雪の中(5)
「先輩、なんでそんな、鋭いんですか」
「え、そうなの?」
「ま、まぁ……アレですよ、別れたんですよ」
「彼氏と?」
「はい……」
「ふーん」
「反応薄くないですか!?」
また風が吹き、詩乃は顔をしかめた。
愛理は、他人事という風な詩乃の態度に腹を立てた。
「ちょっとは先輩のせいでもあるんですよ!」
「え、なんで?」
「別れた原因ですよ。――先輩の事、馬鹿にされたんです」
「元カレに?」
「はい。で、ムカついたんで振ってやりました」
ぷくくと、詩乃は笑った。
笑い事じゃないでしょと、愛理は怒って言った。
「それは、きっかけに過ぎない、ってやつでしょ。たまたまそのスイッチが、自分だったってだけで」
愛理は、もう一言、二言、詩乃に言ってやろうかと言葉を用意していたが、詩乃の言ったことが、まさに核心を突いていたので、愛理は一旦口を閉じた。
それから、少し間を置いた後、愛理は詩乃に質問した。
「なんでわかるんですか?」
「洪水は急には起こらないよ。上流の雨を知らない人が、鉄砲水に驚くだけ。――彼氏は、驚いてたの?」
「はい……」
「賢明だったんじゃない」
「何がですか?」
「別れたことが」
愛理はそう言われて、また言葉に詰まった。水上先輩は、どうしてこう、平気で心の深い所を刺してくるのだろうか。いつも先輩の言葉は、心の中に響く。良くも、悪くも。
「なんでそう思うんですか?」
はぁと、ため息をついた。説明するための言葉は腐るほどあったが、詩乃は、言葉の構成やら単語やらを考えるのが面倒になった挙句に応えた。
「その髪型が似合ってるから」
「なっ――」
愛理は、そんなことを言われるとは思っていなかったので、唇を引き結んで頬を固めた。
「あ、口説いてるわけじゃないよ」
「わかってますよ!」
詩乃はけらけらと、顔を赤くする愛理を見て笑った。
「――潮時かなって思ったんだけどね」
ひとしきり笑った後、詩乃が、ぽつりと言った。
「潮時、ですか?」
「うん。文芸部さ」
「どういうことですか?」
「引き際というかな……文芸部での自分の役割は終わったんだ、ということ」
「終わってないですよ! 先輩はまだ――」
「まぁいいから、いいから。そうじゃないって話だよ」
「ふぇ?」
頭がこんがらがって変な声で愛理は聞き返す。
詩乃はその声に少し笑って、先をつづけた。
「引き際とか潮時っていうのは、たぶん違う。正直言うと……」
詩乃はそこまで言うと頬に手を当てて少し考え、それから言った。
「もう、部長をやる気力がない。クリスマス部誌の短編も、書きあげた後は、何も書いてないんだよ。書く気力が無いというかね……早い話が、疲れたんだ。今は、何も考えたくない」
詩乃の声は弱弱しかった。
愛理は、そんな詩乃を見たのは初めてだった。
「……スランプですか?」
「いや、そういうのじゃない。文字を読むのも、書くのも、楽しいと思えないんだ。本当に、何も考えたくない。――だから愛理、勘弁してよ。今はちょっと、解放してほしい」
詩乃の言葉に嘘はなさそうだった。
愛理は、水上先輩は強いものだと思っていた。しかしそれが、自分の勝手に作り上げた虚像だったのに気づかされた。その衝撃に、愛理は立ちすくんでしまった。夏の合宿の時の、湯あたりで弱っている先輩よりも、今の先輩は、あの時の百倍くらい弱弱しい。
「――もしかして、先輩も別れた、とか……?」
恐る恐る、しかし怖いもの見たさが勝って、愛理は詩乃に聞いた。もしそうだったら、景気づけに思いっきり笑い飛ばしてやろう、そうしようと愛理は閃いた。
詩乃は、しょうがない奴だなぁ、というようなため息をついて答えた。
「この恋愛脳」
「えぇ! なんですかその悪口! あ、それ悪口ですか?」
「悪口だよ。なんでもかんでも恋愛のせいにするな」
「ごめんなさい……あ、じゃあ、違うんですか?」
「違うよ」
あぁ、良かったと愛理は胸をなでおろした。それと同時に愛理は、水上先輩が部を離れることは、もう止められないのだ、ということを受け入れた。
「――ちょっと先輩に頼りすぎでしたかね?」
愛理はそう言った。
詩乃は、愛理の明るい口調に目元を緩めた。
何も答えず、詩乃は空を見た。
愛理もそれにつられた。
今にも雪が降りだしそうな灰色雲が、空一面を覆っている。
