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星の海で遊ばせて  作者: ノマズ
5,この空が崩れ落ちても
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ハリネズミ(7)

 日曜日――明と展覧会に行く約束の日だ。明は二時に、近くまで車で迎えに来てくれる。


 ひとまず柚子は寝室を出てシャワーを浴び、その他はリビングで、いつもより少し遅い朝食を摂った。いつものように食パンにバター、そしてココア。


 カウンターキッチンを備えた十四帖のリビングには背の低いソファー用のテーブルが一つと二人掛けのソファーが一台、四人掛けのテーブルと椅子が一セット。リビングの隣には、がらんとした六畳の和室があり、衣桁に着物が飾りかけられている。赤地に蝶とアジサイの柄の入った振袖である。柚子がナレーションを務める〈トレンドアップ!〉内で今年の三月、着物屋を紹介した回があり、その取材の時に思わず衝動買いしたものだった。リビングにいる時、ふと視界の片隅にでもその振袖があると、柚子は何か、不思議な安心感を得るのだった。


 ココアを飲んで、柚子はほうっと息をついた。


 静かで、広い部屋。


 柚子は習慣的にテレビを点ける。


〈おしゃべりサンデー〉がやっていた。アラフォーの女性タレント、女優、それに柚子の先輩である麻野という女性アナウンサーの三人が、お茶をしながらおしゃべりする三十分の生放送番組。


「麻野さん、元気そうだなぁ」


 柚子は一人呟き、パンをかじる。


 朝食の後は記事読みの練習をして、その後は、本を読むことにした。柚子の読書の習慣は、高校時代からずっと途切れずに続いている。今読んでいるのは、『ロビンソン・クルーソー』。残り二百ページほどあったが、夢中になってしまい、読み終わって時計を見ると、もう一時になっていた。携帯にも、明からのメッセージが届いていた。


『おはよう。今日は楽しみだね。予定通り、二時には着くよ』


 柚子は慌てて返事を返し、ぱたぱたと出発の準備は始めた。


 服は昨日のうちに決めていたので、寝室向かいの洋間に、もう着るだけという準備を済ませてある。深いUネックの白カットソーにライトベージュのワイドパンツ。家を出る前に、ブラウンのカーデガンを上に着ると決めている。


 服を着替えた後、柚子は化粧台に座った。オーク材で作られたクラシックな猫脚の化粧台。五杯の引き出しと、磨き上げられた天板には三面鏡を備えている。就職祝いで母が買ってくれたものだった。普段はしかし、あまり使っていない。日頃、メイクは会社のメイキャップルームで行うので、出社時はほとんどすっぴんにマスクという格好だ。


 普段は使わない、赤みの強いルージュを唇に引く。


 いつも自分で化粧をする時は、柚子は、姉をイメージしていた。


 柚子は子供の頃から、姉に憧れていた。柚子の姉、彩芽は、大学を出た後は観光業界のさるベンチャー企業の立ち上げメンバーの一人として会社を興した。旅行とファッションを融合させた、観光業では新しい形のビジネスモデルを生み出し、これが大当たりした。今は、彩芽は仕事で知り合ったイタリア人のファッションデザイナーと結婚して、ミラノに住んでいる。結婚は五年前のことだった。

ぐいぐいと自分の道を突き進む彩芽は、柚子にとってのアイドルだった。


 それに比べて今の、もうすぐ二十八になる自分はどうだろうか。


 大学ではミスコンに応募して、グランプリに選ばれた。そして今は、アナウンサーとして全国放送に出ている。入社二年目から朝の情報番組〈シャキ朝〉と〈おはようさん!〉のフィールドキャスターに抜擢され、三年目の一年間は〈シャキ朝〉のMCを務めた。土曜日の朝の情報番組『おはようさん! サタデー!』、通称〈さんサタ!〉のフィールドキャスターを任されたのもこの年からだった。その翌年、入社四年目で〈おはようさん!〉のMCを、去年度までの二年間任されていた。そして今年は、〈昼いち!〉のサブMC。


〈昼いち!〉の前に放送されている〈トレンドアップ!〉のナレーションも、当初は半年の予定だったのが、今日まで四年間任され続けている。今年は、土曜日昼に放送されている〈さたさんぽ〉のナレーションも声がかかり、担当を始めた。


〈期待の新人アナ〉、〈城東の看板女子アナ〉、〈テレ城のエース〉、今まで色々な名前で呼ばれてきた。その評価が欲しいという女の子たちを差し置いて、私はいろんな人の席を奪って今この場所に立っている。


 にこりと、鏡の自分に、柚子は笑みを向けた。


 この笑顔にも、価値がある。評価される笑顔だ。SNSのフォロワー数を増やし、「いいね」を取り、〈女子アナグッズ〉の売り上げを促進させる、そういう笑顔。男の人が――栖常さんが思わず抱きしめたくなるような笑顔。


 鳩を模した金のイヤリングと、雫のような形のトップを持った、細い鎖の金のネックレスをつける。大人の色気が増す。高校時代、大学生時代よりも、今の方がしっかりした顔つきになっている。仕事柄、いろいろな表情を作らなくてはいけない必然性から、学生時代までのぼんやりした、余計な脂肪が落っこちたのかもしれない。


 自分の外見について言えば、柚子は昔より今の方が好きだった。


 外出の準備が終わり、少しだけ時間があったので、キッチンの棚に常備している栄養調整食品のブロックを齧り、それから家を出た。いつもは、千葉みなと駅から電車に乗って出勤しているが、今日は、駅へ行く道ではなく、市役所の方向へ歩く。秋晴れの青い空。徒歩数分で、その駐車場に着く。都内の狭苦しい駐車場ではなく、ざっと百台以上は停まれる、警備もいない広い駐車場だ。


