みおつくし(3)
「……たぶんもう、大丈夫だと思うけど」
詩乃はそう答えたが、柚子の咎めるような、泣き出しそうな視線にはやりようがなかった。自殺をしよう、なんて考えたわけではなかったが、死んでもいいのかな、くらいの、生きることへの諦めのような気持ちを抱いていたのは確かだった。そのことを、柚子に叱られたような気がした。
柚子はほうっと息をついた。
それから、詩乃の瞳を見つめた。
小説を書く詩乃君は、それなのに、言葉というものをあまり信用しない。だから、励ましや応援も、言葉では詩乃君に伝わらない。だけどそれを伝えたい。私は心から、詩乃君のことを大事に思っている、詩乃君は私のかけがえのない人なんだよ、と、柚子は、詩乃の寝顔を見ながら、言葉では伝えられないそのことを、伝える覚悟をはっきり決めていた。ずっと伝えようとは思っていたけれど、ここまで来たら、もう今伝えないといけない。今を逃したらきっと、取り返しがつかないと、柚子は思った。
柚子は詩乃の両手を掴んで、覆いかぶさるように、詩乃の唇に自分の唇を押し付けた。
ぷはっと柚子は唇を離し、馬乗りのような状態で、詩乃の顔を上から見下ろした。
詩乃は、柚子に掴まれた手を振りほどき、柚子の細い腰を両手で抱きしめながら、今度は自分から、柚子の唇に吸い付いた。詩乃のキスは、唇から頬、首筋、耳へと移った。柚子は「はあっ」と、張りつめたような声を発した。
二人はまた見つめ合った。
恥じらいながらも誘うような柚子の目に、詩乃は固くなってしまった。
「ね、もっと触って」
柚子はそう言いながら、詩乃の両手を掴むと、自分の胸に詩乃の手を持ってゆき、ぎゅっと、詩乃の手をその膨らみの中に埋めさせた。
それでも詩乃の目にはためらいが浮かんでいた。
柚子はそれを見て、詩乃に笑いかけた。
「私に全部ぶつけてよ」
詩乃は、柚子の胸の中で手を動かした。
ちょうど詩乃の指が、柚子の胸の敏感な部分を擦り、柚子は子犬のような声を上げた。柚子は、自分の身体の反応に驚いてしまった。服の上から少し触られただけなのに、身体の奥を直接撫でられたような衝撃があった。
「怖くない、よ、だから、詩乃君、好きにして……」
詩乃の手の動きに、とぎれとぎれの息遣いになりながら、柚子が言った。
詩乃は、自分が男であるということを一度自覚させられると、その本性を柚子の前にさらけ出した。柚子は、いつもより乱暴な詩乃の動きや、その目の獰猛さに、怖いよりはむしろ幸福を覚えていた。詩乃君の心には嵐がある。その、猛り狂う大嵐を、ついに自分に向けてくれたことが嬉しかった。その幸福感で柚子は、詩乃に背中や内腿を撫でられるだけで熱い吐息を漏らし、胸を突き出すように仰け反ってしまった。
ひくんひくんと上半身を動かしたり、腰や、脚をくねらせたりする柚子の全ての反応が、詩乃を昂らせた。詩乃は柚子の反応を確かめながら、手や唇や、時には舌も使って、柚子の色々な部分を探った。
それでも、詩乃の優秀な理性は残っていて、最後の一線は、越えなかった。
しかし柚子は、もう覚悟は決めていた。言葉ではなく、詩乃の心を動かすには――詩乃君の苦悩を打ち砕いて、詩乃君に〈生〉を意識させるには、自分の全部をぶつけて、捧げるしかない。その証明をしてもなおダメなら、もうその時は、一緒に地獄巡りのツアーに出よう。詩乃君のいない日常なんて、考えられない――。
柚子は思いつめた気持ちを笑顔に乗せて、詩乃の上にまたがった。自分の身体が、男の子を受け入れる準備が出来ているのを、柚子は充分知っていた。
「新見さん、でも、それは――」
「いいの」
柚子はそう言うと、臍と臍がくっつくように、ぺたりと詩乃の上に折り重なった。詩乃は愛おしさに、柚子の背中に手を回した。柚子は小さく震えたあと、詩乃の肩先に両手をついて、詩乃を真っすぐ見下ろしながら、にやりと微笑んだ。照れ隠しのような、泣いているような、いたずらっ子のような、不思議な笑顔だった。
いつの間にか眠ってしまった二人は、またいつの間にか、どちらともなく目を覚ました。目を覚ましても、柚子は日向ぼっこをする猫のように微睡んでいた。一方で詩乃は、電源の入った機械のように、体中の感覚がしっかり覚醒し、頭も寝起きとは思えないほどしゃっきりしていた。
詩乃は、たまにぎゅっと腕を抱きしめてくる柚子の温かさと柔らかさを、皮膚にじかに感じながら、また、柚子の気持ちよさそうに目を閉じた顔を見つめながら、柚子の頬を撫でたり、頭を撫でたりした。心の底から柚子の事を可愛いと思った。
少しずつ柚子も意識がはっきりしてきて、そうすると互いに、しっかり目が合った。目が合うと、柚子は恥ずかしそうに笑いながら、詩乃の腕に頬を寄せた。
詩乃は壁の時計を見た。時計は十時過ぎを示している。最初、詩乃はこの十時が、朝か夜かわからなかった。カーテンの隙間から外を確認し、夜の十時であることを確かめた。しかし、今日は何日の夜十時なのだろうか。
詩乃は、PCモニターを見ようと立ち上がった。
すると柚子が、立ち上がろうとする詩乃の腕をぐいっと掴んで、離さなかった。
「今、何日かと思って」
「確かめてあげる」
