みおつくし(4)
『新年、明けましておめでとうございます!』
新しい年がやってきた。
新年のチューね、と柚子はそう言って詩乃の頬に唇をつけた。
その夜は夜更かしをして、そうして二人で朝を迎えた。二度寝、三度寝を繰り返し、二人が起き出したのは、朝のずいぶん遅い時間だった。詩乃はカーテンを開け、大根と人参と餅で、白出汁の簡単な雑煮を作った。
元日の朝日がガラス戸に差し込んでいるのを見て、詩乃は、自分は生きているんだな、と、そんなことを改めて感じさせられた。新年は来ないものだと、なんとなく詩乃は思っていた。それが今、自分は新年を迎えていて、呑気に朝食を食べている。しかも、新見さんと二人で。それは、詩乃にとっては奇跡的なことのように感じられた。
雑煮を食べながら、柚子は詩乃の様子を覗っていた。
どんなに幸せでも、昨日詩乃が、酒を飲んで水を被っていたということを、柚子は忘れていなかった。普通じゃない状態だったことよりも、そういう状態に駆り立てたものが、まだ詩乃君の中にあるのだと思うと、決して楽観的に構えてはいられない。もしあれの目的が――詩乃君が、命を捨てるためにあんなことをしていたとしたら、私は、どうしたらいいのだろう。
「今日、これ食べたら、帰りな」
詩乃が言った。
柚子は、目を見開いて詩乃を見つめ、すがるように、詩乃の腕をつかんだ。
「なんて顔するの」
詩乃は笑ってしまった。
しかし、その表情の理由がわからない詩乃ではなかった。
「家の人、心配するよ」
「詩乃君の方が心配」
柚子は反射的にそう言った。
そりゃあそうだ、と詩乃は思った。昨日のことを考えれば、自分が、自殺をしようとしていたと、そう思われても不思議ではない。そんなつもりはなかったが、だからといって、「このまま死んでもいいかな」というような気持ちを抱いたのもまた、事実である。
「大丈夫大丈夫、もうしないから」
詩乃がそう言っても、柚子は詩乃の腕を離さなかった。
「死のうと思ったわけじゃないんだよ」
詩乃は言い訳のように柚子に言った。
確かに部屋を荒らしたり、酒を飲んだり、それで理性を失って水をかぶったりしてしまったが、今はもう、あの破滅的な衝動は、どこかへ消えてしまった。
新見さんに、生きているということを自覚させられて、しかももしかすると、新たな〈生〉が新見さんの中に宿ったかもしれないことを考えると、その一大事の前では、自分の抱えていたあらゆる問題が、ちっぽけなことのように思えてくる。
詩乃は、ずっと渡しそびれていた家の合鍵を、柚子に渡した。
「明日、来られる?」
「うん。でも、ずっといるよ? 今日も――」
「ダメダメ、ちゃんと家帰って――予定になかったことでしょ? ちゃんと、生存証明してあげたほうがいいよ」
じゃあ、詩乃君の生存証明はどうするの――という言葉を、柚子は呑み込む。
「ちょっと、サボってた片付けしちゃいたいから」
「手伝うよ」
「心配しないで」
「心配だよ!」
柚子の訴えは、詩乃の心を深く突き、大きく震わせた。
柚子の瞳の強さに、詩乃は「ごめん」と、その言葉が口をついて出た。
柚子の目にうるうると涙がたまってゆく。
「なんであんなことしてたの! 置いていかないでよ! 詩乃君、死んじゃ嫌だよ! なんで――」
ぐずぐずと、柚子は詩乃の胸に顔をうずめて泣いた。押し殺していた不安と悲しさは、一度タガが外れると、もう抑えようがなかった。色々な言葉を、柚子は手あたり次第詩乃にぶつけた。言葉が尽きると、柚子は悲しそうに、さめざめと泣き始め、詩乃はそんな柚子を、胸の中に抱き止めて、背中や頭を撫でてやることしかできなかった。
昼過ぎに、柚子は詩乃の「大丈夫」という言葉を信じて、詩乃の家を後にした。詩乃は、柚子が帰ると、早速部屋の片づけと、そして明日、柚子を迎えて驚かせるためにおせち料理を作ることを思いついて、その準備もし始めた。
