ハリネズミ(1)
夏の盛り、高校三年生だった私は、貰ったばかりのネックレスが嬉しくて、家にいる間も一日中、それを首につけていた。
ネックレストップには三つのリング、その真ん中にはダイヤモンド。
ダイヤモンドは「永遠」の象徴。
私の部屋の、ベッドの端っこに座って、彼は物思いにふけっていた。
夏なのに長袖のカーデガンを羽織っていた彼が愛しかった。
やがて彼は言った。
「あの海、星みたいだったね」
私は彼の隣に坐って、その肩に頬を寄せる。
「うん、綺麗だった」
この時にはつい数日前の出来事。
今からすると、遠い昔の思い出。
「また行こうね」
私が言うと、彼は目を瞑ったまま微笑した。
「山がいい?」
「山もいいね」
「じゃあ今度は、山に行こう」
そうだね、と彼は応えた。
それから小さく、「どこからでも……」と呟いた。今でも覚えている。あの時私は、きっと、彼と同じことを思ったのだ。どこからでも、あの星の海は見える――と。
そして今、夏の終わり。
彼と別れてから――あのバス停から十年が経った。目をこすりながら、見上げた視界の奥に、彼を乗せた高速バスが、道路を曲がって消えていった。ショックだったあの光景も、今はもう、思い出の一ページになった。
あの海も、二人で見た山の湖のあの夕焼けも。
ごちゃごちゃと煩い酔っ払いの巣窟たる居酒屋のカウンター席に、二人の記者が並んで座っていた。一人は四十ほどの、くたびれた半袖のシャツを着た男。もう一人は、二十五の女で、ブルーのワイシャツの袖を二の腕の中ほどまで巻くっている。
二人は、一昨日〈週刊スマッシュ〉が取り上げたいくつかの話題をつまみにしながら、互いに好き勝手言いあって笑っていた。
二人は、〈週刊ワイディー〉の記者だったが、どこが取り上げたネタでも、面白ければ酒のつまみにした。絶賛不倫中の記者が不倫の記事を書いていたり、カニカマとタラバガニの味の違いもわからないような馬鹿舌が秋のグルメ特集の企画をやっていたりする、そういう身内にしかわからないネタもあって、余計に盛り上がる。
やがて話は、テレビ城東の女子アナ、菊池美奈の話題になった。数年前までは誰もが知っているアイドルグループに所属していた、元アイドルアナである。その菊池美奈のアイドル時代――高校生の時の飲酒疑惑を、〈週刊スマッシュ〉が取り上げたのだ。写真はなく、美奈の元友人の証言だけという記事だが、これがなかなかに、週刊誌らしい下衆な文章で面白かった。
「いやぁ、いいですよねぇ、過去の飲酒くらいでこんなに稼げるって」
女の方の記者、三島愛理が言った。
「お前遊んでそうだもんな」
男の記者、愛理の先輩である堀田が言った。
「高校生だって酒くらい飲むでしょ! 打ち上げとか、缶チューハイくらい」
「そういや――」
と、ここで堀田が思い出したかのように言った。
「お前、テレ城の新見と知り合いじゃなかったか?」
愛理は、急に何ですかと、鬱陶しそうに焼き鳥を食いちぎりながら串から外し、咀嚼した。堀田の眼が妙に光っているので、愛理は仕方なく応えた。
「同じ学校だったってだけですよ。高校の――二つ上の先輩でした」
「何かコメントとれないのかよ」
愛理は、堀田が声を落として聞いてきたのを豪快に笑い飛ばした。
「とれませんよ! 向こう絶対私のこと知りませんから」
「しゃべったことくらいあるだろうよ」
「何言ってるんですか、千三百人からいる学校ですよ? 挨拶くらいだったらあるかもしれませんけど、覚えてないですよ」
ぐびっと、愛理はグラスのチューハイを呑んだ。
「じゃあ、男関係は?」
「好きですねー、堀田さん。女の子のスキャンダル。めっちゃ下衆です」
「かまととぶってんじゃねぇよ」
堀田は、どうなんだと、愛理に目で答えを催促する。
「知りませんよ」
愛理は応えた。
「学園のアイドルだったんだろ?」
「――それ、どこ情報ですか?」
愛理は、眉を顰めて、堀田に訊ねた。
「関係者」
堀田が答えた。
愛理は、ふっと鼻で笑った。
「……全然でしたよ。モデルやってる子とかの方が騒がれてました」
「へぇ……、なんだよ面白くねぇ。じゃあアイツも大学デビューしたクチか」
堀田は酒を飲み干し、一息ついた後、再び愛理に訊ねた。
「元カレがヤバい奴とかねぇかな? リベンジポルノ級の動画とか写真持ってたりするような――」
ぶふっと、愛理は吹き出した。
「面白がるために子供時代までひっくり返そうとするの、悪い癖ですよ」
「俺の悪癖で稼いだ金でお前は今日もタダ飯が喰えてんだろ。ったく、どっちが悪質だか」
「いいじゃないですか、焼き鳥の一本二本」
「お前、一本二本で済んだ試しねぇだろ」
愛理は、堀田の言葉などはほとんど聞かずに、店のバイトに向かって手を上げてた。
「すみません、レモンサワー!」
「少しは――」
「堀田さん、飲み物は?」
「チューハイ」
「チューハイもお願いします!」
愛理は、ちっと舌打ちして煙草に火を点ける堀田を見て、ケラケラ笑った。
