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星の海で遊ばせて  作者: ノマズ
4,月の光に見上げれば
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雪の中(4)

 考えさせてください、と詩乃は言った。


 相続放棄のための準備もしておきますと弁護士は詩乃に伝えた。


 弁護士との話し合いは一時間ほどで終わり、灰色の曇り空の下、詩乃はその足で学校に戻った。この日は二学期の終業式で、三年生も出席していた。詩乃が学校に戻ってきたのは終業式の終わった直後だった。夕方からクリスマス会があるので、終業式の後は、ダンスホールになる体育館や中庭で生徒たちが飾り付けをし始め、調理室からは甘い香りが漂って、生徒たちの舌と期待を刺激した。料理部が、ダンスパーティーで出す立食用の料理や菓子を作り始めたのだ。


 詩乃は久しぶりに、部室に顔を出すことにした。正確には部室にいる部員たちに。ちょうど健治には、渡したいものもあった。





 詩乃が部室に入ると、ちょうど部屋には健治がいた。


「水上先輩! 久しぶりじゃないですか!」


「……なんでクリスマス前にまた坊主にするかなぁ」


 詩乃は、健治の剃りたてのヘアスタイルを見て思わずそう言った。健治はじょりじょりと、自分の頭を撫でた。


「皆は?」


「体育館に部誌運んでます。もう帰ってくると思いますけど」


 そう、と詩乃は頷いた。


「先輩は今日は、踊るんですか??」


「え? あぁ、ダンス? 踊らないよ」


「え……」


 健治は、間違ったことを聞いたかなと思って固まった。詩乃は、小さく笑いながら補足した。


「別れたわけじゃないよ」


「あぁ、なんだ……」


 そう言われて、健治はひとまずほっとする。


「先輩、たまには新見先輩、連れて来て下さいよ。全然連れて来てくれないじゃないですか」


「え?」


「一言だけでも言葉を交わしてみたいんです……」


 詩乃は、今度こそ笑ってしまった。健治は、柚子の事を本当にアイドルだと思っている。ブレないなぁと、詩乃は感心すらしてしまう。そして、柚子が褒められて詩乃も悪い気はしなかった。とはいえ、部員のいる所に新見さんを連れてくるかは、また別の問題である。


「健治――」


「はい」


「洞察力が足りないよ」


「え、何のことですか?」


「部のことだよ。新見さんを連れてきたら、嫌な思いをする子がいるんじゃない? だから連れてこないんだよ。――でもその意味は……なんで坊主にするかなぁ、クリスマスに」


 詩乃はため息をついた。


 柚子の言葉の意味が分からず健治が困惑している所へ、部室の扉を開けて、由奈、愛理、花依、そして井塚の四人が戻ってきた。


「あ、先輩!」


 詩乃を見て、まず声を上げたのは愛理だった。


 愛理の髪型が変わっているのに、詩乃は少し驚いた。耳が微かに隠れるくらいのショートボブ。髪型のせいか、見た目の印象が前より明るい。


「久しぶりじゃないですか! 来るなら来るって言ってくださいよ!」


 愛理が言った。


 由奈も、花依も、詩乃に歓迎の笑顔を向ける。井塚も、少し恥ずかしそうにしている。皆の様子を見て、詩乃は自分が、すでにOB扱いされているのを感じ取った。十月も部活は休みがちだった。十一月、十二月は今日まで、数えるほども部の活動時間中に部室には顔を出さなかった。文化祭、そして今週の頭に完成した部誌と、メールで送られてきた文章に対しては添削や改稿のアドバイスはしたが、ページ割りを決めたり、印刷業者とのやり取りをして作り上げたのは、後輩たちだ。自分抜きで、二つの部誌――特にクリスマスの部誌の方は完全に自分無しで、完成させた。その五人の連帯感、一種の結束力のようなものを、詩乃は後輩たちの笑顔から感じ取った。


 もうここは、自分抜きでやれるんだな、と詩乃は思った。そしてそのことを、さほど寂しいとも思わなかった。それを自覚して、詩乃は、昨年自分が文芸部の存続に注いでいた情熱のようなものが、今はもう自分の中から消えているのを知った。


「ちょっと寄っただけだよ」


 詩乃はそう言った。


 ベージュのコート、黒のショルダーバックを片方の肩にかけ、両手を腰のあたりで重ねる詩乃の立ち姿――愛理はその大人っぽい雰囲気に、別れの気配を感じた。


「この後、みんなでご飯行くんですけど、水上先輩も一緒にどうですか」


 由奈が言った。


 詩乃は、由奈の声が、随分しっかりしているのに驚いた。高くて細い声だが、言葉一つ一つの輪郭がはっきりしている。


「いや、もう行くよ」


 詩乃は答えた。


「え、今来たばっかりじゃないですか!」


 健治が言った。


 詩乃はささやかな笑みを浮かべて首を振り、手提げから、クリアファイルに入れて持ってきていた、ある用紙を取り出すと、それを健治に渡した。


 用紙は、部長変更届けだった。詩乃のサインはすでに記入済みである。


「これを渡しに来ただけだから」


 健治はクリアファイルごと用紙を受け取り、その内容を確認すると、詩乃の顔を見た。早い所だと九月や十月で部長を次の代に渡す部もあるが、文芸部の皆は――健治も、詩乃は三月満期まで部長を続けるものだと思い込んでいた。


