雪の中(7)
カーテンとカーテンの微かな隙間に、ガーデンライトに照らされた何かの影が、やはり動いた。
「雪だ!」
柚子はそう言うと、ガラス戸に駆け寄り、カーテンを開いた。
すると、柚子の言う通り、雪が降っていた。
庭のライトに照らされて、暗い夜闇をバックに、白い雪が舞っている。
柚子はガラス戸を開け放った。
冷たい空気が部屋に吹き込んでくる。
二人は顔を見合わせると、上着を羽織り、ガーデンシューズをつっかけ、庭に出た。
庭の芝生には雪が薄く積もり始めていた。
「ほんとに降ったね、雪!」
柚子が言った。
柚子の息がふわっと白く膨らんだ。
降ってくる雪は大きな牡丹雪で、それが詩乃の鼻にくっついたり、柚子の髪にくっついたりするのを、二人は互いに笑いあった。雪の冷たささえ、二人には楽しく思われた。柚子は両手をいっぱいに広げて庭の上を歩き、たまに雪を捕まえるために跳んだりした。その様子が、雪の上を跳ねまわる白兎のようで、詩乃は笑ってしまった。
ひと時庭で遊んだ後、二人は部屋に戻った。
詩乃は先に部屋に入った。ガラス戸を閉め、カーテンを閉める柚子を、詩乃は静かに見つめていた。柚子はコートを椅子に掛けて振り向き、詩乃に近づいた。寒かったから、もう一回抱きしめて、温めてもらいたいと、そう思ったのだ。
柚子は期待を込めた目で詩乃を見つめた。
詩乃は、柚子と一瞬目を合わせたが、すぐに椅子の脇に置いたバックに視線を外した。
「――さぁ、今日はもう帰ろうかな」
「え!?」
驚いたのは柚子だった。
確かにもう、夜の八時で、帰るには相応の時間かもしれない。しかしまさか、このタイミングで、こんなにはっきりとそれを言われるとは思っていなかった。
「電車止まっちゃうから」
「え、でも――」
詩乃はコートのボタンをかけ始めた。
柚子は、詩乃の懐に入って、ずりずりとソファーまで押していき、そのまま詩乃をソファーに座らせた。そうして自分も、詩乃の腹に手を回したまま、詩乃にしなだれかかるように座った。
「もうちょっとだけ」
柚子が、拗ねたような口調で言った。
「じゃあ、もうちょっとだけ」
詩乃は、柚子の髪を撫でつけながら応えた。「もうちょっと」の時間、二人はほとんど何もしゃべらずに、ただ互いの存在を確かめ合って過ごした。
「もう行くよ」
いつまでもここにいちゃいけないと、詩乃は踏ん切りをつけて立ち上がった。
柚子は、立ち上がった詩乃のコートの裾を軽くつまんで、詩乃を見上げた。
そんな、捨て犬のような目で見ないでよと詩乃は思った。
「泊まってってもいいんだけどなぁ……」
柚子が言った。
詩乃には、柚子が、本気でそう言っているのが分かった。
この先どうするのか、箱根に旅行に行った時には新見さんに急かして、その先延ばしにしたような態度に歯がゆさを感じていたのに、今は、全く逆の立場になってしまった。新見さんはもう、覚悟が出来ている。覚悟ができていないのは自分だ。けれどもう、先延ばしにしたくても、その「先」が、今はもう見えなくなってきている。
「今日は、帰るよ」
詩乃は、柚子の頬に触れて言った。
嫌いだからじゃないんだよと、詩乃はその思いを、目に乗せた。自分の気持ちをわかってもらおうなんて、これまで誰に対しても思ったことが無かったけれど、新見さんにだけは、誤解はされたくない。
好きなんだよ。
新見さんだけは大事にしたいから、言えないんだよ。
しかし詩乃は、目や手の体温なんかで、そんな思いが伝わるとは思っていなかった。五年先、十年先、下手すればもっと先まで払い続けなければならない借金があって、自分はそれを、払おうと心に決めている。払わない方法もあるけど、ごめん、新見さん、それはどうしてもできないんだ。だから借金は、払い続ける人生を行くよ。そしてこの道は、一人で進むよ。新見さんの愛情を貧しさのために発揮させたくはないんだ。その先にある悲しい結末を知っているから。やっぱり僕の船は、一人用の泥船だったよ。
詩乃は、全て伝わらないことを知りながら、伝わればいいのにと願う自分の感情を見つけ、自嘲の笑みを浮かべた。
詩乃はリビングを出て、靴を履き、玄関を出た。
その後を、柚子がくっついて、玄関先に見送りに出た。柚子は駅まで送ると申し出たが、詩乃はそれを、寒さと雪と、駅から自宅へ戻る夜道の危険のせいにして断った。
「明日、詩乃君時間ある?」
別れ際、詩乃がキスもハグも、次のデートの約束もなしに行ってしまいそうになったので、柚子はそう言って詩乃を引き留めた。
「……家の片付けしないと」
「そっか……」
詩乃は、柚子につれない態度を取る自分を恥じて俯いた。本当は、家の片付けなんて、やるつもりはなかった。実家からの荷物を入れた段ボールは、部屋の隅に置いたままになっているが、部屋が狭くなったのにももう、慣れてしまった。
「電話していい?」
「うん……出られないかもしれないけど」
「そしたら、メッセージ送る」
詩乃は唇を結んだ。
「新見さん――今日は、ありがとう。こんなに暖かいクリスマスは初めてだった。――新見さんと会ってから、なんか、一生分の幸せを貰った気がするよ」
柚子は、幸せと言ってもらえた嬉しさと、急にどうしてそんな事を言うのだろうという違和感との両方を感じた。
詩乃は目元に笑みを浮かべて言った。
「じゃあね」
詩乃はそう言うと、柚子に背を向けて歩いて行った。
街灯が詩乃の背中を照らし、その先に行ってしまうと、もう詩乃の姿は、光と降る雪に邪魔されて、見えなくなってしまった。詩乃の雪の上の足跡も、次から次に降り積もってゆく雪に、次第に薄くなり、消えていった。
柚子は部屋に戻ったあとも、カーテンを開けて、窓の外を眺めていた。
さっきまであんなに楽しかったのに、同じ雪なのに、今降る雪は、降るごとに独りの寒さを突き付けてくる。雨よりも確かな質量で道も人も建物も、覆って隠してしまう。それなのに、それを知らせるような音もない。ただ雪はしんしんと降って、音もなく積もる。
そんな雪を、柚子はガラス越しに見つめた。