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星の海で遊ばせて  作者: ノマズ
4,月の光に見上げれば
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みおつくし(2)

 次の電車がやってくると、柚子はそれに飛び乗った。


 レールの音と振動が、柚子の心臓の鼓動と同期する。


 どうしてかこんな時に、柚子は詩乃との旅行や、一緒に昼食を食べた時の印象深いワンシーンや、詩乃の言葉や笑顔、ネックレスをかけてもらった時の事などを次から次に思い出した。柚子は涙を払った。払って初めて、自分が涙を流しているのに気が付いた。しかしその涙は、急に地下鉄の熱風を浴びたせいかもしれなかった。


 数駅で駅を降り、柚子は、乗り換えのための長い地下の道を歩いた。階段を降り、まっすぐ伸びた道を、気づくと柚子は小走りで走っていた。柚子はそれに気づくと、落ち着け、落ち着けと自分に言い聞かせ、歩みを早歩きにかえた。小走りと早歩きを繰り返しながら、乗り換え先のホームに着いた。今度は、ちょうど電車が入ってくるところだった。ぎゅうぎゅう詰めとはいかないまでも、車内はかなりの混雑で、乗り込んだ柚子は、そっと静かに息を吐いた。





 北千住駅に着いた柚子は、詩乃の家を目指した。


 駅から徒歩数分の距離だったが、柚子は、最初の路地を過ぎると、もうほとんど小走りで走っていた。何に駆り立てられているかもわからないまま、柚子は暗く狭い路地を走った。


 詩乃の住むアパートに着いた。


 大股一歩で踏み越えられそうな小さな庭に、詩乃の家のベランダがある。ベランダに面したガラス戸にはカーテンがかかっていたが、その隙間からは、光が零れていた。


 詩乃君、家にいるんだ――。


 柚子はアパートの正面に回り、詩乃の家の扉の前にやってきた。


 ブザーを押す。


 正月飾りもない扉を、じいっと柚子は見つめて返事を待った。


 返事が無いので、もう一度ブザーを押した。


「水上君、新見です。いますか?」


 ノックも加える。


 しかし、やはり返事はない。


 柚子は扉に耳を当てた。


 足音も、何かが動くような気配もない。


 柚子はドアノブに手をかけ、回し、引いた。


 扉は何の抵抗もなく開いた。


 廊下の明かりは点いている。


「詩乃君? 新見です――」


 明けたドアの隙間から、柚子は家の中に呼びかけた。


 それでも返事はなく、柚子は扉をもう少し開いた。ザーと、風呂場からシャワーの音が聞こえてきた。――なんだ、お風呂に入ってるだけか――とは、柚子は思わなかった。風呂に入っているにしても、水音だけというのは、おかしい気がした。


「詩乃君、新見です。いますかー?」


 柚子は呼びかけ、身体を小さくしながら、玄関に入った。


「詩乃君! 新見です。心配だから来たよ、いる?」


 玄関の扉が閉まり、さっきまでより大きな声で、柚子は呼びかけた。


 返事はなく、シャワーの音だけが変わらずに聞こえてくる。


「詩乃君、入るよ? おじゃまします」


 柚子は靴を脱ぎ、中に入った。


 詩乃の家の風呂場は、居間へ続く廊下の途中、玄関から進むと右手にある。脱衣所があり、その奥が風呂場になっている。柚子は数歩でその入口までやってきた。脱衣所の引き戸は開いていて、電気も点いていた。


「詩乃君、入るよ?」


 中にそう声をかけてから、柚子は恐る恐る脱衣所を覗いた。


 その瞬間、柚子は目を見開き、息を止めた。


 浴室の扉は開いていた。


 出しっぱなしになったシャワーがシャワー掛けに掛けられ、ジャージャーと水を放出している。


 そしてその下には、詩乃がいた。


 バスチェア―に座った格好でがくりと頭を垂れ、垂れ下がった髪から幾本もの水の筋が床に向かって流れ落ちている。着ている紺のスウェットは上も下もびしょびしょに濡れて、シャツの袖からも、ズボンの裾からも、絶え間なく水が流れ出している。


「詩乃君!」


 柚子は、悲鳴のような声で詩乃の名を呼び、詩乃に駆け寄った。


 生きているのか、死んでいるのかさえ判別がつかない。


 柚子は水を頭からかぶりながらハンドルを捻ってシャワーを止めた。柚子は、シャワーの水が、本当に冷たい水だということを知った。


「詩乃君、詩乃君!」


 柚子は、詩乃の両頬を持ち上げ、ぐっしょり濡れた前髪を拭った。


 最悪の事態を想像して、柚子の唇は震えた。


 詩乃の唇は紫色で、頬も首筋も、冷たくなっていた。


 呼吸も、あるのかないのか、柚子には判別できなかった。


「詩乃君! 起きて! 詩乃君!」


 柚子は必死に呼びかけた。


 それでも反応がない。


 柚子は詩乃の鼻先に手の平をかざし、首筋や心臓に掌を当てた。


 ――息もしていない。脈も、心臓の音も聞こえない。


「詩乃君、なんでっ……」


 反応の無い詩乃の顔に、柚子は自分の額をくっつけた。


「なんでよぉ!」


 柚子は目を瞑った。そして次の瞬間、柚子はわーっと、声を上げて泣き出した。子供の時分ですら、柚子はそんな泣き方をしたことがなかった。その、ただ事ではない泣き声に、びくっと、詩乃は目を覚ました。