「え、でも――」


 戸惑う健治に、詩乃は言った。


「問題ないよ。そう思うよ」


 詩乃は、優しい眼差しを健治に向けた。


 健治は、唇を震わせた。


「――じゃあ、皆、またね。良いお年を」


 詩乃はそう言うと、全員と軽く目を合わせ、そして、踵を返して部室を後にした。廊下を出て、数歩行くと、部室の扉の閉まる音が聞こえてきた。詩乃は振り返らず、「はぁ、寒いな」と、独り言を零しながらCL棟の下駄箱まで歩いた。


 靴を履きながら、さてこの後どうするかと、詩乃は考えた。


 この後は、詩乃は夕方、柚子の家に行くことになっている。しかし、詩乃の考える〈この後〉というのは、単純にそのスケジュール的なことだけではなかった。


 父の残した借金と、それをどうするかということ。考えたくはないけれど、頭は自然と、そのことを考えだしてしまう。


 借金の返済――すべてを放棄する方法もある。担当弁護士はそれを自分に勧めている。


 確かに、合理的に考えれば、弁護士の言うのが尤もだと、詩乃もわかっていた。お金という、数字だけで考えても、世間一般の、子が負うべき親に対する道義的責任のことを加味して考えても、父の借金などは、自分が払う必要はない。相続を放棄しても、誰も文句はなわないだろう。


 しかし詩乃は、この借金に、宿命のようなものを感じていた。


 父なら、絶対に相続放棄を選ぶだろう。


 自分が得をするように、平気で決断を下すだろう。


 でも自分は、父さんとは違う。父さんのような、非道な人間にはなりたくない。けれどここで自分が、相続を放棄して――つまり、自分の得を考えて、その決断をしてしまったら、自分は、父と同じような人生を歩むのではないか。父は、嫌いだけれど、自分と父は、基本的には似ているのだ。だから、父の言動は、酷いとは思いながらも、父ならそう言うだろう、やるだろう、ということはたぶん、誰よりもよくわかっていた。自分の中には、どうあがいても、父がいる。


 きっと今自分は、岐路に立っているのだ。


 どういう人間になるのか、という人生の分岐点に。


 詩乃がCL棟の昇降口を出た時、その後ろから、バタバタと愛理がやってきた。


「ちょっと、ちょっと待ってください、先輩!」


 コートも着ずに、薄紅色の厚底スニーカーに無理やり足をねじ込んで、走ってよろけながら詩乃のもとにやってきた。


「やっぱり、一緒にご飯行きましょうよ」


 息を弾ませて、愛理が言った。デートならしょうがないですけど、と小さく続ける。


「なんでそんな……」


「――だって先輩、いつもご飯行かないじゃないですか! たまには行きましょうよ」


 詩乃は答えず、唇を結んだ。


「先輩、もう部活来ないんですか……?」


「行くよ、余裕があるときは」


「冬休みの勉強会は来ますか?」


「何?」


「文法の勉強とかやるんです」


「あぁ……」


 そういえば、そんなことを、部員たちがこれまでも休日や休み期間中にやっていたな、と詩乃は思い出した。詩乃は一度も、それに参加したことはなかった。


「……私たち、ダメな後輩ですか?」


「え?」


「ダメだから先輩、匙投げちゃたんですか?」


 何を言い出すのかと、詩乃は眉間にしわを寄せた。


「置いてかないでくださいよ……。まだいろいろ、教えて下さい」


 今日は随分しおらしいことを言うなと、詩乃は思った。


 風が吹いた。


 詩乃は肩を窄め、愛理に聞いた。


「寒くない?」


「寒くないです」


 怒ったように愛理は即答した。


 詩乃は眉間の皺を緩めた。


「愛理、神原先生から何か聞いてる?」


「え、神原先生ですか? 聞いてないですけど……まさか先輩、留年とかですか!?」


「違うよ」


 失礼な、と詩乃は思ったが、確かに必修科目は、負の積み重ねのせいもあって出席日数が足りていなかった。なかなか鋭いなと詩乃は思いなおして、逆に愛理に感心してしまった。


「え、先輩、何かあったんですか?」


「いや、何もないけど」


 愛理は詩乃の顔を、刑事のようなじとっとした目で見つめた。


「そりゃ、生きてるんだから、ちょっとしたことくらいはあるよ」


 詩乃が言うと、愛理も、うっと言葉を詰まらせた。


 愛理にも何かあったんだなと、詩乃は悟り、ほら、と笑みを浮かべて見せた。


「その髪型と関係あること?」


 愛理は今度こそ目をパチッと開いて、自分の髪を両手で押えた。まるで、かつらがズレるのを押えているみたいだなと、詩乃は一人でそんな事を想像し、小さく笑った。

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