みおつくし(1)
二十四日の夜、詩乃は家に帰った後、柚子からのメッセージをスマートフォンに受け取った。しかし詩乃は、メッセージには既読もつけず、端末の電源を落とした。
簪には指輪と同じ意味がある。そのプレゼントをして、詩乃は、遺書を残す人の気持ちが分かったような気がした。ずっと部屋にあった大きな忘れ物を、やっと渡せたような晴れ晴れした気持ちがまず起こり、その後には、心に穴が開いたような、荷を下ろした時に感じる空虚さがどこまでも続いた。
日が明けてまた夜になり、詩乃は少し楽になった心で先々のことを考えてみた。しかしそればかりは、どんなに考えても、見えてこなかった。借金を返そうと心に決めた割には、その生活が、全く想像できない。真っ暗というよりも、何もない真っ白な空間が自分の前に広がっているような気がした。数か月後どころか、一週間後の自分がここに存在しているという確信が、どうにも持てなかった。
借金を返すなら、新見さんとは別れる他はない。そうしなければ、新見さんは、自身が傷つくのをも厭わず、自分を救おうとしてくれるだろう。だけど、地獄巡りなんてやっぱり冗談じゃない。新見さんが自分のために不幸になってゆくなんて、想像しただけで、自分には耐えらそうにない。ここは日本で、十九世紀の革命前夜のパリでもないけれど。
だから、別れなければならない。しかし詩乃は、柚子に別れを告げなければならないと思うと、そのことを考えると、胸が張り裂けそうな気持ちになった。親戚もなく、もう家族もいない自分に、ただ一人寄り添ってくれるのは、新見さんだけだ。この世で一番別れたくない人に、そしてこの世で一番嫌われたくない人に別れを切り出さなければならない。しかも、自分の一方的な理由で。
別れないで済む唯一の方法は、遺産相続を破棄して、借金を背負わないことだ。だけれど、それをしてしまったら自分は、父と家族に対する罪を贖う機会を永久に失うことになる。そして、父と本当の意味で決別する機会も。そんな中途半端で不本意な生き方は、自分にはできない。どんなに新見さんが愛おしくても、それだけはできない。そんな自分では、新見さんの前に立つ資格どころか、新見さんの思い出になる資格すらも失ってしまう。
だけれどそもそも、自分が抱えているこの問題を新見さんに黙っているということ自体が、不誠実なことなのだ。資格というのなら、もう自分は、それを失っているにも等しい。生涯現れないであろう理解者、親友で恋人で、ずっと一緒にいたい人なのに、自分は、その唯一の女の子にさえ、まだ隠し事をしている。そしてその隠し事を隠し通したまま、別れを――一方的な別れを告げようとしている。
詩乃は年末に向かう日々の間、柚子に対する懺悔の気持ちを、A4用紙に書いて時間を過ごした。まとまらない文章だけが重ねられ、ミミズののたうったような文字の書かれた紙が、部屋に散らばってゆく。
そのうち詩乃は、こんなものを書いて何になるんだという乱暴な気持ちになってきた。感情の整理をするため、はたまた、柚子へのわび状をしたためるため。会って別れを告げるのは辛すぎるから、手紙でそれを伝えるため――しかし詩乃は、そういう自分のあらゆる魂胆が気に入らなくなってきた。文字を書きながらも、詩乃はだんだんと自分に対する怒りがふくらんできて、やがて、持っていたペンを思い切り投げ飛ばした。
ガラス戸にぶつかったペンは、ピシっと折れた。
詩乃は、積み重なったA4の用紙を机の上から投げ出し、キーボードもマウスも、机の上のものを全部無茶苦茶に払い落とし、PCモニターも殴り倒した。積み上げられた本や辞書も乱暴に崩し、そのあとは、部屋中の物に怒りをぶつけた。
散らかった部屋を見回しながら、詩乃は、もう何も考えたくないと思った。借金のことを隠したまま新見さんに別れを告げることも、新見さんにすべてを打ち明けることも、白黒つけずに生きていくことも、どれも辛すぎる。それなのに、どんなに考えたところで、どれか一つを選ばなければならない。