お疲れ様でした、お疲れ様でした。
美奈は、明るい声と笑顔で、共演者やカメラマン、アシスタントディレクターたちにまで労いの言葉をかけた。〈昼いち!〉収録直後のスタジオはいつも通りだった。
番組の立て直しを任されたチーフプロデューサー兼ディレクターの辻木率いる制作チームは、昼時とは思えない怪しげな雰囲気を醸し出している。一世代昔、〈ヲタク〉と呼ばれていた種族の生粋の生き残り、という感じがする。
そのボス辻木は、見た目こそ眼鏡をかけた固すぎず、柔らかすぎず、太ってもいず、かといって痩せてもいない、人込みに真っ先に隠れてしまいそうな五十路の男である。彼は、ディレクター陣に台本を見ながら早口で何かを説明している。しかし、近くに新見柚子が来ると、柚子の「お疲れ様でした」の挨拶を待たず、自分から「あ、お疲れお疲れ! 今日も良かったよ! ハハッ!」と、早口で言った。柚子は辻木の早口やテンションにクスクス笑いながら、「ありがとうございます」と応えた。
美奈は、思わず舌打ちしてしまいそうになるのを、唇を引き結んで止めた。
辻木は、深夜バラエティーを担当する第四制作部の生え抜きで、美奈も、辻木の担当しているバラエティー番組にはこれまでいくつも出演してきた。自分に〈昼いち!〉のメインMCの話があった時、美奈が真っ先に思い浮かべたのは、辻木の顔だった。辻木は、私のことを買っている――そう思ったのだ。辻木は、この四月から〈昼いち!〉の制作を担当する第二制作部に移動し、移動と同時に部長に昇進した。
〈昼いち!〉は二十年続くテレビ城東の看板番組の一つである。月曜日から金曜日、十一時四十五分から十四時までの情報ワイドショー。一昨年秋にメインMCの佐山博美が、他局プロデューサーとの不倫で降板し、後任として〈インテリ芸人〉というジャンルではトップと言われるタレントが起用された。しかしこのキャスティングは大外れした。
編成局は立て直しのため、今年度は辻木に〈昼いち!〉の制作を預けた。
その辻木の新体制で、美奈は番組メインMCに抜擢された。
美奈にとっては、初めての帯番組のMCだった。
元アイドルという肩書で、美奈は入社一年目から、バラエティー番組やバラエティー寄りの音楽番組を主戦場として活動してきた。入社が決まった時から、〈城東のエースアナ〉と世間からもてはやされた。それはそれで、美奈も大いに自尊心を満たしていた。しかしその一方で、悔しさもあった。冠番組を持っても、女子アナランキングの上位に入っても、それは結局〈女子アナ〉という枠の中。結局自分は、アイドルを辞めたのに、ここでも、アイドルのような扱いに甘んじなければならない。「お前は使い捨てだ」と、言われているような気さえしていた。
バラエティーメインだった美奈と対照的に、柚子は、入社二年目から、朝の情報番組に起用され続け、MCも務めていた。過去出演したバラエティー番組は一本だけ。売り出され方が、美奈とは全く違っていた。いわゆる〈女子アナ〉という枠の稼ぎ頭が美奈なら、若手の〈女性アナウンサー〉の顔が柚子だった。
そんな中で、今年からキャストを大幅に変えた〈昼いち!〉のメインMCに抜擢されたのが自分だったということに、美奈は笑いが止まらなかった。自分がメインMC、そしてあの柚子がサブMC――つまり、私の下。勝った、と思った。
柚子の機嫌をとるためか、今年の二月、〈昼いち!〉のキャスティングの内定後早々に、辻木が、美奈と柚子を引き合わせる食事会を開いた。確かに、柚子にとっては屈辱だっただろう。後輩がメインで、先輩の自分がサブ――しかも、バラエティー上がりの自分に、情報番組のメインMCの座を取られ、あまつさえその下につくというのは。
しかし美奈は柚子に対する申し訳なさは微塵もなく、むしろ、柚子のご機嫌取りをする辻木に対して、腹を立てていた。
どんなに人気が出ても、アナウンサーなんて、何の権力も権限も持たない。局の方針に従うだけの会社員だ。そしてその方針を決める側の人間が、辻木のような、制作サイドの上役だ。嫌なら辞めろ、とも言えるし、嫌でもやれ、と命令もできる。そんな圧倒的に上の立場の人間が、どうして柚子に気を使っているのか。二人には何か、不倫をしているだとか、そういう関係があるんじゃないかと、美奈は勘ぐってさえいた。
油断したらいつでも交代させられると、辻木と柚子の妙な力関係のこともあり、美奈は隙を見せないように、番組の内外問わず立ち振る舞った。それが功を奏してか、十月からの秋クール以降も、メインMCの続投が決まった。
ところが、その決定の直後、美奈の高校時代の飲酒疑惑の報道が、週刊誌から出た。先週の出来事である。
美奈は、週刊誌側から記事の記載に関する連絡を受けた後、アナウンス部の部長や編成局の局長、局次長、そして番組のプロデューサーたちなどに、かわるがわる飲酒について訊かれた。
「飲酒の事実はありません」
美奈はそのたぐいの質問に対して、一貫してそう答えた。