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星の海で遊ばせて  作者: ノマズ
5,この空が崩れ落ちても
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ハリネズミ(2)

 その後どうなったのか、美奈は今の所、上の反応は何も聞かされていなかった。


 お疲れ様でした、と共演していたタレントたちが舞台を離れ、スタジオを出て行く。


 いつも通り。


 そのいつも通りが、美奈の気持ちをざわつかせた。


 特に、飲酒の報道について聞かれるわけでもない。


 もっとも、〈昼いち!〉の出演者には、キャスティングに口出しできるほどの大物はいない。触らぬ神に祟りなしではないが、彼らはそれぞれに、自分のことが大事なのだ。藪蛇を恐れるのは、当然だろう。芸能界は、夢や希望で回っているわけでない。そこにしか居場所のない人間が、食っていくために席を奪い合い、しがみついている――そういう世界だ。


「お疲れ様でした」


 椎名冬璃が美奈に声をかけた。


 冬璃は、入社二年目の新人アナウンサーである。京都の国立大学を出た才女だが、いかにも真面目で、美奈から言わせると、「地味」だった。美奈は、冬璃に対しては、ライバル意識は持っていなかった。キャンパスの凖グランプリだった、という肩書は柚子と似通っているが(柚子の場合はグランプリだが)、冬璃には、華が無い。その上、人間関係――こと、局内の力関係や派閥といったものに疎く、権力を持っている人間の懐に入り込むスキルもそれをする度胸もない。


「お疲れ様」


 放送中よりも少し低くなった声で、美奈は冬璃に返事を返した。


「すみません、リンゴのコメント……咽ちゃって」


 美奈は口角を引き上げて、小さく笑った。


 今日の放送では、夏林檎を皆で齧るというコーナーがあり、そこで冬璃は、林檎を齧った後、咽てコメントできないという一幕があった。


「面白かったよ」


 すみません、と本気で冬璃はヘコんでいる。


 冬璃のファンは冬璃の素人っぽさを「可愛い」と言うらしいが、美奈はそうは思わなかった。〈昼いち!〉の台本は毎回、誰かが小さな失敗をするようにできている。例えば、今日の様に、丸々一個の林檎を齧らせた直後に、間髪入れずコメント振りをしろ、というように、物理的に不可能なことが書いてあり、カンペでそれを求められたりする。その通りやろうとすれば、当然どこかでノッキングが起こり、そこで小さなトラブルが発生する。そしてそのトラブルこそが、この番組の視聴率を支えている。全て仕組まれているというのに、冬璃は、それを完璧にこなそうとしているらしい。勘が悪すぎる。


 冬璃の話に適当に相槌を打ち、適当なアドバイスをしながら、美奈は制作スタッフと言葉を交わす柚子のことが、気になって仕方がなかった。


 十月クールで、やっぱり自分は下ろされるのではないかと、その危機感が美奈の心臓を締め上げていた。


 自分が降板すれば、それにとって代わるのは、柚子だろう。


 一瞬、アシスタントディレクターと話し終えた柚子と美奈の目が合った。


 美奈は、サッと目を逸らした。


 冬璃が美奈の元を離れた後、


「菊池さん、お疲れ様」


 そう言って、美奈の所に柚子がやってきた。


「お疲れ様でーす」


 少し甘えたような口調で美奈は応じた。


 美奈は、自分でも、唇の端が硬くなっているのを感じていた。柚子への対抗心や敵意のようなものを、外に出すわけにはいかない。そうでなくても、自分と柚子が二人で話していると、それだけで、周りは勝手に緊張感を作る。


 雑誌がネタ切れになると定期的に出してくる女子アナの人気ランキングや、この〈昼いち!〉のキャスティングを巡って作り出される「菊池美奈vs新見柚子」の構図。雑誌や視聴者だけではない。局の人間も、この手の話題が好物だ。わざと緊張感を作りながら、内心楽しんでいるのだ。放送が始まった初期の頃、局関係者のタレコミ記事が、この現場を「地獄」と表現していた。私と新見さんがバチバチ対抗意識を燃やしているから、制作スタッフは気が気じゃない、気を遣う、とそういうようなことが書いてあった。


「すごく良かったと思うよ、ナレーション」


 柚子が言った。


 今日は、冬璃が咽たその林檎を紹介するくだりで、美奈は林檎農園を紹介する生ナレーションを担当した。始まる前、美奈はディレクターに、ナレーションの不安を話していた。もっとも、美奈は本気で不安がっていたわけではない。ナレーションは確かに得意ではないが、かといって、誰かに心配されるほど下手でもない。


「そうですかね、良かったですか?」


 美奈は、柚子の評価を、心配そうな顔をして求める振りをした。


 柚子は、何でも優等生的にこなすが、その中でもナレーションは、柚子の得意分野だった。かれこれ四年間、柚子は、〈トレンドアップ!〉という三十分番組のナレーションを担当している。番組のプロデューサーが、すっかり柚子の事を気に入ってしまったらしい。


「うん、良かったよ。生ナレって緊張するからね。でも、バッチリだったよ」


「ありがとうございます」


 後輩らしく、立ち振る舞う。


 柚子の余裕に、美奈は奥歯を噛んだ。




「私、結構危ないんですかね?」


 その日、美奈はアナウンス部に付属している休憩室で、若臣莉玖に訊ねた。莉玖は、美奈の四つ上の先輩で、男性アナウンサーの若手では抜群の人気を誇る。〈昼いち!〉にも、サブMCとして月曜日と火曜日に出演している。


