ハリネズミ(6)
美奈の飲みっぷりに、おぉと柚子は驚いて笑った。
美奈はカルパッチョを二切れで、ジントニックを制覇した。
「大丈夫? 無理に飲まなくていいからね。ノンアルコールのカクテルもあるんだから」
柚子はそう言った。
「全然大丈夫ですよ。まだまだイケます」
ドキン、ドキンと、美奈は心臓の鼓動を感じながら言った。
首筋や頬は熱いのに、額は冷却剤を当てられているかのように冷たい。
「まぁ、ゆっくり飲もう、ね」
にこりと、柚子は笑顔を見せる。
いつも通り、カメラの前でも見せるあの笑顔。柔らかく、そして微かに寂しさを伴ったような笑顔。美奈は、口を開いた。
「新見さん、私の事かばってくれたって聞いたんですけど……」
「え?」
美奈は、サラミを口に放り、ふっと吐息を吐き出して、続けた。
「本当は私、降板してたかもしれないって……そうだったんですか?」
「そんなことないよ! そんな話、出てないよ!?」
嘘だ、と美奈は直感した。
莉玖からその話を聞いた後、美奈はそれとなく、件の会議の中にいたというアナウンス部長や副部長に探りを入れていた。ほかにも数人、制作部や、編成部の知り合いにも。莉玖の様にはっきりと、「その会議があった」という人物はいなかったが、それぞれの反応を照らし合わせて、莉玖の話は本当なのだと、美奈は確信していた。
「なんで隠すんですか。私、うっかり聞いちゃったんですよ、風の噂で」
「噂は噂だよ」
「新見さん、本当の事を教えて下さい」
美奈は、じっと柚子の目を見た。
美奈から、そんな風に見られるのは初めてだったので、柚子はたじろいでしまった。これまで、目を合わせようとしても、美奈からは、目を逸らされるばかりだった。美奈と自分の立場を考えれば、美奈の自分に対する態度は仕方がないと思いながらも、心寂しく思っていた。
ここで誤魔化そうとしたら、菊池さんはもう、私を見てくれないのではないかと柚子は思った。
「会議が、あったんですよね?」
美奈は、もう一押しだというのを感じ取り、言葉を柚子に投げかけた。
柚子は、視線を落としながら口を開いた。
「でも……最後は菊池さんが良いってことになったんだから」
よし、と美奈はいたずらっぽい微笑を柚子に見せた。
柚子は、唇を結んだ。
「いいんですよ、そんなこと。私、そんなに弱くないですよ。皆が私の事どう見てるかなんて、良く知ってます。目立ちたがりの〈アナドル〉なんて、別にもう、面と向かって言われたってちっとも平気です」
美奈は明るい声でそう言った。
柚子は、自分が悪口を言われているかのような、傷ついた顔を見せる。
「――それより私は、新見さんのことがわからないんです。どうして、私なんか庇ったんですか? 会議での一幕、聞きましたよ。そこまでして――だって新見さん、私が降ろされたら、メインできたんですよ? それなのにどうして……」
美奈はそこまでまくし立てるように言って、言葉を止めた。それから、しょげたように「すみません」と謝った。酒のせいか、感情がかなり昂っているのを、まだ冷静な美奈は自分で感じていた。
「それが正しいと思ったんだ。それにやっぱりメインの席は、菊池さんみたいな子がやるべきだと思う。前向きで、自分があって、自分の意志をちゃんと持ってる子が、そういう席には、いるべきなんだよ」
柚子は、罪の告白でもしているかのような様子でそう言った。
「どうして新見さんが落ち込んでるんですか」
柚子は美奈に指摘されて笑った。
美奈は、いつもなら一緒に笑う所だったが、笑う必要を感じなかった。私の笑いはいつも、誤魔化しだ。何かを誤魔化すときに、笑顔を見せている。しかし今、新見さんの前でそんな笑顔を振りまく必要があるだろうか。それより美奈は、泣きたい気分だった。
「私、ずっと新見さんの事、敵だと思ってました。だって、そうじゃないですか。後輩の私がメインで、先輩がサブですよ? 私の席、羨ましくないんですか? ――って、そんな風にずっと思ってたんですよ。だって、それってでも、普通の事じゃないですか。この世界に入ったんだから、アナウンサーになったんだから、この椅子取り競争に勝とうって、当たり前じゃないですか、そのために蹴落とそうと思ったりするの。でも新見さんは違ったって事なんですか。私、ずっと新見さんの事、誤解してたんですかね?」
柚子は、美奈を安心させるために笑いかけ、バーテンダーを目で呼んだ。
「まだ飲む?」
小声で、柚子は美奈に訊ねた。
美奈は、唇を突き出して応えた。
「強いのがいいです、新見さんのお勧め」
やってきたバーテンダーに、柚子は美奈にピンクレディーを、自分はサイドカーを頼み、トマトジュースと水をチェイサーとして注文した。程なく運ばれてきたピンクレディーの可愛さに感動して、美奈は小さく声を上げた。王冠を逆さにしたようなカクテルグラスに、柔らかいピンク色のカクテル。
「飲みやすいけど一気に飲むと危ないからね。結構強いから」
柚子の忠告に従って、美奈は小さく一口目を飲んだ。
甘い、デザートのような口当たりに、美奈は目を見開いた。
「美味しい!」
「良かった」
柚子はそう言うと、自分の頼んだサイドカーを飲んだ。
