名残の袖(2)
詩乃の仕事先が決まったのは、二月の、バレンタインデーから数日後のことだった。茨城県の観光推進委員会の求人に応募していたものが通ったのだ。それが決まると、弁護士と進めていた任意整理の借入先企業との話し合いもまとまり始めた。最終的には、七年間で完済する返済スケジュールを立てることができた。
三月の頭には、詩乃の大学入試があった。
二校を受けて、翌週には二校とも合格発表があった。どちらも、合格していた。そのうち、詩乃は茶ノ原高校が喜びそうな方を選んで、その大学に入学手続き関係書類を送り、入学金を振り込んだ。入学のためには前期の授業料も払う必要があり、決して安い金額ではなかったが、詩乃にとって、それはけじめのようなものだった。
柚子は、二月も三月も、何度も詩乃を家に招いた。行かないとわかっている大学でも、その試験に受かったことを手の込んだ夕食とデザートで祝った。そのころになると、詩乃の北千住の家も、かなり片付いていた。本はほとんどすべてを文芸部に寄贈し、食器も小物も衣類も、ほとんどをリサイクルショップに売っていた。詩乃は、ボストンバック二つで東京を出るつもりでいた。
新しい生活への期待感を、柚子も、感じていないわけではなかった。しかしそこには、詩乃との別れも、同時に付きまとう。新しい生活の始まりは、詩乃との別れを意味する。別れとスタートのカウントダウンが、一日、また一日と、近づいてくる。朝起きた時、柚子が真っ先に考えるのは、詩乃のことだった。
あと一か月があと三週間になり、二週間になり、一週間になった。詩乃が東京を出る日程が決まったのは、卒業式の十日前だった。その十日の間に、交友関係の広い柚子は色々な催しや会食に誘われた。逆に柚子は、紗枝と千代を誘って、三人で高校生活最後の食事会とお泊り会をした。しかし柚子は、二人にも詩乃と別れることは話さなかった。二人の反応を見るのは、想像するだけで辛かった。
卒業式の前日――三月十八日は三年生追い出し祭が開催された。茶ノ原高校の裏文化祭と言われている、生徒と教師だけのイベントである。早朝六時から開催され、三年生は客として参加する。詩乃と柚子は、駅で待ち合わせをして、六時の開幕セレモニーからこの催しを楽しんだ。
写真部、書道部、美術部、生物部や天文学部の展示を見て回り、テニスコートに作られた園芸部の〈庭〉を二人で歩いた。詩乃は、まともに文化祭の展示や発表を観て回るのは、これが初めてだった。工作部連は各部が連携して、ロボット動物園を開き、ドローンレースを開催していた。柚子にとっても、始めて見る展示がいくつもあった。
体育館舞台発表では、ダンス部は一年生と二年生でマイケルジャクソンを踊り、柚子はスタンディングオベーションで後輩たちの発表に応えた。文芸部も、発表は無かったが、部誌を出していた。詩乃の作品の入っていない最初の部誌、文庫本サイズ。詩乃は文芸部前の無人販売所でそれを二冊買い、一冊を柚子にあげた。
追い出し祭が閉会すると、片付けの後、各部活はこの日に卒業記念会を開く。詩乃も文芸部の部室に呼ばれた。まだ読んでいない部誌の感想を聞かれて、素直に「まだ読んでない」と言うと、後輩たちはふざけ半分で詩乃を非難した。詩乃は花束を貰い、寄せ書きを貰った。神原教諭は詩乃へねぎらいの言葉をかけ、詩乃は泣きそうになってしまった。
その翌日が卒業式だった。
卒業式当日の空は青く、高い空にうろこ雲が浮かんでいた。式の終わりに、ピアノ部――橘昴の演奏でコーラス部が早春賦を歌った。どこからともなくすすり泣きが聞こえてくると、卒業生の中からも、在校生の中からも、そして二階席の保護者席からも、すすり泣きは全体に広がっていった。