柚子は、とりあえず詩乃を布団の中に引き戻し、布団の傍らのバックからスマートフォンを取り出した。十二月三十一日の十時二十分だった。
「今日、そうか……大晦日だったんだ」
詩乃は呟いた。
クリスマス以降、詩乃は時間も日付も意識しないまま、寝起きのリズムさえ混沌とした時間を過ごしていた。それが今、現実の世界に引き戻されたような気がした。
「今日、泊まってっていい?」
柚子は、詩乃に訊ねた。
「うん。でも、家の人は?」
「電話する」
柚子はそう言うと、もこもこと、布団から体を起こした。
詩乃は、布団の隅に追いやられていた自分のガウンを柚子に渡した。柚子は詩乃のガウンを着て、立ち上がった。
「ちょっと、電話してくるね」
柚子はそう言うと、洗面所に向かった。
洗面所の引き戸を閉めて、風呂場に入り、その扉も閉める。それから一つ緊張の息をついてから、母に電話をかけた。
『もしもし、柚子ちゃん? どこにいるの?』
心配そうな母の声を聞いて、柚子の胸がちくりと痛んだ。
「うん……、水上君の家にいるんだけど――」
『あら、そうなの?』
「うん……」
『晩御飯は、どうする?』
「いらない、と思う……」
『水上君のお家でご馳走になるの?』
「うん……そうしようと思うんだけど、お母さん――」
そう言った後で、柚子は母に何と言ったら良いのかわからず、言葉が続かなかった。今日は水上君の家に泊まります、なんて直接は言えないと思った。大晦日に、高校生の自分が彼氏の家に泊まるなんて、詩乃君の飲酒かそれ以上に普通じゃないことのような気がする。そんな普通じゃないことを、母に言うのは、柚子は気が引けた。母を、普通じゃない娘の母親にはしたくはない。けれど、今詩乃君を一人には出来ない。
『――帰り、遅くなるの?』
「……うん」
ふーっという、ため息とも何ともつかないような風音が、小さなスピーカーの奥から聞こえたような気がした。
『何かあったの?』
「……あの、お母さん、今日、水上君の家に泊まりたいんだけど……」
『そうねぇ……。でも、お父さんは許さないと思うけど、それでも泊まりたい?』
「うん。水上君を一人にしたくないんだ」
柚子の母は、詩乃の母親がすでに故人であることも、そして十月に詩乃の父親が亡くなったことも、当然娘から聞いて知っていた。柚子の母も親なりに、娘の性格はわかっていた。両親のいない大切な人を、こんな日に一人にはしたくないという気持ちを持つことは、柚子ちゃんなら当然のことかもしれないわね、と思った。きっと、お父さんが反対しても譲らないだろう、ということも。
柚子ちゃんもやっぱり、私の子ね、と母は思った。
「――お母さん、お父さんに言ってもいいよ」
『え? 怒られちゃうわよ?』
「うん、でも。私、悪いことしてないと思う」
くすりくすりと、電話の向こうで口元を押さえて、柚子の母は笑ってしまった。高校生の恋愛と侮っていたけれど、もしかすると、違うのかもしれないわねと母は思った。柚子の母も、同じような経験を、今の柚子ほどではないが、若いころにしていた。
『じゃあ柚子ちゃん、泊まるのはいいから、何かあったらちゃんと連絡するのよ。水上君のお家ね?』
「うん」
『あと――お父さんにはやっぱり隠しておきましょ』
「え、でも――」
『柚子ちゃんが良くてもね、お父さんがちょっと可哀そう。心の準備ができてないと思うから、ダンス部の友達と初詣行ってることにして、ね』
「わかった。お母さん――」
『柚子ちゃんももうすぐ大学生でしょ。もう自分で、色々決めないとね』
母との電話が終わると、柚子はリビングに戻った。詩乃は、黒いスラックスに黒いヒートテックに着替えていて、シャツかトレーナーか、上に着る物を探して押し入れの中に頭を突っ込んでいた。
柚子は、詩乃の背中に抱き着いた。
詩乃は、柚子を負ぶる様に両手を後ろに回した。
「電話、終わったの?」
「うん」
「いいって?」
「うん」
詩乃は半袖の白Tシャツを見つけ、それを引っ張り出した。そうして柚子を正面から抱き止めた時、詩乃は、柚子が泣きそうにしているのに気づいた。
「どうしたの?」
「一人って、怖いんだね」
「どうしたの、急に」
詩乃は柚子髪を撫でた。
柚子は詩乃の身体を強く抱きしめた。
二人は、シャワーを浴びた後、折り畳みのちゃぶ台の上に粥を入れた椀を並べ、遅い夕食をとった。PCデスクからモニターだけを下ろして来てちゃぶ台の前に置き、町や道路や寺、神社の風景を映しているネット配信の番組をかけた。
もうあと一時間もしないうちに年が明ける。
詩乃は、家族とでさえ、そんな年末を過ごしたのは遠い昔のことだった。そんな自分が今、新見さんと二人で並んで、新見さんの作ってくれたお粥を食べている。それは、詩乃にとっては、何とも不思議な感覚だった。
ゴーン、ゴーンと除夜の鐘。
初詣の参拝客でにぎわう神社。
甘酒がふるまわれているらしい。
お粥の、梅干しの酸っぱさに、詩乃は生きている実感を覚えた。
カウントダウンが始まった。
ジュウ、キュウと、番組のキャスターが数字を数える。
ゴー、ヨン、サン……――。
柚子が、粥の椀を置いて、詩乃を横から抱きしめた。
ニ、イチ……。