三角のカクテルグラスに琥珀色の液体。その色にウィスキーを連想し、美奈は、本当に新見さんは飲める人なんだなと思った。
「新見さん、一口その、それ飲ませてもらってもいいですか? ――名前なんでしたっけ?」
「いいよいいよ、サイドカーね。――ちょっと飲みにくいかもだけど」
柚子はそう言うと、サイドカーのグラスを美奈の前に差し出した。
美奈も、ピンクレディーのグラスをちょこんと柚子の前にずらし置いた。
互いに互いのカクテルを一口飲み、美奈は、「あぁ、強い!」と声を上げ、柚子はうんうんと、ピンクレディーの味を楽しみながら頷いた。
「この、サイドカーって、何か意味があるんですか?」
美奈は、グラスを柚子のもとに戻しながら聞いた。
柚子はにやりと悪戯っぽい笑みを浮かべ、答えた。
「ずっと二人でいよう、なんて意味があるよ」
「ええっ!」
柚子は、美奈の反応にころころ笑った。
「ちょうど今二人だし、仲良くなりたいなぁっていうのと、単純に私、ブランデーベースのカクテル好きなんだよね」
「それウィスキーじゃないんですか?」
「うんうん、ブランデーだよ」
そう言って、柚子はまた一口、サイドカーを口にする。
「これ――ピンクレディーでしたっけ? これにはどんな意味があるんですか?」
「いつも美しい!」
「え、そうなんですか!?」
「うん。菊池さん、いつも可愛いから」
何言ってるんですかと、美奈は首を振った。美奈は、自分の容姿には評価相応の自信を持っていたが、柚子に「可愛い」と言われると、複雑な気分になるのだった。「可愛い」のは確かに私の方かもしれない。でも私のは、アイドル的な可愛さだ。少なくとも、「美しい」とは違う。
あぁそうか――と、美奈はそこまで考えて気づいた。
私は、新見さんに嫉妬していたんだ。
「――そうですよ、私、可愛いですから!」
そう宣言して、美奈はピンクレディーを飲んだ。
なんて甘くて、泣ける味なのだろう。
柚子は、にこにこと笑顔でいる。
柚子からすれば、今こうして、同僚と二人でいられることが嬉しかった。
「私、嬉しいよ」
柚子は、思った通りを口にした。
「誘ってくれてありがとうね。なんかもう、私、これだけで満足」
「何言ってるんですか」
美奈は、柚子のどこか寂しげな空気を払うように、言った。
「私まだたくさん聞きたいことあるんですから」
「あ、ホント?」
「ありますよ。まず――なんで本当に私なんか、助けたんですか。それが知りたいです。私、全然可愛くないじゃないですか。特に新見さんには、すごく失礼でしたよね……」
柚子はサイドカーをくいっと飲み、それから、ふうっと息をつくと口を開いた。
「私ね……菊池さんのこと、わかってるなんて言うつもりはないんだけど……私を嫌いになる気持ちは、わかる気がするんだ。それに、なんかね……私がこの世界に入ったのなんて最近だけど、菊池さんはずっといたんだなって思うと、強いなぁ、て。だから菊池さんが降ろされるの、嫌だと思ったの。しかもその後が私なんて、絶対違うと思った。そうなるくらいだったら辞めようって――それくらい主張できなかったら、本当に私は、居る意味が無くなっちゃうから――だから、自分のためだよ」
ぎゅうっと、美奈は胸が締め付けられた。
この期に及んで、自分はまだ新見さんの言葉を疑っている。私に投資して、貸しを作って、そのうち何かの利益を得ようと思っているに違いない。そうでなければ、助けるわけがない。人間なんて結局打算で生きているのだ。損得の天秤の傾きに従って行動しているのだ。家族の絆や友情なんて、私は信じない。そんなもの、あると思うから辛いのだ。最初からないと思えば、期待も出てこない。
それなのにどうして、新見さんは私に期待を抱かせるようなそぶりをするの。
やめて、そんな純真のようなものを、私に向けないで。
そんなのいらない、そんな偽物――。
美奈はピンクレディーを飲み欲した。
甘く燃える液体が、美奈の胸を焦がした。
「――私もっと早く、新見さんに会いたかったなぁ……」
とろんとした声で、美奈が言った。
「私なんか助けたって、何も出ませんよぉ……」
美奈はそう言った後、くすくすと笑った。
柚子も微笑を返し、サイドカーの残りを喉に流した。
美奈は、今日はとことん酔ってやろうと、テーブルにあったタンブラーグラスを手に取った。中の赤い液体を、ぐいっ、ぐいっと飲む。息をついたところで、美奈は柚子に訊ねた。
「これはなんてお酒ですか? トマトっぽいですね」
柚子は冷や汗を流しそうになりながら、それはレッドアイだよと答えた。
飲みやすいですねと言って、美奈はごくごくと、またそれを飲んだ。
柚子はその日も、二度目か、三度目の「朝」を迎えた。
いつも、どんなに疲れて睡眠に入っても、朝までに何度か途中で目を覚ましてしまう。入社二年目あたりからずっとそうなので、これが新しい睡眠のリズムなのだと、柚子はそう思うことにして過ごしていた。
柚子は大きく息を吸い、吐き出した。
すでに部屋は明るく、掛け時計の針もはっきり見える。
――八時十分。
柚子は上半身を起こし、ベッドから足を降ろす。
携帯端末で日付を確認する。