雪の中(6)
程なく、バターで玉ねぎを炒めるじゅーっという美味しそうな音が聞こえてきて、パイの焼ける芳醇な香りも漂ってきた。ここしばらく、料理と呼べるほどの夕食を食べていなかった詩乃の胃袋は、ギュウギュウと催促の音を鳴らした。
「なんか、すごい色々作ってるね」
詩乃が、キッチンの柚子に話しかけると、柚子は、笑いながら応えた。
「今日はフルコースだよ」
料理ができ始めて、柚子はそのフルコースを次々とテーブルに運んできた。オニオンスープのポットパイ、ジャガイモのガレット、いくらと三つ葉の混ぜご飯、サーモンのサラダ、そして、シャンペングラスに金色のシャンメリー。ぷくぷくと細かい泡が上ってはじける。
「――あ、音楽かけよっか! BGM!」
柚子はそう言うと、テレビ台の戸を開けて、CDプレイヤーに、用意していたCDを入れた。テレビ横のトールスピーカーから『Deck the Halls』のジャズアレンジをされたピアノのメロディーが流れ始めた。
詩乃の正面に坐りなおした柚子は、スノードームを回転させてペンギンに雪を降らせて、にこりと詩乃に笑いかけると、シャンメリーのグラスを掲げた。
詩乃もそれの真似をする。
「メリークリスマス!」
柚子はそう言うと、カチンと詩乃のグラスに乾杯した。
「メリークリスマス」
詩乃も笑みを浮かべてそう言った。
詩乃はフォークでガレットを切った。すると中から、白いとろっとしたチーズがあふれ出てきた。思わず詩乃は、泣きそうになってしまった。自分は、こんなに優しくしてもらって良いのだろうかと、詩乃は思った。
きっと新見さんは今日、自分を元気づけようとしてくれているのだ。父の借金のことも、そのために大学には通えないかもしれないということも、話してはいないけれど、たぶん新見さんは、自分が心に悩みを抱えているということは、わかっているのだ。だけど何も聞かずに、こうして元気づけようとしてくれている。
詩乃はガレットを口に運び、パイ生地を崩して玉ねぎのスープを味わい、そして、いくらの赤が可愛らしく鮮やかな混ぜご飯を、フォークで掬って食べた。暖かいクリームとチーズの口の中に広がってゆく風味、玉ねぎの甘みとパイのもちっとした触感、しっかりした米と、ぷちっと広がるいくらの、目の覚めるような濃厚なうま味。三つ葉の鼻に抜ける爽やかさ。金色のシャンメリーが、グラスをキラキラ光らせている。
こんなに美味しい夕食を、心から楽しく食べることができない、詩乃はそのことが悔しくてならなかった。新見さんの優しさを、心に曇りなく受け止めることができない自分の不完全さが、どうしょうもなく情けない。BGMの弾むリズムに鳴る鐘の音が心に突き刺さる。
詩乃はサラダを見下ろした。
瑞々しいレタスとスライス玉ねぎのベッドにピンクのサーモンが踊り、ぽこぽこっと、クルトンが散らばっている。シーザードレッシングに、粉チーズがまぶされている。
「サラダにも雪が降ったんだね……」
ぽつりと、詩乃はそんな事を言った。
柚子は、ぱっと顔を上げた。
なんてロマンチックなことを言うのだろうと、柚子は思った。それと同時に、詩乃の生きづらさをも感じて、胸が締め付けられる。
詩乃は、呟きは幻だったかのように、フォークでサラダを食べ始めている。
「このガレットね、私が初めて作った料理なんだ」
柚子が言った。
「そうなの?」
「うん。小学校の二年生くらいだったかな、冬休みの宿題で、お母さんと一緒に作ったの。どう?」
「美味しいよ。全部美味しいんだけど――どれくらい美味しいかっていうと……」
詩乃は言葉を考えてから口を開いた。
「……最後の晩餐がこれなら、幸せだろうなって、思う」
柚子は、詩乃の言葉をぐっと一旦呑み込んで、それから詩乃に微笑みかけながら言った。
「私も、もし最後だったら、こういうのがいいな」
詩乃は柚子の言葉を聞いて、はっとした。
それから、慌てて笑い、首を振った。
「例えだよ。とにかく、美味しいよ。新見さんらしい味で」
「え、私らしい味? どんな?」
詩乃はほっとしながら、味についての感想を、詩的な表現を用いながら柚子に話した。柚子はそれを、うっとりと聞いていた。
夕食の後、二人はまたソファーで、微睡みながら腹を休めた。
その後、柚子はケーキを用意していて、それをテーブルで食べることになった。
柚子が冷蔵庫から出してテーブルに運んできたケーキを見て、詩乃は驚いてしまった。二人ではとても食べ切ることのできない六号サイズほどの、大きなホール型のホワイトケーキ。チョコレートホイップと苺で飾り付けられている。
「新見さん、これ、手作り?」
「うん、全部食べていいからね」
「無理だよ」
柚子は笑顔で、ケーキに蝋燭を立て、火を灯した。
ティーカップに紅茶を淹れて、柚子は、今度は詩乃の隣に坐った。
「一緒に食べよ」
柚子はそう言うと、ケーキを切り分けて、詩乃の皿に取った。次に、自分の分も取る。いただきますを言って、詩乃は早速、一口食べてみた。
「美味しい……」
濃厚な甘さと、クリームの味がふわっと広がる。
