゃって」
柚子は、炒める手を止めず、視線も鍋の中に落としたまま言った。
美奈は、ぐうっと腹の虫が鳴り終わるのを待ってから口を開いた。
「飲酒の報道あったじゃないですか、私の」
「うん」
「あれ、本当なんです」
美奈は、口に出してそう言ってしまうと、急に、その場で泣き出してしまいそうな罪悪感に襲われた。
「私、高校生の時、あの報道にあった通りで、ちょっと悪い友達とツルんで、飲酒とか、平気でしてました」
美奈が告白すると、透かさず、柚子は声を上げて笑った。
「それくらい普通だよ!」
ジュー、ジューと、鍋と木ベラを動かしながら、柚子が言った。
「いや、でも、新見さん、私を庇ってくれたのに、なんか――」
申し訳なくて、と美奈は言おうとしたが、それを言う前に、柚子が言葉をかぶせた。
「アイドル時代だよね?」
「はい」
「色んな境遇があると思うんだ。誰もわからないよ。お酒が必要な時も、私はあると思うな。大変だったんでしょ、きっと、その頃」
柚子の言葉を聞くと、美奈の眼に、じんわりと涙が浮かんだ。
「でも、もし本当だってバレたら、新見さんまで……立場悪いじゃないですか。上の人に食って掛かって、その挙句私が……本当だってわかったら……」
「いいのいいの、私がそうしたくてしたことなんだから」
柚子は、干ししいたけの戻し汁に調味料を加え、それを鍋に入れた。それから、二枚のクッキングシートにご飯を平に敷き詰める作業はし始めた。
「――私、父親がアル中で、今施設にいるんですよ」
柚子は手を止めて、顔を上げた。
「まぁ、良くある話と言うか、そういう家庭だったんです。だから、それってある意味、チャンスじゃないですか。私、〈悲劇のヒロイン売り〉する覚悟はできてるんです。『菊池美奈、元アイドル女子アナの壮絶人生、母に捨てられ、父親はアル中』……なんて、別に捨てられちゃないですけど、みんな好きそうじゃないですか、そういうの。だから私、もし落ちても、復活してやりますよ」
ショックを受けて固まる柚子を見て、美奈は笑ってしまった。新見さんらしい反応だなと美奈は思った。哀れっぽい身の上話なんかするものかと、ずっと美奈は思ってきたが、相手が柚子だと、不思議と嫌ではなかった。
「新見さん、ぶん取っちゃえばよかったんですよ、〈昼いち!〉のメインMC。もったいないことしましたね」
美奈はそう言って笑った。しかし柚子が神妙な表情を崩さないので、美奈は慌てて続けた。
「冗談ですよ。新見さん本当に、よく生き残ってきましたね」
柚子はそこでやっと、表情を緩め、おこげを作る作業を再開させた。
二人分のご飯を二枚のクッキングシートに敷き詰めた後、二段にしたオーブンレンジにそれを乗せる。それが終わってから、柚子はぽつりと言った。
「――私、何もないんだ」
ピっと、スイッチが押され、ブーンと、オーブンレンジが仕事を始める。
ふつふつと、鍋が煮え立つ。
火を弱火にして、用意しておいた水溶き片栗粉を混ぜながら、鍋の中に入れる。そしてまた、少しずつ火を中火に戻していく。その作業をしながら、柚子は言った。
「出演を増やしたいとか、番組持ちたいとか、こうなりたいっていうのが、なんにも」
柚子の言葉の寂しさに、思わず美奈は立ち上がって、キッチンで料理を作る柚子のもとに近寄った。
「――何か手伝いますよ。お箸とかお皿とか」
美奈はそう言って、軽く柚子の肩に触れた。
ありがと、と柚子は呟くように礼を言い、美奈に食器の準備を任せた。
二人分のおこげとスープを美奈がテーブルに運び、柚子は、おこげにかける餡を、鍋ごとテーブルに運んだ。柚子は二人分のグラスを用意し、今日のために買っておいたリースリングを注いだ。その黄金色の美しさに、美奈は息を呑んだ。ワインなんてこれまでも、それこそ、何十万するとかいうものも、それを誇りにする男との会食では飲んできたが、今日ほどその色を美しいと思ったことはなかった。
柚子がお玉で、鍋の八宝菜風の餡を美奈のおこげにかけた。
じゅわあっと、おこげがいかにも旨そうな音を発し、湯気が立ち上った。美奈は声を上げて喜んだ。スープは黄金のとろりとしたオニオンスープ。どんなコース料理も、これには及ばないだろうと美奈は思った。
「それじゃ、食べよっか」
「はい」
いただきます、と言って二人はワインを飲んだ。
おこげは、絶品だった。さやいんげんの緑が鮮やかで、肉厚のエビがぷりぷりしている。仄かに香る柚子の香りが、後味を爽やかにした。それがまた、リースリングとよく合う。
美奈は手始めに番組やスタッフの愚痴を柚子に投げかけた。柚子はいつもの通り、安易にそれに同調することなく、楽しそうに笑っている。今までは、柚子のそのやり方を「ズルい」と思っていた美奈だったが、自分の価値観では柚子という人間が測れないことを知ると、柚子の態度に対する捉え方がガラりと変わった。