――もう、考えたくない。楽になりたい。
詩乃は実家から持ってきていた酒のボトルを布団の脇に集めた。ウィスキーとブランデー、それに日本酒とワインのガラスボトルが、全部で六本。並べたボトルの赤や琥珀色や透明な液体を、詩乃はぼんやりと眺めた。これを飲んだらどういう風になるか、詩乃はもう知っていた。高揚感と思考の鈍化、そして変な冴え――そうしてやがて、眠気が来る。今は、高揚感も冴えも、詩乃には必要なかった。頭が回らなくなれば、もうそれだけで良い。
詩乃はウィスキーのボトルを開けた。
ショットグラスの持ち合わせは無いので、代わりに、普段は醤油を入れる時に使っている小さな平皿を用意し、そこに酒を注ぐ。
平皿のウィスキーをしばし見下ろし、それから詩乃は、それを一口、口に含んだ。
酒気にやられ、けほけほと咽る。
酒はビールしか飲んだことのない詩乃には強烈だった。
咳が収まり、もう一度酒を口に含む。
舌がしびれ、飲み込むと、喉が焼けた。
かあっと、胃が熱くなる。
上等なシングルモルトだったが、詩乃にはまだその旨さはわからない。蒸留酒特有の強烈なアルコールに、体中の血液が巡り始め、呼吸が早くなる。
詩乃はまたウィスキーを皿に注ぎ、今度は息を止めて、一気に喉に流し込んだ。
食道が熱くなり、口の中の血管が、どくどくと膨張するのが分かった。
胸の奥の焼ける感覚が、だんだんと胸全体に、そして腹へと広がってゆく。
今度は別の酒――ヘネシーを小皿に注いだ。
目の奥がくらくらするのを感じると、詩乃は興奮してきた。酒を飲み、喉に流し込むごとに、血液はたぎり、臓器は火事のように熱くなった。頭痛と眩暈と浮遊感に、詩乃は頭をふらふらと宙に漂わせ、うーと、うめき声を発した。
はぁはぁと、息をしながら、詩乃は、「いいぞ」と思っていた。
飲んでしまったものは、もう戻すことはできない。毒が、どんどん体中を巡っていくのが分かる。もうどうにでもなれ、どうしようもない自分は、もっと、落ちるところまで落ちてしまえばいい――。
詩乃は小皿が空くと、また別の酒をすぐに注いだ。
だんだん手元がふらつき、何度か派手に零した。
しかしもう、詩乃には、酒が零れたという些細なことなど、気にならなかった。触覚も、視覚も、嗅覚も、全部が鈍くなってゆく。
このまま飲んで、動けなくなったらどうなるだろう。
この家には一人しかいないから、危なくなっても、すぐには助けてもらえない。
アルコール中毒になったら、そのまま死ぬのかもしれないなぁ。
詩乃はそんな事を、ぼんやりと考えた。
死にたくはないなぁ。でも、死んだら、新見さんに別れを言わなくて良くなる。それだけは救いだなぁと、詩乃は思った。柚子の顔を思い出し、詩乃はまた一杯、酒を呷った。
「熱い、熱い……」
詩乃はうなされるように呟いた。
はっとして、柚子はソファーから上半身を起こした。
リビングの掃除が終わった後、シャワーを浴びて、そのまま転寝をしてしまっていた。大晦日、夕方に差し掛かろうかという時間である。柚子の父は、ダイニングテーブルのいつもの場所に座って、チューハイを飲みなながらテレビを見ている。柚子の向かいのソファーには兄がいて、司法試験の勉強をしている。
柚子の兄は、飛び起きた妹に驚いて柚子を見た。
柚子の顔に、汗がつうっと流れた。
柚子は時計を確認した。
寝ていたのは、二時間ちょっとだとわかった。
柚子は、悪夢を見ていた。雪の中、自分は詩乃君を追いかけている。雪はだんだん吹雪になって、詩乃君は、最初は手の届くところにいたのに、どんどんどんどん進んで行ってしまい、小さくなっていく。呼んでも振り返らない。走って追いかけても追いつかず、最後は自分が転んでしまい、顔を上げると、もう詩乃君の背中さえ雪に消えて見えなくなってしまった。「詩乃君」――大声で呼ぶと、ぐらぐらと地面が揺れて雪崩が起こり、そこで、目を覚ました。