そういえば、新見さんのお母さんは、趣味でお菓子教室をやっているのだっけと、詩乃はそのことを思い出した。
柚子はにこりと笑って、ケーキを口に運んだ。
そうして折を見て、柚子はテーブルの下に用意していた袋の中から、チョコレート色の箱に赤いリボンのついたギフトボックスを持ち上げて、それを詩乃に渡した。その中身は、白黒チェックのカシミアマフラーと濃青のツイード生地の手袋だった。
詩乃は早速、マフラーを首に巻いて、手袋をつけてみた。
去年ホームセンターで買った、ごわごわしたネックウォーマーと穴の開いた安手袋とはわけが違う。これまで、そんなものばかりを使っていた詩乃には、柚子のプレゼントの手袋とマフラーは格別だった。靴から財布から、なんだか全身新見さんのプレゼントになっていくなと、詩乃は思った。そのことが、詩乃には何ともむず痒かった。しかしそれは、決して悪い感覚ではなかった。
詩乃は、手袋とマフラーをテーブルの上に置いて、ソファアーの横に置いていた手提げをテーブルまで持ってきた。中には、柚子のためのプレゼントが入っている。柚子から懐中時計を貰った時に、クリスマスにはこれを渡そうと決めていたものである。
「これ……」
詩乃はそう言って、手提げから長方形の桐箱を取り出し、柚子に渡した。小さな鈴の付いた紐で飾られていて、柚子がその箱に触れると、チリンと音が鳴った。
「ええっ、簪!?」
柚子は、想像もしていなかった贈り物に驚いた。
黒べっ甲、平打ちの一本簪。扇型の飾り部分には螺鈿の蝶が、青や緑の――オーロラのような揺れる光を放っている。柚子は、その美しい簪を、食い入るように見つめた。
「これ、私に?」
「うん」
詩乃はいつものように、短く応えた。
螺鈿の飾りを見て、柚子はある小箱のことを思い出した。母の宝石箱である。母は宝石箱を二つ持っているが、そのうちの〈特別〉な方の宝石は、螺鈿の小箱にしまっている。柚子も、子供のころに見たきりだったが、その宝石箱の装飾ははっきりとよく覚えていた。漆の滑らかな黒と、そして、枝に止まった螺鈿の小鳥を。
柚子は、初めて母にその宝石箱を見せてもらった時と同じような、美しさに対する感動を覚えていた。
――こんな美しいものを、自分が?
柚子は、信じられなかった。
「いいの? 本当に?」
「うん、気に入るといいけど」
詩乃は、自分の趣味と柚子の趣味が、果たして合うのかどうか、少し心配になった。送りたいものを送る、相手の趣味はあまり考えない、という流儀の詩乃でも、プレゼントを渡す段になると、小さな不安がよぎった。もうちょっと、新見さんの趣味を聞いて、それに近づけた方が良かったかな、と。
詩乃がそんな事を思っていると、柚子が、急に泣き出してしまった。
詩乃は柚子の背中に手を回し、抱き付いてきた柚子を抱き止めた。
「ねぇ、つけてきていい?」
涙が収まった後、詩乃が頷くと、柚子は簪を持って洗面所に行き、簪で髪を結って戻ってきた。露になった首筋と簪の妖艶な輝きが、柚子のしとやかさの内に隠れていた色気を引き出している。泣いていたせいで若干潤んだ瞳が、またいっそう、詩乃の心を突いた。
新見さんはどんどん大人っぽく、綺麗になっていくなと、詩乃は思った。しかもその美しさと色気は、セックスシンボル的な魅力とは随分違う。愛情と知性から来るその美しさは深く、どこまでも吸い込まれてしまいそうになる。
詩乃は立ち上がり、柚子に近づいた。
どうしたのかと緊張する柚子に、詩乃はそっと目で微笑みかけた。
詩乃は、柚子の頬を両手で包むようにして触れた。
柚子はじっと詩乃を見つめ、詩乃は、柚子の頬と唇に吸い込まれるようにして、柚子の唇を奪った。唇を離した時、また二人は見つめ合い、詩乃は柚子のその熱い眼差しを受けて、息を呑んだ。詩乃は柚子の瞳に、壮絶な覚悟を見た。地獄巡りの話をしたときに柚子が見せたあの瞳の輝きだ。詩乃はそれで悟った。もう柚子の覚悟を見て見ぬふりはできない。
新見さんの一途さと愛情は、物語――殊に悲劇に見る愛情深い女性たちに見る献身と同じものだ。詩乃は、〈賢者の贈り物〉に出てくるデラや、〈レ・ミゼラブル〉のファンテーヌの愛を、柚子が自分に向ける愛情と重ねざるを得なかった。その深い愛情のために髪を売り、歯を売り、全てを売ってしまう――そういう凄まじさを、詩乃は、柚子の瞳の中に見つけていた。
詩乃は柚子を抱きしめた。
ふっ、と柚子は小さく息を漏らした。
「――ごめん」
詩乃は、柚子に言った。
「なんで?」
柚子は、掠れた声で聞き返した。
「――強くしちゃったね」
「いいよ。もっと」
詩乃は微かに笑い、柚子から離れた。
柚子は、少し困惑したような、不安そうな瞳で詩乃を見ていた。詩乃は柚子の頬を右手で撫でて、微笑んだ。
「すごく似合ってるよ。――なんか、全然月並みなんだけど、本当に」
柚子は、頬に触れる詩乃の手をぎゅっと握って、自分の頬により強く押し付けた。
「新見さん、暖かいね」
「よくお姉ちゃんに、湯たんぽって言われてた」
笑いながら、柚子は応えた。
詩乃はふと、カーテンの方に目をやった。何かが動いた気がしたのだ。
柚子もそれにつられて、詩乃の視線の先を追った。