 詩乃は、死んではいなかった。


 ただ、柚子は気が動転していたために、詩乃の生体反応を正しく読み取れなかったのだった。柚子は、詩乃が動いたことにはすぐ気づき、はっと顔を上げた。


 至近距離で、目と目が合う。


 驚いたのは詩乃の方だった。


 どうして目の前に新見さんがいるんだろう。


 詩乃は、夢か現実かの区別もつかないまま、何となくぼーっと柚子に話しかけた。


「新見さん……大丈夫?」


 ガチガチと唇を震わせながら、詩乃はそう言った。


 柚子は、ずずっと鼻をすすって、詩乃が生きていることに、この上ない喜びを感じた。


「詩乃君、ダメだよ、寒いよ、ね、行こう」


 柚子は、もつれる足の詩乃を風呂場から出して、バスタオルで全身を拭くと、シャツを脱がせ、身体も拭いた。ズボンも、抵抗はあったが、今はそれどころではないと、脱がせて下半身も拭いた。流石にパンツまでは勇気が無かったので、ソコは上から拭くことにした。詩乃は朦朧としていて、柚子の成すがままにされていた。


 洗濯機の横にクリーム色のふわふわしたガウンがあったので、柚子は詩乃にそれを着させた。そうして柚子は、詩乃をリビングに連れて行った。


 部屋に入り柚子はその惨状を目の当たりにし、驚いた。


 本や紙や、PCモニターやペンや、部屋中のものが、不自然に散らかっている。布団の横にある酒のボトルと、茶色い液体の入った平皿も、柚子はすぐに確認した。


 しかし今は、そういったことに驚いている場合ではない。


 柚子は詩乃を布団に寝かせた。


 手も、足も、体中が冷えている。


 柚子は寝かせた詩乃の隣に自分も寄り添い、毛布と掛け布団に一緒にくるまった。毛布の中で、柚子はぎゅうっと詩乃の手を握り、足と足を絡めた。


 暫く柚子がそうしていると、詩乃の身体にも人の体温が戻ってきた。


「詩乃君、大丈夫? 寒くない?」


「うん……」


 ぼんやりと詩乃は返事をして、そのまま眠りについた。


 柚子は詩乃がすっかり寝てしまってから、布団を出た。とりあえず酒の入っているらしい小皿を流しに持って行く。酒のボトルを布団から離し、散らばっているものを、機械的に整理し始める。


 ――何がどうして、こんなことになっているのだろう。


 わからない。


 わからないので、今目の前の、やった方がいいことをやるしかなかった。


 片付けの最中、柚子は、PCデスクの隣の本棚の上に、不思議な空間があるのを見つけた。部屋中散らかっているのに、そこだけは、全く無傷だった。サイフにキーホルダーに、マフラー、手袋、懐中時計、そして翠の万年筆――柚子は、その棚の上のものが、全て自分の贈ったものだと、当然すぐに気が付いた。


 棚の上には、他にも、柚子の知らないものがいくつか置いてあった。赤い着物姿の可愛らしいこけし、淡い紫色のお守り。小倉百人一首の本を中心に、全てが配置されている。それはまるで、詩乃専用の、小さな神棚の様だった。


 柚子は、デスクチェアーに座り、その〈神棚〉をじっくり観察した。


 それから柚子は、自分の空腹を思い出した。


 きっと詩乃君も――いや、詩乃君は、昼を抜いたとかいうレベルではないかもしれないと柚子は思った。最後に食事を摂ったのは、いつだろうかと、柚子はそこから心配になってしまう。とにかく、詩乃君が起きたら、お腹が空いているだろうから、何か食べるものを用意しよう。


 柚子は鍋でおかゆを作ることにした。


 長ネギを切りながら、柚子はじんわりと目ににじんでくる涙を拭いた。


 どうして詩乃君は、あんなことをしていたのだろうと、それを考えると、柚子は途方もなく悲しくなってしまうのだった。詩乃君が何を悩んでいるのか、何に追い詰められているのかはわからない。だけど、追い詰められていたのだ。部屋中を滅茶苦茶にして、お酒を飲んで、そしてお風呂場で、水のシャワーを浴びていた。そんな行動に詩乃を駆り立てたその辛さを想像すると、柚子は胸が苦しくなった。


 一刻ほどすると、詩乃は息を吹き返すように深く息を吸いながら目を覚ました。


 覚醒したドラキュラ伯爵のように上半身を起こし、きょろきょろと、部屋を見渡す。


 デスクチェアーに座って自分を見下ろしていた柚子と、ばっちり目が合った。


「夢かと思った……」


 詩乃は、第一声でそんな事を呟いた。


 緊張が一気に解けた柚子は、はあっと息を吐いて、上半身を折りたたんだ。それから、きゅっと唇を結んで、詩乃を見つめた。


「もう!」


 柚子はそう言うと、椅子から立ち上がって、詩乃の伸ばした脚の太もものあたりに乗っかった。


「心配したんだから!」


「え?」


 詩乃は、自分がやらかしたことを忘れていた。


「体、寒くない?」


「う、うん」


 戸惑う詩乃の手を、柚子はぎゅっと握り、それから首筋や額に触れた。今度はちゃんと温かいのが分かり、柚子は安心した。


「頭痛とかない? 吐き気は?」


「なんともない……」


「酔っぱらってる?」


「……」


 そう言われて詩乃は、自分がしたことを思い出した。酒を飲んで、熱くなったから風呂場でシャワーを浴びたのだった。そこで、どうやら眠ってしまったらしい。死ぬほど寒かったような気もする。

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