心臓の鼓動が収まらない。
夢なのに、ただの夢ではないような気がする。
柚子はテーブルの上に置いていたスマートフォンを掴むと、何かに突き動かされるように、詩乃に電話をかけた。
――おかけになった電話は、電波の届かない所にあるか、電源が入っていたいため、お繋ぎできません――
通話不可を告げる自動音声が返ってくる。
クリスマス・イヴに別れた後から、ずっとそうだった。あの日以降、電話は繋がらず、メッセージには既読すらつかない。
詩乃君は、実家から引き取った荷物の整理がまだ全然終わっていないと言っていた。だからきっと、片付けで忙しいのだろうと、柚子は思っていた。詩乃はこれまでも、よく学校にも、二人で出かける時にも、スマホを忘れてくることがあった。持っているのに、充電が切れているなんていうことも、一度や二度ではない。だからきっと、片付けに夢中になって、スマホのことを忘れているのだ。
しかし柚子は、同じ電子アナウンスの声でも、今日のは、何か違うような気がした。昨日、一昨日のそれよりも、電子的なその女性の声は、冷淡で冷たい。
どうしてそんな事を感じるのか、柚子にはわからなかった。
でも何か、良くない何かが起きているような気がした。
気のせいだろうかと、柚子は深く息を吸って、吐いた。もしかするとこれは、詩乃君に会いたすぎる感情が、会う口実を作ろうと暴走しているせいかもしれない。夢もきっとそうだ。詩乃君に何かが起きているのではなく、自分の心に起きていることのせいだ。
柚子は、今年もお世話になりました、という、今年を締めくくるメッセージを詩乃に送ることにした。言葉を考えているうちに、きっとこの妙な焦りも消えてゆくだろう。しかし、文字を打ったり消したりしている間にも、柚子の気持ちは落ち着くどころか、焦燥感は増すばかりだった。心臓はトクントクンと鼓動し、文字を打つ手は、寒くもないのに震えだす。
いったいこれは何事だろうかと、柚子は自分でもわからなかった。
心臓の音やこの震え――体が何かを訴えているような気さえしてくる。
「腹でも減った?」
そわそわする柚子に、兄が声をかけた。
ぎゅうっと、柚子の胃が反応する。昼は掃除をしながら握り飯一つで済ませてしまったせいで、柚子は、確かに空腹は空腹だった。しかし柚子の胃は、柚子に空腹を訴えたわけではなかった。寝起きなのに、まるでダンス発表直前のように頭は冴え、腹は、動く準備ができていることを柚子に知らせた。
「ちょっと外行ってくる」
柚子は兄にそう言うと、二階に上がった。
上は部屋着の上からセーターをかぶり、下は動きやすいジーンズを穿くと、その上からトレンチコートをまとった。買い物に行くときに使っているペンギンのトートバックに必要な物をとりあえず放り入れ、階段を降りる。洗面所で軽く髪を撫でつけ、水で顔を洗うと、家を飛び出した。
どうして自分はこんなに焦っているのだろう。
何に焦っているのだろう。
わからない。
だけど、何かがおかしいと、柚子は思った。
この予感は、本当にさっきの夢のせいだろうか。電話がつながらなかったせいだろうか。
茗荷谷の駅に着き、改札を抜ける。
こんな時に限って、電車は目の前で発車してしまう。
次の電車を待つ間、柚子は、詩乃に電話が通じない他の可能性を考えてみた。例えばスマホを、掃除中にどこかの隙間に落としてして無くしてしまった。水を張ったバケツの中に落としてしまった。何か重たい物を落としたり、荷物の下敷きにして壊してしまった。日常的に、いかにもありそうだ。特に、スマホの存在に頓着しない詩乃君の場合は。
しかし、ありそうなことをいくら考えても、それで柚子の気がまぎれることはなかった。しかし柚子は、自分が何を心配しているかも、これとはっきり分かっているわけではなかった。風邪かもしれない、熱を出しているかもしれない――それと似たような心配だが、今柚子が感じている不安は、それよりもはるかに強烈だった。