片付けを終えたのは、その日の夜だった。詩乃は、ぶっ通しで働いていた。それでも、心は少しも疲れてはいなかった。
部屋の片付けも終え、おせち料理の準備も終わった後、詩乃はシャワーを浴び、夕食に焼きそばを作って食べて、パソコンの前に座った。コーヒーを飲みながら、ネットで調べ物をする。
「――三十パーセントかぁ」
詩乃は、調べた情報を、モニターに向かって呟いた。
そうしてまた、別の調べ物に移る。高卒の仕事、求人、職種と給料――そんなことを、眠くなるまで調べてから、身体の疲れに任せて布団に入った。『明日、お昼前には行くね』と、そんなメッセージが柚子から届いていた。詩乃は短い返事を柚子に返して、部屋の電気を消した。
翌日、柚子は約束通り、昼前に詩乃の家にやってきた。扉の前に立ちブザーを鳴らす瞬間、柚子は昨日のことを思い出し、思わず息を止めた。しかし今日は、すぐに足音が響いて近づいてきたかと思うと束の間、ガチャっと扉が開いた。
柚子は、真っ白いダウンジャケットを上に着て、下は、黒地に白花模様、マキシ丈のフレアスカートという格好だった。髪は、簪で丸く一つに結い上げている。一方の詩乃は、今朝乾いた、紺色上下の部屋着を着ている。
「いらっしゃい」
「おはよー。寒いねぇ、今日」
二人はそんな挨拶を交わして、詩乃は柚子を家に入れた。
柚子は部屋に入ると、手土産の焼き菓子を詩乃に預け、ジャケットを脱いだ。
ジャケットの下は、鮮やかな朝焼け色のセーターだった。胸元には、当然のようにトリニティリングにダイヤのネックレスが光っている。
柚子は、すっかり綺麗に片付いている部屋を見て驚いた。
本は綺麗に本棚の中に並べられ、布団や毛布も片付いており、ペンは、十本ほどが、PCモニターを乗せているモニター台の空いたスペースに綺麗に並べられている。壁際の本棚の上に、酒のボトルが飾られているのを見て、柚子は思わず笑ってしまった。洋酒のガラス瓶は形が良く、中身の琥珀色も綺麗で、確かに、ディスプレイするにはぴったりだ。隠さずに飾りにしてしまうという大胆さが、まさに詩乃君らしいなと、柚子は思った。
詩乃はちゃぶ台の一片に座布団を敷き、そこに柚子を座らせると、湯呑みに甘酒を入れて、柚子に振る舞った。詩乃も柚子の向かいに座り、二人で甘酒を飲んだ。
元気そうな詩乃の様子を見て、柚子は心から安心した。甘酒の熱が身体の奥を温め、その甘さが、体中に染みた。
「朝何してたの?」
「朝? 料理作ってた」
「今日朝ごはん食べたんだ」
「いや……食べてない」
「え!? 料理作ったんじゃないの?」
「作ったけど、朝ごはんじゃないよ。――ちょっと、持ってこようか」
詩乃はそう言うと一旦ちゃぶ台を離れ、三段重ねの重箱を冷蔵庫から出して戻ってきた。
不思議そうに重箱を見つめる柚子の前で、詩乃は恐縮がちに重箱を開けた。
重箱の中身は、おせち料理だった。
黒豆、昆布巻、海老の旨煮、伊達巻に人参の八幡巻、焼いたサワラの切り身、ほうれん草の白胡麻あえ、栗きんとん、かまぼこ、酢蓮、絹さやの緑が美しい煮しめ、いくら、かまぼこ、数の子に、てらてら光る金柑の甘煮、そして柚子をくりぬいて器にした紅白なます。
三段の箱をすべて横に並べると、ちゃぶ台は途端に華やかになった。
「えぇ、どうしたのこれ! 作ったの?」
「うん」
「詩乃君が?」
詩乃は、照れ笑いを浮かべながら頷いた。
すごい、すごいと柚子に褒められて、詩乃は恥ずかしさに俯き、もじもじと落ち着きなく手を擦った。詩乃も、自分でおせち料理を作ったのは、初めてだった。
「全部じゃないよ。昆布巻とかは買ってきたのだから」
「でもすごいよ、美味しそう! 綺麗」
「でも、味はわからないよ」
「食べていいの?」
「うん。――でも、お腹空いてる?」
「うん、今空いた!」
詩乃は笑いながら立ち上がり、取り皿と箸と、そして、鶏肉を入れてグレードアップさせた雑煮を温めて、柚子に出した。詩乃は、柚子が遠慮しないように、黒豆をつまんだ。