「何、降板するかって?」


 莉玖は、紙コップのアイスティーにミルクを落とし、かき混ぜた。


「はい」


 莉玖は意味深な微笑を浮かべた。


 莉玖は、人気と顔だけのアナウンサーではない。編成局内の情報を、よく知っている。フリーにならないか、という誘いはかなりあるらしいが、それでも目先の利益になびかないのは、局内ではすでに、莉玖の出世コースの確約があるからだと言われている。


「まぁ、今回は大丈夫なんじゃない」


 特徴的な甘い声で莉玖が応えた。


「ホントですか!?」


 美奈は、思わず飛び上がって、コップのコーヒーを零しそうになった。辻木をはじめ、プロデューサーやディレクターにこの話を聞けないわけでもなかったが、彼らはどうも舌先三寸の所があって信用できない。その点莉玖は、適当なことだけは言わない。


「たぶん、近々、再度話があると思うよ」


「はぁー……良かったぁ……」


 美奈は息を吐き出した。


 安心すると、今度は笑いが込み上げてきた。美奈は笑いながら言った。


「新見さん、残念がってるんじゃないですか」


 美奈の言葉に、莉玖は、コーヒーを飲む手を止めた。


「そう思う?」


「まぁ。だって、私が降ろされたら、新見さんでしょ」


 莉玖は、くるくると、紙製の使い捨てマドラーでコーヒーをかき混ぜ続けた。莉玖の沈黙が意味ありげで、美奈は何とはなしの不安から、悪戯っぽく質問した。


「――オミさんも、残念ですか?」


 莉玖は、ファンからは「若様」と呼ばれているが、局内では「オミさん」や「オミちゃん」と呼ばれている。柚子と莉玖は、まだ柚子が〈シャキ朝〉のコーナー担当だった頃、その番組内で、一年間だけ共演していたことがあった。その時の莉玖は、番組のメインMCだった。


「俺?」


 眉を引き上げて、莉玖は聞き返した。


「はい。オミさん、新見さんのこと気に入ってるじゃないですか」


 莉玖は、女性ファンを骨抜きにする微笑を浮かべた。


「これオフレコな」


「え? はい」


 何の話だろうと、美奈は紙コップに両手を添えた。


「土曜日、会議あったんだよ」


「え――」


「〈昼いち!〉の、キャスティングの――簡単に言えば、お前をどうするか」


 美奈は息を呑んだ。


 そんな会議があったなんて、一言も、誰からも聞いていない。土曜日は、美奈の休みの日だ。美奈は、背中や脇から、嫌な汗が出るのを感じた。


「どなたが出席されてたんですか……」


「キャスティングに意見できる人たちと、俺と、新見」


 美奈は青ざめた。


「え、私――降板ですか?」


 莉玖は笑った。


「会議が始まった段階だとそうだった」


「……」


「新見だよ、お前の降板に大反対したの」


「え!?」


 美奈は耳を疑った。


 美奈が驚いているうちに、莉玖は続けた。


「本当を言うと、お前が降板して、その後を新見が務めるということで決まりかけてた。だから、当人の新見と、一応俺が呼ばれたわけだ」


「……」


「それを、新見がひっくり返したんだよ。『そういうことをするなら私も番組辞めます。菊池さんを降ろすなら、私も降ろしてください』って、あいつそう言ったんだ」


「え……」


「それが発端で、結局、お前の降板の話は流れた。ここはアナウンサー一人守れない局なんですかって、そのあとはもう、福美さんを筆頭に意見が出て、最後は羽賀局長が鶴の一声。『このままいきましょう』ってね――」


 莉玖は腕時計を見ると、アイスティーを飲み干し、紙コップ専用ごみ箱の穴に、カップを入れた。


「新見とそんなに仲が良かったなんて知らなかったよ。――何か弱みでも握ってるの?」


 莉玖は、何とも言えない、見ようによっては冷ややかな微笑を浮かべると、休憩室を出て行った。この後莉玖は、夕方からの生放送がある。


 一人残された美奈は、ぽかんと、しばらく放心していた。


 新見さんが、私を助けた――。


 ブラインドカーテンから差し込む光が、窓沿いのベニアテーブルの端で反射していた。美奈は、その板の一センチにも満たない、細長い筋状にできたオレンジとも白とも感じる強い光に視線をやり、瞼を絞った。






 車は大師橋を渡り、ひっそりとした住宅街に入っていった。


 時間は、夜の九時を回ろうとしている。


 湾岸線を走り出した頃に降り始めた雨はまだ細かったが、その音は車内からでもはっきりと、柚子の耳に聞こえていた。


 住宅街の中にひっそりと佇むマンションの、小さなエントランスの前で車は止まった。運転手は車を止めると、すぐに後部座席に回り、ドアを開けた。黒い傘を持ち、柚子のために差している。


 柚子は小さく礼を言い、傘の下に入った。


 顔を上げて数歩歩くと、マンションの入り口で柚子を待っていた人物が、大股で二人に近づいてきた。今日この場所に柚子を招いたのは、彼だった。

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