式の後、体育館の外で、詩乃は赤いガーベラとカスミソウの花束を右手に、左手には卒業証書の筒を持ってぼうっと空を見上げた。学校からのこの空の眺めも見納めかと思うと、込み上げてくるものがあった。あれだけ授業を休んで、友達なんかはいず、学校なんてどうでもいいと思っていたのに、調子のいいものだなと詩乃は我ながらそう思った。
体育館を出た卒業生たちは、仲の良い者同士で集まり、生徒同士で、または先生たちと写真を撮り始めたりしていた。人工芝の緑の校庭へと、卒業生たちは自然と流れてゆく。少しすると、保護者が体育館から出て来て、その後から、在校生が続いた。在校生は、卒業生の中に突進するような勢いで、部の先輩や、会っておきたい先輩を探し始めた。
柚子は早速ダンス部の後輩たちに囲まれていた。
「行かなくていいの?」
詩乃は、突然そんな声をかけられた。
声の主は、紗枝だった。
「あぁ、多田さん。久しぶり」
「水上、卒業できて良かったじゃん」
詩乃は笑った。
確かに、その通りだなと詩乃も思った。
「おかげさまで」
「思ってないでしょ」
詩乃は笑った。
案外多田さんも、自分のことを気にかけていてくれたのかもしれないと思った。
「水上も、大変だったわね」
「え?」
「まぁとにかく、お疲れ。あんまり話さなかったけどさ、私結構、水上の事好きだったよ。――最初はアレだったけど」
そういえば、多田さんとは転校して来て最初の班が同じだった。それを思い出すと、たった二年前が、随分懐かしく感じられた。それと同時に、もうそんなに経つのか、という気持ちにもなった。
「じゃ、またね」
紗枝はそう言うと、陰からこそこそ様子を覗っていた料理部の後輩たちのもとに歩いて行った。近くで誰かが告白をしたらしく、わあっと、黄色い声が湧いた。ズキンと、詩乃は胸が痛んだ。
「あぁ、いたいた。水上君」
と、そう言って、詩乃のもとにやってきた男子生徒がいた。
橘昴だった。コンサートのように、髪もばっちりセットされている。他の生徒とはやはり、存在感が違った。一目でスターだとわかる。
「あぁ、うん。――演奏、良かったよ」
昴はにやりと笑った。
「スイスに行くことにしたよ」
「え、スイス?」
「それだけは伝えたくてね。水上君は、進学?」
詩乃は首を振った。
地方に出て働き始めるということは、柚子以外には言っていなかったが、昴には、ちゃんと言うべきだと詩乃は思った。
「茨城の方に、住み込みで働くことになった」
「え?」
これはさすがに、昴にとっても意外だった。
詩乃は昴の驚いた様子を見て小さく笑った。
「親が借金残して死んじゃって。だからちょっと、稼いでくる」
そうか、と昴は視線を落とした。
「執筆は、続けるんだろう?」
昴はちらりと、目だけを上に向けて、詩乃を見た。
詩乃は、小さく頷いた。
「やめようったって、たぶん、辞められないと思う」
詩乃が言うと、昴は、満足そうにうなずいた。
昴はそれから、ワイシャツのポケットにさしていたペンを抜いて、それを詩乃に差し出した。銀のキャップに暗赤色のボディーのボールペン。
詩乃は昴を見、昴は頷いた。
詩乃はペンを受け取った。
「良いペンだね。……自分は何も、渡せるようなものが無いよ」
「君の彼女がほしいな」
昴の冗談に、一瞬間を置いた後、二人は顔を見合わせて笑った。
まだ笑いの息遣いと、笑顔の余韻が残る顔で、昴は詩乃に告げた。
「――さて、じゃあ僕は行くよ」
「うん」
昴は笑みを浮かべると、詩乃の肩をぽんと叩き、そうして、詩乃の元を離れ、卒業生や在校生たちの人ごみのなかに消えていった。詩乃もそれを見送ったあと、一人グランドを離れた。何となく、早春賦のメロディーを口ずさみながら。
駐輪場から自転車をひき、正門まで歩いた。
正門の前で、詩乃は立ち止まった。思わず振り返り、校舎を仰ぐ。正面の時計塔、左手には人工芝のグランド、右手には、通いなれた三階建ての校舎。詩乃は、この景色を目に焼き付けようとしている自分に気づき、首を振った。
未練を振り払うように、詩乃は正門を出た。