「えぇー、どれから食べよう」
柚子は迷った挙句に、柚子釜のなますに箸を運んだ。
美味しい、と柚子は瞳を輝かせた。
詩乃は、ずずずっと、雑煮を啜った。
もぐもぐと頬を動かし、柚子は詩乃と目が合うと、少し恥ずかしそうに、にこりと笑った。
「思い出で終わらせたくないな」
詩乃は、ぽつりとつぶやいた。
柚子は、伊達巻の触感と風味を味わいながら詩乃を見つめた。
「新見さん――」
詩乃は口を開いた。膨らんだホウセンカが種を飛ばすように、膨れ上がった餅がたまらずに内側の蒸気を吐き出すように、詩乃の感情は自然と、詩乃の口を開けさせていた。
「もし子供ができてたら、産んでくれないかな。嫌じゃなかったら」
柚子は、頬をハムスターのようにしたまま、目も大きく見開いた。
詩乃は、いつだったかの動物ドキュメンタリーのワンシーン――ドングリを食べている最中に鷹を発見してしまったリスのことを瞬間的に思い出した。
ごくりと、口の中のものを飲み込んで、柚子はゆっくりと息を吐いた。柚子の頬と耳が、ほんのり赤くなる。確かにその可能性はあったが、柚子は、まだそのことは考えていなかった。それよりも、詩乃の心と身体のことを心配していた。
柚子は箸置きに箸を置き、お腹に両手を当てて深呼吸をした。
「でも、詩乃君は、いいの?」
怯えたような柚子の目。
詩乃は、唇を結んだ。
それから詩乃は、黙って立ち上がると、押し入れを開けて、その奥から小さな段ボールを引っ張り出してきた。そうしてその中身を、おせち料理の隣に置いた。
三冊の本だった。
いかにも二次元的なイラストが表紙に施されている。
「中学生の時書いたって本、これだよ」
詩乃は、その三冊を睨みつけると、続けた。
「書きたくなかったけど、出版社の方は、書かせ続けようとしてきたんだ。こんな、大量消費されるだけの似非ファンタジー。でも、利益は出るから。中学生だったのに、色々と、随分なこと言われたよ。うちの母さんのことも知らないのに、書き続けて、売れ続ければ、お母さんも喜びますよ、なんて口先でさ。――たぶん、絶対忘れないと思う。父さんが死んだときも、入院中も、仕事関係者は、自分の利益の事ばっかりだったよ。お金の話を随分された。その時も、知りもしないくせに、お父さんならそうしてると思うとか、お父さんはそれを望んでると思いますとか、そういうことを平気で言われたよ」
詩乃は、柚子の目をじっと見つめながら、ちゃぶ台の上に手を出した。柚子は、自然と詩乃の出した手に触れ、握った。
「責任とか義務とかで言ってるんじゃないよ。自分が、そうしてほしいから言ってるんだ。家族って、自分にはあんまりよくわからないんだけど――もうその、よくわからない家族さえいないんだけど……新見さん、どうだろう。新見さんは、どう思ってる? 建前は無しで、素直にどう思うか、聞かせてほしい」
詩乃は、柚子の手をぎゅっと握った。
柚子は、大きな決断の前に立っているのを自覚した。
子供、もしできていたら、お父さんは何て言うだろう。お母さんは何て言うだろう。お兄ちゃんや、お姉ちゃんは、親戚には何を言われるだろう。学校は、先生には、友達には、ダンス部の皆には、自分はどう映るだろう。それを考えると、柚子は恐ろしかった。
握った手から柚子の恐怖を感じ取り、詩乃は言った。
「世間は勝手だよ。勝手に、不幸と決めつけてくると思う。でも、新見さん、自分は、新見さんといて不幸だと思ったことは一瞬も無いよ。もし新見さんもそうだと思うんだったら――自分が新見さんの傘になるよ」
柚子は、潤んだ瞳で、うんうんと首を縦に振り、握った詩乃の手に自分の額をくっつけた。
「……嬉しい」
柚子は呟いた。
それから柚子は、詩乃の手にキスをして、口元を詩乃と自分の手で隠したまま、詩乃を見つめて言った。
「もしできてたら、産みたい」
「本当に?」
「うん。きっと可愛いよ、詩乃君に似て」
「え、自分に似て?」
「うん」
柚子はそう言って笑った。