ハリネズミ(8)
「アートとは何か、って命題があるみたいだよ」
明は驚く柚子に耳打ちした。
作品のキャプションボードには作品のタイトルと作者、作品の差材やサイズや、発表年が記されている。そして一番下には、どの作品にも金額がはっきりと明示してある。どれも、柚子には眩暈のするような金額ばかりだった。そして、そういった作品のキャプションボードの隅に、目の前で「売約済み」を示す赤いシールが貼られてゆく。
「気に入ったのあったら教えてよ」
明は、柚子の反応を楽しみながら言った。
カラフルな棒人間が抱き合っている絵、ホットドックから髭が伸びているオブジェ、アニメ絵と新聞を切り貼りしたような作品へと、柚子は次々と視線を走らせた。
どれもこれも、ぱっと見のインパクトはすごい。
カラフルで、斬新で、そのデザインの中に社会風刺的な意味が隠れていそうな、知的な雰囲気を漂わせている。こっちは五百万、あれは一千万、その隣の、大きな丸がいくつか重なり合っただけの絵は二千万円の価値があるらしい。
柚子は、手提げを持つ手をぎゅっと、胸の前で握った。
「折角来たんだし、一つくらい買わない?」
振り向いた明に、柚子は慌てて笑顔を見せる。
「どうしたの?」
「ううん、なんでもない。ちょっと、驚いちゃって」
「そのうち慣れるよ。俺も、芸術のことはわからないんだけど、もっと気軽にさ、投資と思えばいいよ」
「うん――ちょっと、お手洗い行ってくるね」
「あ、あぁ、ごめん、そっか。俺、この辺にいるから」
「うん、ごめんね」
柚子はそう言うと会場を出た。花瓶に花が飾ってあるゆったりした絨毯の廊下を歩いて、トイレに入る。洗面台の前で柚子は立ち止まり、鏡と向き合った。柚子は、自分の表情の無い顔を見て焦った。バックを置いて、両手で自分の頬をぐにっと摘まんだ。目を閉じて、瞼と眼球を揉み解す。目を閉じると、心臓に棘でも刺さっているかのような、痛みを伴うほどの心地の悪さをはっきりと自覚した。
これまでも、こういうことはたまにあった。突然、猛烈な胸の違和感――心の奥につかえを感じて、苦しくなる。そういう時は、どうしようもないので、ぎゅっと目を閉じて、唇を結んでやり過ごす。それから、深いため息の中に痛みを逃がす。そうすると、少しは楽になる。
いつも通り柚子はそうして、すうっと鼻で息を吸った。目を開けると、今度は人恋しさがじんわりと体中に広がってくるのだった。体が冷えて、人の温もりが恋しくなる。
柚子の身体は、前の食事の時に感じた明の温もりを思い出した。あの時、自分は女なんだなと感じた。明の、男の胸板。腕の筋肉の固さ。自分の体重を全部預けても、びくともしなさそうな力強さ。そこへ、全部預けてしまう心地よさと安心感。
あれが、「幸福」というものなのかもしれない。麻酔のような浮遊感と、一歩間違えれば、依存してしまいそうな中毒性を持っている。
柚子は手を洗い、会場に戻った。
柚子が戻ると、明は少し心配そうな気配を含んだ笑顔の表情で柚子を迎えた。
「美術館と違って、ちょっと騒がしかったかな」
「でも、こういうのも楽しいよ。なんか、熱気がすごいよね」
「実の所、芸術の革を被った競馬だよ。どれが万馬券になるか見てるんだ」
柚子はにこりと笑うと、明の手をぎゅっと掴んで握った。
急にどうしたのかと、明は驚いた。
「手、冷たいね」
「え、本当?」
「うん」
柚子の手を握りながら、明は、自分の思春期のような感情に苛立ちを覚えていた。手をつないだだけなんて、それだけで舞い上がっているなんて、どうかしている。女を知らないような、子供じみた男とは思われたくない。「君だけだよ」なんてセリフを吐くようなダサい男になり下がるつもりはない。一瞬の遊びだとしても、それはそれとして割り切れるような男でなければ――その自信が無かったら、女のほうだって、安心して俺に心や体をあずけられないだろう。