思い出に耽って立ち止まりたくはなかった。
正門を出て左に行けば駅。右に行けば帰り道。
詩乃は右に曲がり、自転車にまたがった。
ペダルを踏もうとした瞬間、ばたばたという足音が後ろから聞こえて来た。
「水上先輩! 待って!」
名前を呼ばれて、詩乃はペダルをスルーして立ち止まった。
振り返ると、愛理が、正門を超えて猛ダッシュでやってくるところだった。
愛理は詩乃の自転車の前に回り込み、はあっと息をついた。
「なんで帰っちゃうんですか」
「どうしたの?」
「いや、先輩、卒業式ですよ? 普通もっとこう、あるでしょ。皆探してたんですから」
文芸部の卒業式は昨日したばかりじゃないかと詩乃は思った。
愛理は手に持っていた茶の紙袋を、難しい顔をする詩乃に渡した。詩乃は袋を受け取り、中を覗いた。透明フィルムでラッピングされた、それはハンドタオルだった。
「三枚入りです、ちゃんと使ってくださいね」
「……大事にするよ」
「いいですよ大事にしないで。普段使いしてください」
わかったと言って、詩乃は袋を自転車の前カゴに入れた。
「先輩、もう帰っちゃうんですか?」
詩乃は少し考えてから、頷いた。
「心残りがあるくらいがちょうどいいんだよ」
詩乃の言葉は、愛理の胸にずっしりと重かった。
自分の心残りを、まるで先輩は見抜いているようだと愛理は思った。
「先輩は、心残りあるんですか?」
愛理の質問に、詩乃はけらけらと笑った。
「――心残りだらけだよ。誰に対しても、何に対しても、大体心残りがあるよ。もっと話しておけばよかった、もっと、言ってやりたいことがあった、とか――今日だって、後からさ、一言くらい挨拶しておけば良かったなんて思うんだと思う」
「先輩、それでいいんですか? それって何か……」
「いいんだよ。その方が健全だと思う。心残りが無いようにやったら、あとは死ぬだけになっちゃうよ」
愛理は一度俯くと、ポケットからスマホを取り出した。
「私も心残りあります。でも一個くらい、消化してもいいですか?」
「え?」
「一緒に写真撮りましょう」
「昨日撮ったのに?」
「まぁ細かいことはいいじゃないですか」
愛理はそう言うと、急に詩乃の隣に体を寄せ、スマートフォンを持った腕を伸ばすと、パシャリと何枚か写真を撮った。愛理は一度、詩乃の腕を強く抱くと、ぱっと離れた。
「これで、一個消化です」
にやっと愛理は笑った。
詩乃も、なんだかなぁと、釣られて笑った。
「先輩、作家になってくださいね」
「いやそれは、なりたいと思ってなれるなら簡単だよ」
「なれますよ、先輩なら。先輩の話、どれも好きでした」
詩乃は笑った。
今になって、部活にもっと顔を出しておけばよかったなと、詩乃は早速後悔し始めるのだった。
「井塚と上手くやるんだよ」
「え、なんでですか。いいんですよ、菱沼江なんて」
「まぁまぁ、愛理。あの子はあれでね、結構実は、俺なんかより情を大事にする男だよ」
「菱沼江がですか?」
「うん。何かあってもね、なんだかんだ言って、何とかしてくれる奴だよ」
愛理は反論しなかった。
確かに、何だかんだと、何事に対しても文句や批判を言うわりに、部の活動には参加して、部誌の編集も、結局は結構やってくれる。文章に関しては、愛理も井塚に、一目置いてはいた。
「――まぁ、潰しませんよ。折角先輩が再建したんですから」
「無理のないようにね」
「それは先輩です。先輩潔癖だから――色々と、無理しすぎないでくださいね。生きてればまた会えますから」
なかなか言うじゃないかと詩乃は思った。
詩乃はサドルにまたがって、ペダルに足をかけた。
「今日は、詩は無いんですか?」
愛理は、少し声を張って詩乃に訊ねた。
詩乃はそう言われて、空を見上げた。
「ひさかたの――ひさかたの、春の日に散る回雪の、名残の袖をひきたち行かん」
おぉ、と驚く愛理。
詩乃は愛理に軽く手を振り、自転車をこぎ出した。