ハリネズミ(4)
「私、今日これから、お食事なんだ」
「――男と?」
「うん」
昴は、柚子の返事に頷いた。
「いいことさ。これだけ魅力的な女性を男が放っておくわけがない。いや、新見さんを放っておくなんて、それは損失だよ」
昴の大袈裟な物言いに、柚子は笑ってしまった。
久しぶりに、心から笑えたような気がした。しかしそれに気づいた瞬間、柚子の笑顔はふうっと、蝋燭の様に消えた。
「私、いいのかな……」
柚子は、目を伏せて、呟き聞いた。
「いいんだよ」
昴が、風のように言った。
その声音に、柚子は遠いささやきを思い出し、はっとして顔を上げた。
「一時の気休めだとしても、孤独を癒すのに人の温もりを頼るのは、責められることじゃない」
「――私別に、水上君の事、引きずってるわけじゃないよ」
「そう?」
「そう。でも……」
柚子は数拍躊躇ったあと、言葉をつづけた。
「私は何のためにここにいるんんだろうって、わからなくなることがあるんだ」
柚子は笑みを浮かべながら、冗談っぽくそう言った。
昴と思い出話を楽しんだ後、柚子はホテルを出た。別れ際、昴は柚子に、コンサートの招待券を二枚渡した。柚子はそれを受けとって、ホテルを出た。エントランスには、明が手配した車――黒塗りのジャガーが柚子を待っていた。
無機質な鉄骨が、工場のライトに照らされて、暗闇の中にぼんやり浮かんでいる。煙突がもうもうと煙を吐き出し、赤いランプの明滅が、煙を赤く染める。複雑に絡み合ったパイプからなる骸骨のような施設やタンクの密集は、まるで大地の延命治療をしているかのようである。
車の窓が雨粒をはじき、窓についたその小さな飛沫ごしに、柚子は工場の景色を、ずっと眺めていた。
「これもすごく美味しい」
デザートのシャーベットを、金の小さいスプーンで口に運び、柚子が言った。柚子の笑顔に、明は思わず、骨抜きにされそうになってしまう。いわゆる〈IT長者〉としての成功が無ければ、彼女には声をかける勇気さえ出てこなかったろうと、明は思った。
「喜んでもらえて良かった」
「うん、ありがとう――」
言葉の後につくはずの「ございます」を言わずに口を閉じ、柚子はちらりと、明を見やった。明は、思わず笑ってしまった。テレビに映る新見柚子アナウンサーと、目の前の彼女とは、ほとんど違いがない。
「どうして今の仕事を選んだの?」
会話の中で、明は柚子に訊ねた。
アナウンサーはテレビに映る、注目を浴びる、そういう仕事である。まだ会って一月ほどと間もないが、明は、柚子の性格と、今の彼女の仕事とが、どうにも結びつけられなかった。
「向いてるのかなぁと思って」
柚子はそう応えて、笑顔を見せる。
肩透かしのような答えに、明は小さく笑った。もう少し説明があるかと思って明は黙っていたが、少し待っても柚子はそれ以上のことを語らなかった。まだ警戒されているのを明は感じながら、柚子に言った。
「でも、ぴったりだよね。新見ちゃん、人気すごいじゃない」
柚子は、明の想像していた嬉しそうな笑顔を見せた。
ところがそれはほんの一瞬で、柚子はすぐに頬の笑顔を消して、シャーベット皿の縁に視線を落とした。明は、柚子の言葉を待つことにした。何か言おうとしているのは、明も、柚子の雰囲気からわかった。
少しの沈黙のあと、柚子は顔を上げた。
「栖常さんは、不安になることはないですか」
助けを求めるような柚子の瞳に、栖常はドキリとした。
「自分なんて、本当はいないんじゃないかって……」
柚子は唇を結んだ。
明は、柚子の熱心な瞳を受けて、気づいた時には、柚子の肩を抱き寄せていた。
柚子はそうされて、最初はびくっと驚いたが、すぐに、明の温もりを受け入れた。最後に誰かの温もりを感じたのは、いつだったろうか。
柚子は、目を閉じた。
男の人の力強さと温かさに、全部預けてしまいたいと思った。
「俺だったら、力になるよ」
明が言った。
声は、明の身体の振動からじかに柚子の耳や、頬から入ってきて、柚子の頭の中を揺らした。ふー、すー、と柚子の呼吸も明に伝わり、明の心臓は早鐘をうった。明は、女を知らないわけではなかったが、柚子の身体に密着されると、まだ女性というものを知らなかった頃の気持ちを想起させられた。それは明にとっては、初心というより、芋くさい、できることなら、思い出したくない感覚だった。
「ありがとう」
柚子は、明から体を離した。
「うん、いつでも、肌くらい貸すからさ」
明は照れ隠しに顔をしかめながら言った。
食事の後、柚子は明の手配した車に乗った。エントランスから車まで、明は傘をさして、柚子をエスコートした。柚子を後部座席に乗せ、ドアを閉め、柚子は窓を開けた。明は傘をさしたまま、窓から柚子の顔を覗き込んだ。
「また、どうかな、来週、土曜――いや、日曜日。――現代アートの展覧会に招待されてるんだけど、一緒にどう?」
「行きます。楽しみ」
「よし、じゃあまた連絡する」