「他に行く?」
「ううん、もうちょっと見て回ろうよ」
明の言葉に柚子は応えて、二人はアート作品を存分に見て回った。
この日、その後はホテル内のドレスコードの緩いカジュアルレストランでディナーを楽しみ、帰りは、明が車で、柚子を自宅近くまで送った。
十月最後の土曜日、日暮れ後の千葉みなと駅に美奈はやってきた。自宅最寄りの神田駅からタクシーを拾い、高速を通って一時間。どうしてこんな辺境の地に新見さんは住んでいるのだろうと、困惑しながら、ターミナルを出て行くタクシーのバックライトを目で追った。
マスクをとって、羽織っただけのトレンチコートのポケットにしまう。
こんな時間のこんな場所に、〈テレ城のエースアナ〉がいるとは、誰も思わないだろう。日も暮れて、街灯に照らされなければ顔も良く見えない。
そんなことを考えて、美奈はため息をついた。
「馬鹿馬鹿し……」
黒のドレープドレスに金チェーン付き黒ブーツ、チドリ柄のタイツを穿き、首には真珠の二連ショートネックレスをつけてきた。ピアスも金チェーンの真珠。白に金色金具のミニバックと手土産の袋を手に持ち、その左の手首にはシャネルのJ12のホワイト。デートでもこんな格好をしたことはない。パーティーにだって着て行ったことのない組み合わせ。大好きなサンローランで揃えた、時計抜きでも馬鹿げた総額になるこのセット。それを、今日は着て行こうと思った。
別に今日、特別なパーティーがあるわけではない。ただ、新見さんの家で、一緒に食事をするだけだ。誘ったのは自分だった。すると新見さんは、家に招いてくれた。それだけの行事に、この仰々しい見事な装い。本当に馬鹿馬鹿しい。
どうしてこんな服を着て来たのか。
食事の後、新見さんがまたカクテルを作ってくれるというイベントがあるにせよ、やりすぎだ。カクテルの味なんて、自分にはわからない。
自分は一体、どうしてこんなことをしているのだろうと、美奈は自分でも自分のことが分からなかった。
駅前の暗がりに佇む場違いな美人を柚子が発見したのは、美奈が自分について考え始めたすぐ後だった。暗がりとはいえ、美奈の姿は、柚子にははっきり見えた。
「菊池さん、あははは、ごめんね、ようこそ」
柚子は、美奈の格好を見て、声を出して笑った。まさかそんな恰好で来るとは思っていなかった。柚子の格好はと言うと、ふんわりしたブラウンの長袖ニットにベルボトムジーンズ。連れだって歩くには違和感しかない。
「格好いい、すごく似合うね、そういう格好も。綺麗。私もドレスに着替えようかな」
けらけらと柚子は、なかなか笑いが収まらなかった。
その、笑われているということが、美奈には心地よかった。
そうだ、私はたぶん、新見さんに笑ってほしかったのだ。コテンパンに笑われて、馬鹿にされたかったのだ。こんなアホみたいな恰好をして、シャネルの時計なんてつけて、真珠のネックレス? 馬っ鹿じゃないの! って、そんな風に笑ってほしいと思っていたのだ。
美奈も、柚子に釣られて笑った。
「新見さんのお家に行くんで、私も本気出さなきゃと思って」
暫く笑いながら、二人は柚子の家に向かって歩いた。
五分ほどで、柚子の家に着いた。五階建てのマンションの、柚子は二階に住んでいる。エレベーターを開き、柚子は美奈をエスコートした。その関係性がおかしくて、二人はそこでも笑いあった。
美奈を家の中に招き、リビングで美奈のトレンチコートとバックを預かり、サボテンのような形の木製ラックにそれをかける。美奈のシトラス系の香りが広がり、美奈のドレス姿が露になる。
「なんか、ドキドキしちゃうね」
改めて美奈の姿を見て、柚子は言った。
美奈はわざと、小悪魔な笑みを作ってにやりと笑った。
「じゃあ今日は、新見さん堕としちゃいますね」
「何言ってるの」
柚子は笑いながら、キッチンに入った。