「降りますかね?」
愛理が、ぽかんと詩乃に聞いた。
「降るかもね」
詩乃は応えた。
「そしたら、ホワイトクリスマスですね!」
愛理は、今ここで雪が降っているかのような、楽しそうな口調で詩乃に言った。視線を戻して体育棟の方を見れば、生徒たちが細線のイルミネーションライトを、建物脇に植えられた低木や花壇に飾り付けている。
「うん。――楼下より寒雲を仰ぎ雪の降るを想う、皆人心温かく聖夜輝灯を飾る、宴賑やかにして降雪陸離たり、客人何れかを知らず独り雪道を歩く――」
「え、なんですかそれ!?」
「詩、かな?」
愛理は驚いてしまった。
詩の意味や、単語も上手く聞き取れなかったのでほとんど分からないが、何か、すごい、ということだけは感じていた。
「詩、好きでしょ?」
「い、いや、まぁ、好きですけど……なんで急に」
「わからない。浮かぶ時があるんだよね」
えぇと、愛理は驚いた。
詩乃は驚く愛理に小さく笑った。
「――まぁ、そういうわけだからさ。いやでもね、今日雪が降るかもしれないでしょ。だから自分じゃなくて、頼るならそれに頼った方がいいよ」
「それって、どれですか?」
「雪とか雨とか、この寒さとか――そういうものを感じ取れる自分の感性に頼るんだよ。自分はいつもそうしている。今は、文章なんて書く気は起きないけど、そういう気力があるときは、そうしてた。――一人真っ暗な夜道を歩くようなもんなんだよ。燭光片手にそろそろ進むんだよ」
愛理は詩乃の言葉を聞きながら、やっぱり水上先輩は、もう私とも、部活の皆とも、今日別れるつもりなのだと思った。流れ星が、消える最後の一瞬にピカッと光る様に、水上先輩は、そういう言葉を、最後に私に残してくれようとしている――そんな気がした。
「じゃ、もう行くよ」
やがて、詩乃が言った。
愛理は、「はい」と返事をするしかなかった。それでもやっぱり、お昼一緒に食べましょうよと、愛理はもう一度誘いたかった。今生の別れでもないのに、愛理には、そんな気がしてならなかった。
「――先輩、また来年ですよ!」
歩き出した詩乃に、愛理が言った。詩乃は愛理に軽く手を振り、CL棟から離れていった。
夕方、詩乃は柚子の家に着いた。インターホンを押すと、玄関の扉を開いて柚子が出てきた。ライトベージュのワンピース、ミディ丈の縦ひだ裾が柔らかく揺れる。
「ようこそ」
と、柚子はそう言いながら、門の前にやってきて、詩乃のために門を開けた。詩乃は、柚子の胸元を見てドキリとしてしまった。波襟のVネック、その胸元にはトリニティリングとダイヤモンドのネックレス。詩乃はてっきり、新見さんは部屋着でいると勝手に思っていたので、驚いてしまった。
柚子は詩乃を家にあげ、リビングに通した。リビングには誰もいず、詩乃はリビングのソファーに座るよう、柚子に案内された。手提げを置き、コートを柚子に預け、詩乃はソファーに座った。
「ここで、いいの?」
「うん。今日誰もいないから」
さらりと、柚子は言った。
え、誰もいないのと、詩乃は緊張した。
柚子の入れてくれた紅茶に砂糖を入れて、スプーンでかき回す。柚子は詩乃の隣に坐り、同じようにする。柚子は詩乃の肩に自分の肩を寄せて、軽く詩乃に寄りかかった。詩乃は、自分の安物のニットに柚子が頬をつけるので、「ちくちくするでしょ」と心配して聞いた。こんなことなら、もうちょっとふわふわした良いのを買って着て来れば良かったと思った。
柚子は、詩乃の肩に頬をつけながら首を振り、両手を詩乃の膝の上に乗せた。
「寒かったでしょ」
「うん」
詩乃が答えると、柚子は詩乃の右手を取って、両手で握った。
詩乃は小さな吐息を漏らした。
自分の身体が強張っていたのに、詩乃は気づいた。
寒さのせいだろうか。
「今日雪降るかな?」
柚子が言った。
「雪の予報出てるよね」
「降るといいなぁ」
柚子の柔らかい声に、詩乃はつい微睡んでしまう。
その後柚子は、詩乃をダイニングテーブルに座らせ、自分は夕食の準備に取り掛かった。
長方形のダイニングテーブルには爽やかなブルーストライプに猫の足跡模様のテーブルクロスが敷かれ、ふっくらした丸い花瓶に一輪の赤薔薇が差してある。花瓶の隣、薔薇の花の下には、詩乃がプレゼントしたペンギンのスノードームが飾られていた。