柚子は、にこりと笑って応えた。
「今日は、ありがとうございました。美味しいお店――」
「また来ようよ。他にも美味しい所知ってるから、順番にまわって行こう」
「はい」
「あと……――俺のことは、友達と思っていいから」
「うん、わかった」
そんな会話のあと、柚子を乗せた車は出発した。
明は、車が路地を曲がるのを見送ったあと、降ってくる雨を見上げた。左の薬指を揉み解しながら。
新見柚子 様
一週間ほど、ずっとこの手紙の内容を考えていましたが、相応しい言葉が見つからず、このような出だしになってしまいました。しかし、いつまでも考えていたら、そのうち、手紙を出そうという気持ちが鎮まってしまいそうなので、勢いのあるうちに、ひとまずメールを出すことにしました。
伝えたことはシンプルです。貴方は何も間違っていない、ということ。そして、何があっても貴方の味方でいる人が、この世界にはいる、ということです。貴方の星のどこかには、その心当たりがあるでしょうか。あるいは、思い出の遠くに、すでにセピア色になった流れ星の星屑があるかもしれません。その星屑は、貴方のために輝いたのかもしれません。
私は、新見キャスターと同世代です。この歳にもなって、定職にもつかず、ぷらぷらしています。収入なんて雀の涙で、それは自分の仕事量のせいなのですが――バイト先の同僚にまで、「それじゃあ彼女出来ないでしょ」なんて言われる始末です。そんなお気軽な人間でも、なんだかんだで、どっこい生きています。
さっき星の話を書きましたが、私からすると、新見キャスターは星です。しかも、一等星。シリウスか明けの明星です。見上げられる星々の、夜空の中にいる孤独を感じずにはいられません。星と星の間には、無限と思えるような黒いぽっかりした空間が広がっているらしいですね。
私は逆立ちしてもせいぜいビー玉くらいなもので、そもそも地面にあるから、夜空に「流れる」ことなんてできませんが、新見キャスターにはきっと、暗闇の中から、現れる流れ星もあると思います。どうかその光を恐れずに、捕まえてあげてください。一等星を前にしたら、どんな流れ星だって、自分の明るさを恥じて、光を弱めてしまうと思いますから。
――うっかり饒舌になってしまいました。こんなポエムのようなメッセージ、ごみ屑に等しければ躊躇わずゴミ箱に捨ててやってください。私は、一時でも、この瞬間、貴方がこれを一文字でも読んでくれたと勝手に思って喜び、それだけで幸せです。
貴方の人生を応援しています。(追伸:決してストーカーのような行為はしませんから、その点だけは、安心してください。きっと、そういう人物を想像してしまったことでしょうから。申し訳ありません)
九月末の金曜日、〈昼いち!〉の放送終了後、番組の食事会が開かれた。十月の改変を乗り切った祝いの席である。〈昼いち!〉は局の看板の帯番組なので、春から秋の半年でどうこうなるというものでもないが、とはいえ、状況によっては大規模なテコ入れはありえた。去年の番組立て直しは大失敗に終わっているため、今年ダメなら、番組の終了も――という話が、編成戦略部にもついに持ち上がっていた。
そんな中、今年キャスティングを大幅に変えた〈昼いち!〉は、四月から好調の滑り出しで、離れていた視聴率とスポンサーを、短期間でしっかり呼び戻せていた。制作の裏方スタッフには幾人かの移動はあったが、メイン所のキャストに変更はなかった。美奈の飲酒報道の一件も、七十五日とたたずに、他のニュースに埋もれていった。
「乾杯!」
十八時、深川某所の居酒屋を貸切って、ぐつぐつ煮える鍋とビールで食事会が始まった。
入社二年目の冬璃は、配膳をしたり、お酌をしたりと、かいがいしく動いている。ビールの注ぎ方のまだ慣れていないのを笑いの種にされている。そんな冬璃の様子がちらちらと目に入り、美奈の唇の端に微かな冷笑が浮かんだ。
「いやぁ、お前使って正解だったよな」
プロデューサーの一人が、美奈の注いだビールをジョッキで煽った後、早くも赤らめた顔でそう言った。
「ありがとうございます、抜擢していただいて……。私、大丈夫でしたかね」
「まぁ、さすがアイドルアナって感じだな。あんまりあざとさ出しすぎるなよ。主婦層離れるから」
ガッハッハと、大口を開けて笑う。
「やめてくださいよぉ、そんなあざとくないですよぉ」
美奈は甘えたような口調でそう言った。
そうして、半分まで空いたジョッキに、再びビールを注ぐ。
ひとしきり話をした後で、美奈は再び席を移動し、そこでまた鍋を取り分けで、酒を注ぎ、会話に参加して、ちょうどいいタイミングで相槌を打ったりする。今はまだ名もない若手にも、丁寧に接する。彼らのうち幾人かは、数年後、自分を使う側の人間になる。いつもありがとうございます、助かっています――そんな事を言いながら、先行投資と思って笑顔を見せ、鶏肉と豆腐とネギを取ってやる。