もしかすると新見さんは、私が思っているほど難しくないのではないか。面白いと思うから笑って、答えられないと思うから答えない、ただそれだけの事なのではないか。実は、打算なんかは、ほとんど働いていないのかもしれない。そんな人間いないとは思うけれど、だけど、どうなんだろう。
そんな事を考えながら美奈が美味しそうにおこげを食べていると、ある時にふっふっふと、柚子が笑い始めた。
「え、なんですか?」
美奈も、釣られて笑いながら柚子に聞いた。
「いや、なんか、そんな良いドレスで中華料理食べてるっていうのが、なんか面白くて」
「そうですか!?」
美奈は、意外なことを言われたような気がした。
偉そうなフレンチやイタリアンのコースなんかより、よっぽど価値がある。キャビアやトリュフやフカヒレがなんぼのもんだと美奈は思った。――今日は、この衣装でやっぱり正解だった。
「普段絶対着ませんけどね」
美奈が言うと、柚子は笑った。基本的にアナウンサーは、高級すぎるものは身につけない。生放送の帯番組では局の用意したものを着、その影響で自然と、通勤時の服装も、〈女子アナ〉っぽくなっていく。同性から嫉妬されない程度の、清潔で、ほどよく明るい印象を他人に与えるいい子ちゃんファッション。
「――女の反感買って支持率落ちるのも馬鹿らしいじゃないですか」
からっとした口調で美奈が言った。
柚子はにこにこ笑いながら、美奈の言葉を聞き、グラスに口をつける。その微笑みの中に、美奈はどうしても嫉妬の色を見つけられず、そのことにやきもきしてしまう。
「新見さん、嫉妬とかしないんですか?」
「え!?」
「だって、新見さんって、違うじゃないですか。私は正直、ついこの間まで、打倒新見柚子でしたよ。フォロワー数、視聴率、グッズの売り上げとか、なんでも競って、私の方が良い数字だと、それで舞い上がってたんですよ。なのになんか、全然張り合いないじゃないですか――新見さんが私にライバル心とか、そういうの燃やさないと」
柚子は、歯に衣着せぬ美奈の物言いに、笑ってしまった。
「私、菊池さんのこと好きだよ」
「やめてくださいよ!」
ぐいぐいっと、美奈はワインを飲み欲した。
柚子は早速、美奈のグラスにワインを注いだ。
「嫉妬は、するよ」
柚子が応えた。美奈はじっと、柚子の顔を見つめた。
「結婚した友達とか」
「仕事とか、キャリアの方じゃないんですね」
「うん。高校の時の友達は随分結婚しちゃってさ。いいなぁって」
「新見さん、結婚したいんですか?」
「そう言われると、どうだろう」
柚子は首をひねり、おこげを齧った。
「菊池さんは、思わない?」
「私はとりあえず、ここで知名度上げて、人脈作って、三十までにフリーになって、それから結婚っていう人生設計があるんです」
「おぉ……」
「――って、思ってたんですけど、なんか最近、グラついてます」
「何かあったの?」
今度は美奈が笑う番だった。
その原因は、まさに柚子だった。
「新見さんは、フリーになるつもりないんですか?」
「ないかなぁ」
「新見さんだったらフリーでも充分やっていけると思いますよ。話、来てないんですか?」
「来てないことはないけどね……」
柚子は難しい顔をして考え込んだ。
「新見さん、どうしてアナウンサーになったんですか?」
「……」
「私は、色んなものを見返すためです。アイドル時代、私を裏切ったメンバーとか、私を馬鹿呼ばわりしたプロデューサーとか、親も……アナウンサーは踏み台です、私の」
美奈は、手持ちのカードを全部晒し出したような気分だった。
どうして柚子を前にするとそうしたくなるのか、やっぱりまだ柚子に対する、庇ってもらった後ろめたさを感じているのか、それとも、貸しを作りたくないという心理が自分にそうさせているのか、美奈にはわからなかった。
「私、そういう強い気持ちが無いんだ」
柚子は、そう言って、最後のおこげを齧った。
「別に強いわけじゃないですよ。単なる復讐心っていうか、ドロドロした自己顕示欲というか、虚栄心というか……皆そんなものだろうって思ってたんですけどねぇ」
美奈は、ワイングラスをくるくる揺らして、金色の液体の動くのを眺めた。
「不思議なんですよ。普通……新見さんみたいな人が、この世界にいるっていうのが、なんか、すごく似合わないって言うか――いや、変な意味じゃないですよ。良い意味で、私、今まで会ったことないですよ」
美奈にそう言われて、柚子は俯いた。
何で褒めているのに落ち込むのと、美奈は慌てた。仮にも、新見さんは先輩だ。先輩らしく私の事なんて菊池って呼び捨てにして、上から目線で説教の一つ二つ垂れればいいのにと思う。まして、貸しが一つある相手なのだから、それくらい威張ったって罰は当たらない。私だって、助けてもらったんだから、それくらいは許容する。私もそこまで恩知らずではないし、わからずやでもない。それなのにどうして、私なんかの言葉を真に受けるのだろう。