ハリネズミ(5)
美奈は、好かれようとは思っていなかった。好かれようとすれば厭らしさがにじみ出る。それで支配欲を満たす人間も多いが、皆にそれを振りまけば、支配欲は憎しみへと変わる。人の自尊心に触れる時は、慎重にしなければいけない。特に、皆が見ている前では。
大事なのは、嫌われないことだ。
アイドルにしても女子アナにしても、人気を集める人間というのは、自分の評価に無頓着でいると、どんどん嫌われていく。格好いい男が馬鹿だととことん馬鹿に見えるのと同じで、美人の失敗や欠点は、それが何倍にも膨れ上がる。そして評価はいつも、減点方式だ。あれができてないからマイナス五点、頷き方がわざとらしいからマイナス十点、カレンダーに写真なんか載っけて調子に乗っているからさらにマイナス二十点――。目立てば目立つほど、マイナスは増えていく。
「お前ラッキーだよなぁ。もう菊池には頭上がらないんじゃないの」
自分の名前が酔っぱらった男の声で聞こえてくるのを、美奈の耳は聞き逃さなかった。
冬璃が、ディレクターの一人に言われていた。
「本当に……」
冬璃が、困ったような顔で応えている。
「まぁ、そりゃそうだよな。元アイドルとじゃ分が悪いか」
笑い声。
冬璃も、「はい、本当にそうですよ。もう、全部勝てないです」と言って、ディレクター男の笑いに付き合っている。その隣のテーブルには柚子がいる。冬璃とディレクターとの会話を耳に挟んだ番組のチーフデスク――四十代手前といった歳の女性が柚子に言った。
「――でも新見さん、実際だいぶ悔しかったんじゃないの。メインMC」
制作デスクは、番組の現場には出ず、制作の事務処理ばかりしているので、出演者とのからみもほとんどない。そのチーフデスクの女は、この機会に、柚子と少し話してみたいと思っていた。
枝豆と緑茶で一息ついていた柚子は、話題を振られて、にこりと微笑みながら応えた。
「そんなことないですよ。菊池さんのほうが、私より断然良いと思います」
「そうなの? でも私、新見さんのMC好きだったわよ。〈おはようさん!〉の」
柚子とデスクの会話を、冬璃に絡んでいたディレクターが拾った。
「――いやこいつね、無難すぎるのよ」
ディレクターは笑いながら言った。周りのスタッフも、ディレクターの無遠慮な物言いの痛快さに思わず笑い声を上げる。近くには、まだアシスタントの文字が役職の上に乗っかっているスタッフも多くいた。彼らにとっては、冬璃はともかくとして、入社六年目で、局の看板アナウンサーの一人である柚子は、気楽に声がかけられる存在ではない。それだけに、ディレクターの発言は、皆の笑いを余計に誘った。
「ちょっと、つまらないんだよね、意見言う時でもさ、なんかこう、いつも最大公約数的なさ、なぁ? お前も、自分でわかるだろ?」
柚子は、「はい」と答えた後、「そうなんですよねぇ」と、苦笑いを浮かべる。
「だぁーからメイン取られるんだよ」
ディレクターはそう言うと、言葉の勢いのまま、ぐいっとチューハイのロンググラスを煽った。柚子は、「いやぁ、すみません」と、冗談半分で、笑顔を崩さずに答える。けらけらと、周りのスタッフたちは笑い、鍋の湯気が揺れる。
その様子を見た瞬間、美奈は、手元にあるグラスの酒を、笑っている連中の顔にぶちまけてやりたい強烈な衝動に駆られた。美奈は思わずディレクターや、その席のスタッフを睨みつけてしまった。しかしすぐに美奈は自分の形相に気が付き、慌ててその表情を、酒を飲みながら隠し、飲み干しながら引っ込めた。そして、コップの縁の隙間から、柚子やその周りの様子を覗き見た。
すでに話題は違うものに変わったらしく、柚子を取り巻く会話の声も、誰かの急に張り上げた声や、説教、湯の沸騰や器のぶつかる物音にかき消されて、美奈の耳から遠くなった。
一次会がお開きという頃、皆が店を出る身支度を整え始めばたばたしている中、柚子はお手洗いのために立ち上がった。オレンジライトの明るい女子トイレ。洗面器のようなやたら広い淵の洗面台が三つ並んでいる。入口の扉から一番近い洗面台の前には、手を洗うでもなく、鏡を見るでもなく、菊池美奈が立っていた。個室から出てきた柚子は、美奈の姿を見て、何だろう、と思った。自分を待っていたような気配がある。
「あ、新見さん」
美奈の顔に一瞬、緊張の色が走る。
「お疲れ様。大変だったよね、お酌回り」
柚子はそう言いながら、給水レバーを持ち上げて、出てきた水に手を晒した。
「そういうの私、慣れてますから」
「そっか」
美奈も、水で手を洗う。しかしすぐに水を止めて、美奈は柚子に訊ねた。
「新見さん、二次会って行きます?」
「うーん、誘われたら行こうかなってくらい」
「まだ誘われてないんですか?」
「うん、そうだね」
柚子はそう言って微笑を浮かべる。
少し寂しそうな瞳と、柔らかい頬の笑顔。
「――二人で、飲み直しませんか?」
「え、菊池さんと?」
「もし良かったら、ですけど」
柚子の眼が、きらりと光った。
食事会の後、美奈は駅に行くまでの間にタクシーを拾った。それに柚子と一緒に乗り、十分ほど車を走らせ、止めた。住宅の中に佇む小さなバーの前。監視カメラのようなライト三つが、店の上の看板の『BlueGENE』という筆記体の白文字を照らしている。