 柚子が駐車場に入ると、すでに場内に停まって柚子を待っていた車が、パッシングをして、柚子のもとに滑るようにやってきた。オリーブグリーンのクーペ。翳りの無い晴れ空のもと、この長閑な駐車場には不釣り合いな気品を漂わせている。


 左ハンドルの運転席には、笑顔の明が乗っている。車は滑らかに、静かに柚子の横に停車した。助手席の窓が空き、明が、柚子の顔を覗きながら言った。


「おはよう。乗ってよ――あ、荷物はトランクに乗せて」


「うん」


 柚子は弾んだ声で応えた。


 柚子が助手席に乗り込み、シートベルトを締めると、明はゆっくりと、車を発進させた。柚子は内装をぐるりと見渡し、「いい車だね」と言った。固めのしっかりしたシートは、ジェットコースターを連想させ、シートベルトを締めながら、柚子はアトラクションと同じような期待感を覚えた。


「気に入った?」


「うん」


 明は笑いながらハンドルを左に回し、幹線道に車を出した。


「親父はベンツ派なんだけど、どうも好きになれなくて」


 そう言って明は、バックミラーをちらりと見やる。


「新見ちゃんは、車は?」


「実は、免許持ってないの」


「あぁ、そうなんだ。まぁ、いらないか。電車とバスと――テレビ局って、まだタクシーチケットあるの?」


「あるよ。〈シャキ朝〉に出てた時は、始発が無かったから、チケット貰ってた」


「ここから?」


「その時はまだ八丁堀のあたりに住んでたんだ」


「へぇ、引っ越したんだ。いつ?」


「二年前かな。〈シャキ朝〉卒業するときに」


「随分離れたね」


「でも、電車で一本だから。朝、本も読めるし」


 柚子はそう言って笑顔を見せた。


 明の運転するジャガーは、信号待ちの先頭で青になっても、車のスペックを見せつけるような急加速はしない。それが、自分を乗せているから特別にそうしているのではなく、いつもそうしているということが、柚子には分かった。付け焼刃の習慣に見える不自然さや力みや、動作の矛盾のようなものが全くない。


「何読むの?」


「古典が多いかなぁ」


「古典? って、源氏物語とか?」


 柚子は、古典と言えば源氏物語というステレオタイプな感想にくすりと笑った。


「外国の古典もあるよ」


「シェイクスピア?」


「ワーズワス。それに、最近はジュールベルヌが好き」


「冒険小説じゃなかったっけ? あれ、SF?」


「両方かな」


「へぇ、好きなんだ」


「うん」


「なんか意外だなぁ」


 そうだよねぇと、笑いながら柚子は相槌を打つ。


 川が流れるような、自然な会話。こうして、少しずつ近づいていければいい。


「栖常さんは?」


「――明って呼んでよ」


「明さん」


「うん、それがいいな。ほら俺、立場が立場だから、誰もそんな風に呼んでくれないんだ」


 明は、〈N・ドーベル〉という会社の、今はCEOに就いている。〈N・ドーベル〉は、SNS内を管理・監視するソフトを作るところから始まった会社である。今となっては、いわば〈SNSの警察〉と呼ばれる企業群の一柱である。


 明は大学生時代、仲間たちとコミュニティー管理のためのソフトウェアを開発していた。それが創業のきっかけになった。会社は数年で一部上場し、明は今や、業界の成功者として名を知られている。


「じゃあ私は呼んであげる。明さん、ね」


「そうそう」


 明は、柚子の子供っぽさに笑った。


「CEOって、私良くわからないけど、大変そうだよね。言えないこと多そう」


「まぁそれはいいんだけどね、ビジョンが……同じビジョンを見るセンスの無い人間にそれを一々説明しなきゃならないのが面倒なんだ。会社が大きくなると面倒も増えるよ」


「じゃあ私は、その面倒の対価に乗せてもらってるんだね」


 明は、柚子の返しに、笑いながら応えた。


「まぁね、面倒が増えた分、報酬も増えた。そういう意味じゃ、そう言えるかも」


「乗せるの私で良いの?」


 え、と明は一瞬驚いて、フロントガラスから柚子に視線を移した。


 明は、柚子の柔らかい微笑みを確認し、ほっとしながら応えた。


「新見ちゃんが良かったら」


「そっか。ありがと」


 車は明の安全運転で、目的地のホテルに着いた。日本を代表する迎賓館として名高いそのアイボリーホワイトの本館は、隣接する高層ビルの中にあっても、圧倒的な存在感を放っていた。正面入り口の階段には幅の広い赤絨毯が敷かれていて、明はホテルマンに車を任せた後、柚子を伴ってその階段を上った。


 現代アートの展覧会は、本館の一室で開催されている。


 シャンデリアの煌めくロビーを通り、二人はエレベーターで会場に向かった。


 展覧会の会場は、柚子が想像しているよりも広かった。映画館の防音扉のような、厚みのある扉が三つ、開け放たれている。会場は、パーテーションパネルが何となく展示エリアを形成していたが、観覧順路というようなものは全く存在しないようだった。


「うわぁ、すごいね」


 柚子は、展示品の自由奔放さに驚いた。絵もあれば、車のホイールや自転車、立体のオブジェ、絨毯、飾り付けられた人体模型などが、同じ視野の中にぱっと飛び込んでくる。そしてまたその、絵画にしても陶芸品にしても、絵具で描かれている、という決まりや、粘土で作られている、という決まりから逸脱しているものも多い。

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