美奈は、入口のガラス扉を躊躇いなく開けて、柚子を中に招いた。実は美奈も、知り合いに教えてもらった店で、訪れたのは初めてだった。店は細長く、カウンターの奥には、円形ソファーのテーブル席が三か所、並んであった。カウンターには二組と一人が座っていて、ソファーテーブルは、どの席も空いている。
バーテンダーは男性が二人いて、どちらもえんじのベストを着ている。自分たちの顔を見ても、別段驚いた様子を見せないことを美奈は確認し、ひと先ず内心安堵を得た。ここは芸能人やタレントに慣れている店だと聞いていた美奈だったが、それが本当らしいとわかった。
バーテンダーのうち、若い方が二人をソファー席に案内した。
三人掛けの半円型のソファーに、少しの空間を開けて、隣同士座る。
柚子は、白いカーデガンをたたみ、バックと一緒に荷物入れに入れながら言った。
「新見さん、あんまりこういうお店、来ないんですか?」
「うん。番組で行くことはあったけど――」
「あれですよね、〈カクテル・コレクション〉」
良く知ってるね、と柚子は感心と驚きの混じった反応を見せた。
柚子は、入社一年目、八月の初鳴きのあと、十月から翌年三月迄の半年だけ、〈カクテル・コレクション〉というミニ番組をやっていた。番組間の尺調整のために、三分、五分程度、不定期で流されるミニ番組が、テレビ城東にはいくつかあり、〈カクテル・コレクション〉はその一つだった。バーテンダー役の柚子がカクテルを作り、それを紹介するというシンプルな番組である。
「資格持ってるんですよね?」
「取ったんだよね。番組に必要だって言うから」
美奈は、柚子については、今年の二月、一緒に番組をやることが決まった後、すぐにそのプロフィールは調べていた。過去の出演番組についても、もうとっくにリサーチ済みである。
柚子をバーテンダー役に始まった〈カクテル・コレクション〉は反響が多く、二年半続くことになるが、柚子が出ていたのは、最初の半年だけだった。柚子が朝の情報番組への出演が決まると、酒のイメージが良くないということで、バーテンダー役は二代目に引き継がれた。二代目からは、バーテンダー役はアナウンサーではなく、本業のバーテンダーや、二枚目で売っている半タレントの男性俳優などに引き継がれていった。
「お酒、強いんですか?」
「……まぁ、ね」
バツが悪そうに柚子は応えた。
美奈は、柚子との距離を詰めながら、メニュー表を自分と柚子の間に開いた。
さほど酒に詳しいわけではない美奈は、洋酒の銘柄やカクテルの名前を見ても、大抵よくわからない。
「何頼みます? あ、新見さんオススメ教えて下さいよ。私それ飲みたいです」
小悪魔のような笑みを、美奈は柚子に向ける。
その笑顔で一言、美奈は付け足した。
「今は何飲んだって、お咎めなしですから」
柚子は、何と言って良いかわからず、困ってしまった。美奈はつい三週間ほど前、高校時代の飲酒疑惑を週刊誌に取り上げられたばかりだ。それを踏まえての言葉だということは柚子にもわかったが、だからといって柚子は、美奈に起きたことを、美奈の自虐めいた冗談に任せて笑い飛ばすことはできなかった。
柚子の困るのを見て、美奈はくすくすっと笑った。
美奈は、こんなにちゃんと柚子と言葉を交わしたのは、これが初めてだった。番組の打ち合わせくらいは日頃からしているが、それはあくまで仕事であって、必要以上の会話は、美奈の方から避けていた。
「そういえば、お酒って、花言葉みたいなのあるんですよね?」
「うん、あるよ」
「何か、こういう時にちょうどいいのありませんか?」
うーん、と柚子は悩みながら、メニューに目を通した。
メニューの下の方には。メニュー表にないカクテルや、自作のカクテルも注文できる旨が書かれてあった。
「カクテルがいいよね?」
「はい、折角なので」
じゃあ、と柚子はバーテンダーと目を合わせた。男性の若い方のバーテンダーがすぐに注文を聞きにやってきた。
「ジントニックとファジーネーブル下さい。あ、あと……菊池さん、何か食べる?」
「じゃあ、カルパッチョとサラミお願いします」
「畏まりました」
丁寧な一礼でバーテンダーは下がり、まずはサラミとカルパッチョが用意された。そのあとでジントニックとファジーネーブルが、それぞれに綺麗なグラスで運ばれてきた。
「こっちは甘くて飲みやすいから、もしジントニック苦手だったら交換しよ」
柚子が美奈に選んだのは、ジントニックだった。
華やかなファジーネーブルの色味もさることながら、美奈は、目の前のジントニックを、柄にもなく綺麗と思った。タンブラーの真ん中に、氷に挟まれるように固定されて浮かんだ、三日月形のライム。透き通った氷と液体の中、小さな炭酸の気泡が沸き上がり、表面あたりではそれが、白く輝いて見える。酒と言うより、ライムを使った氷花のようだった。
美奈は、どっしりと重たいグラスを手に持ち、「いただきます」と柚子に言うと、ジントニックに口をつけた。ぐびり、ぐびり、ぐびりと、喉に流し込む。
美奈は、その飲みやすさに驚いた。アルコールっぽさがまるでない。しかしドライジンの風味はしっかりと濃く、ライムの爽やかな後味と同時に、美奈は胸の奥がかあっと熱くなるのを感じた。それでも思わず、次の一口が恋しくなって、美奈はまた、ぐびぐびっと、ジントニックで喉を潤した。